グエン  ・クアン ・フオン

 NGUYEN QUANG PHUONG

Profile & Message

2001年:  交換留学生として名古屋外国語大学に1年間留学

2004:  貿易大学卒業、ベトナムのUnilever社に入社

2007:  貿易大学に戻り、銀行・金融専攻の講師に務める

2011:  銀行に転職し、ファンドマネジメントを担当

2017:  妻が日本留学の奨学金をもらい、家族全員で来日

2019:  ベトナムの大手企業に入社

2020:  日本企業に転職し、投資関係の業務を担当

2023:  ベトナムの不動産スタートアップに転職し、新しい業界にチャレンジ

「35歳の時、安定した生活とキャリアを捨て来日し、37歳の時に日本で初めて正社員としての仕事を見つけ、40歳になる頃には、完全に新しい分野での挑戦を始めました。私の過去6年間の人生の旅物語が、30歳を超えてから日本で新しい生活を始めようとしている人々の、刺激や励みに少しでもなれば幸いです。私たちが本当に望むなら、新しい冒険を始めるのに遅すぎることはありません。」

20年前からの日本との縁

私と日本の縁は2001年に始まりました。その年、私は名古屋外国語大学の交換留学生として1年間の奨学金をもらって来日しました。

20年以上前のインターネットは現在のように発展しておらず、アルバイトを探す主な方法は、駅にある求人情報を掲載した雑誌を見て、飲食店などを直接訪ねることでした。そのような方法しかなかったので、私は最初のアルバイトを見つけるのに3か月もかかりました。

当時の奨学金は多くはありませんでしたが、学費や寮などあらゆる面で学校がサポートしてくれたので、アルバイトをしなくても生活費や日本のさまざまな場所での旅行と体験を楽しむには十分な金額でした。

しかし、日本語スキルを向上させるために、毎日学校から帰った後、週5日5時間のアルバイトをしていました。一生懸命アルバイトをしたおかげで、私の日本語スキルが著しく向上し、さらには、日本で好きな場所を訪れ、新たな経験を積むための少しの貯金もできました。日本での最初のアルバイトの給料は、私に自分の労力で得たお金の価値をより深く理解させ、それを大切に思わせました。

交換留学生として日本に留学した後、貿易大学に復学し、卒業まで通いました。またいつか、もう一度日本に行って、さらに多くの場所を訪れ、より多くの経験を積もうと自分に言い聞かせました。しかし、思わぬことに、その願いを実現するまで15年もかかりました。

家族の新しい道

貿易大学を卒業した後、Unileverに新卒採用され、ホーチミン市に移住してUnileverで働き始めました。

最初の仕事で私は多くの知識とスキルを得ることができましたが、3年間社会人として働いたあと、より多くの知識を得るために大学院に進学したいと考え始めました。しかし私費ではなく、公費で進学する方法を目指したかったので、講師として貿易大学に戻り、進学できるチャンスを待っていました。私は貿易大学で働いていたころ、同じく大学の講師をしていた今の妻と出会い、結婚しました。

2011年にイギリスでの修士プログラムを修了し、ベトナムに帰国しました。帰国後に国内の大手銀行へ転職し、ファンドマネージャーとして新しい分野に挑戦し始めました。私はこの会社で6年間働き、家族に大きな出来事がなければ、今後も続ける予定でした。

その出来事とは、妻が日本の大学の博士課程に進学するための留学奨学金を受けることになったことです。

当時、私のベトナムでの生活と仕事はかなり順調でした。私たちは家と車を持ち、安定した収入もありました。子供たちの世話は祖母がサポートをしてくれており、家事を手伝ってくれる人もいました。週末にはサッカーをしたり、友達とビールを楽しむ時間もあり、生活を満喫していました。

妻が日本で3年間の留学奨学金を受けることが決まった時、私たちは両方の家族とも真剣に相談しながら、どのように進むべきかを話し合いました。35歳で、ベトナムでのキャリアが既に安定していた私が、家族全員を連れて来日し、ゼロから再スタートする道を選ぶとは誰も考えていなかったでしょう。しかし、私はその選択をしました。

家族が3年間も離れて暮らすのを望んでいなかったこと、そして妻が努力して得た奨学金を手放すことも望まなかったからです。それに、ここ十数年間、毎日の生活や仕事に追われ、いつか日本へ戻るという願いが薄れているかと思いきや、妻が日本留学の奨学金を受けることが決まったとき、その感情は再び私の心に戻り、昔の思い出がまた頭に浮かんできました。私たち夫婦がこの選択をした最後の理由は、子供たちの将来を考えたからです。子供たちに日本で、より良い教育を受ける機会を与えたいと思っていました。

そのようにして、私はベトナムで築いたすべてのキャリアを捨て、新しい環境に挑戦するため、家族滞在のビザで日本に移住することを決意しました。当然、今回家族全員を日本に連れて来ることを選択する際に、私は日本で新たなキャリアを築くことを決意しました。3年後に妻が奨学金を終えたとき、私は既に38歳になります。その歳でベトナムに戻り、ゼロからキャリアを再構築することは簡単ではないでしょう。

アルバイトで身につけたスキルとマナー

10年以上もの間、日本語を使わなかったため、日本語力がかなり低下しており、最初の数ヶ月はかなり多くの困難に直面しました。子供たちの学校の先生とのコミュニケーションにも不便を感じたし、バイト探しでも、日本語の会話能力が不十分という理由で断られました。

しかし、社交的で積極的な性格なので、日本語がまだ得意でないにもかかわらず、子供を学校に送り迎えする際に子供の同級生のパパ・ママたちに積極的に声をかけて、何人かと友達になりました。その中の一人が、私が家計のためにアルバイトを探していることを聞いて、家の近くにあるマクドナルドのアルバイトを紹介してくれました。

 

京都は歴史的な町で、留学生が少ないため、私が働いたマクドナルドの店舗は、スタッフ全員が日本人でした。そのおかげで、ここで働く間に、彼らから多くのことを学びました。日本語だけでなく、日本人の仕事のマナーや勤勉さについても学びました。

私の仕事は主にゴミ捨てや掃除、キッチンで料理の手伝いなどでしたが、あらゆることに細かい決まりがありました。正直、日本人スタッフの必要以上に細かいやり方や注意などで時々煩わしさや不快感を感じることもありました。しかし、徐々に私は、この仕事での注意深さが、日本人の非常に尊重すべき性格の一部であり、日本で長期間生活し、働くためには学ばなければならないものだと理解しました。

ベトナムでの安定した高収入の仕事を捨てて、日本で掃除や皿洗いの仕事をしている今の自分に後悔や落胆を感じたりしないのかと時々友達に聞かれました。しかし、約1年半以上のマクドナルドでの勤務の中で、私は一度も選んだ道について後悔したり、退屈したことはありませんでした。常に前向きに考え、このアルバイトは家計のためにやっているだけでなく、日本語を磨き、日本人の働き方を学ぶためだと思っていました。本当の意味で日本社会に深く参入し、正規のフルタイムの仕事を見つける前に、通らないといけない道だと覚悟したからです。

初めての正社員としての仕事

2019年5月、マクドナルドでの約1年半のアルバイト経験の後、自分の日本語能力がかなり向上したと感じ、日本の採用市場についても十分に調査できたと思ったので、正社員としての就職活動に取り組み始めました。

履歴書選考などを経て、ベトナムの大手IT企業から、面接のオファーをいただきました。仕事の内容はその企業の取引先で派遣社員としてセキュリティレポートのチームリーダーを担当することです。

私は京都に住んでいましたが、会社が神奈川にあるため、最初は会社がオンライン面接を提案しました。ただし、オンライン面接では自分のいいところを伝えることが難しいと感じたため、私は人事部と連絡を取り、面接を対面形式で行えるよう手配してもらいました。私は京都から神奈川まで移動し、面接を受けることになりました。

この決断により、私は日本での最初の正式な仕事の機会を得ることができました。たった30分の対面面接の後、企業は私を採用することを決めました。

内定の通知を受けて、2年間肩に背負っていた重荷から解放されたような気がしました。速やかに家族滞在のビザから技術・人文知識・国際業務のビザに切り替える手続きを行い、その後、先に一人で神奈川に引っ越ししました。

仕事と生活環境が整った半年後、妻と2人の子供も京都から引っ越してきて、再び家族団欒ができました。妻は、留学ビザから私の家族滞在ビザに変更しました。子供たちは、京都で過ごした2年以上の仲である友達とお別れをしなければならなかったものの、とても適応力がある子たちなので、新しい環境に慣れるのに多くの時間はかかりませんでした。

 

私が派遣された取引先企業は、日本の大手自動車グループです。私は安全報告の責任者として、毎日、日本側に報告しています。ただし、この仕事を担当するのには多くの困難に直面しました。

まず第一に、言語の問題がありました。日本で2年以上過ごし、聞く力や話す力がかなり向上したとはいえ、ビジネス環境で専門用語を使って仕事をするのには、まだまだ不十分だと痛感しました。そして、この仕事は技術に深く関連していますが、私のバックグラウンドは経済と財務であるため、チームが議論しているトピックを理解するのに他の技術系の同僚と比較して時間がかかりました。

仕事の方向について悩んでいたとき、新型コロナウイルスが発生しました。生産が停滞し、経済が困難な状況下で、多くの日本の製造会社が派遣社員との契約を解除していました。このような状況で、派遣社員として取引先企業での仕事を続けていては、今後のキャリアが限られてしまうと感じました。そこで、私は別の機会を探すために転職を決意しました。

新居購入と新しい挑戦

 前述したように、私は常に積極的に人との関係を築いていくように心がけています。ベトナムで仕事をしていた時、日本に関連するいくつかのプロジェクトを担当していたので、日本のお客様との関係を築いていました。その中でも、とても仲良くしていただいている一人の方とは今でも連絡を取り合っています。京都にいる間は、距離的に遠かったため、彼との連絡は主に電話やメールでしか行なっていませんでした。しかし、神奈川に引っ越したことで、かなり近くなったので、時々会って一緒に飲んだり話したりしました。転職についても相談し、日本の鉄鋼関連の会社を紹介していただきました。この会社はベトナムへの投資を検討している日本の鉄鋼企業です。彼らはベトナムの投資環境、流動性などについて理解があり、日本語スキルも十分な人材を求めていました。これは私の経験に合致する分野であり、日本での第二の仕事を得ることができました。

 

私の新しい会社での主な業務は、ベトナムへの投資プロジェクトをサポートすることです。投資許可証の取得、ベトナムでの工場建設の許可証取得、投資ファンドの管理、企業のキャッシュフロー管理などが含まれます。ベトナムの金融業界で10年以上に渡り築いたすべての知識と経験は、ここで十分に活用されています。自分のスキルを最大限に発揮できていることで、とても快適に自信を持って仕事ができています。

2022年末、2社目での勤務開始から約3年後、生活を安定させるため、東京で小さな家を購入し、定住することを決意しました。家族から少し資金的な援助をしてもらい、不動産業をやっている貿易大学時代の後輩のサポートで、ついに理想的な家を見つけることができました。


全ての物事が順調に見えた中、また私たちの家族に大きな変化をもたらす出来事が起きました。

3年間ベトナムへ投資をした結果、私の会社はついにベトナムの工場を完成させました。そして会長から、ベトナムの現地工場に異動し、1〜3年間管理をして欲しいと打診されました。ただ、私の2人の子供たちは成長しており、父親の教育が必要なので、今は家族から離れてベトナムで単身赴任することはできないと感じました。

何度か交渉をしましたが、妥協点を見つけられなかったので、仕事を辞めることにしました。今の家族の状況に合った新しい場所を見つけようとまた意気込みを入れました。そして、ちょうどその頃にまた新しい機会が訪れました。以前、物件探しを手伝ってくれた貿易大学の後輩の会社が新しい人を募集しているという求人を目にしました。私たちの間には共通点が多く、彼のビジョンにも同感し、近い将来、日本でのベトナム人向け不動産市場の可能性も非常に高いと感じたので応募してみました。

会社の顧客であり、大学では先輩であるという立場でも、私も他の全ての応募者と同じく、選考プロセスと面接を経て、採用されるまでにさまざまなステップを踏みました。

新しい会社に入社して半年が経ちました。毎日学ぶことがたくさんありますが、新しい仕事に対するやる気を感じています。新しい分野であっても、以前の仕事から得た多くのスキルを活かすことができます。例えば、Unileverで学んだ営業スキルは、顧客との対話がスムーズになるのに役立ちます。また、財務分野での知識と経験は、銀行との協力や顧客への資金フローに関するアドバイスを提供する際にも役立ちます。

宅建士という国家資格に合格することが、日本の不動産分野でのキャリアを発展させるための重要なステップです。これは非常に難しい資格で、日本の不動産分野で長年の経験を持つ多くの日本人でも、合格に2〜3年かかることがあります。そのため、この目標を達成するために、コツコツと学習し、努力しようと思っています。早く帰宅しても、遅くなった時でも、私は毎日試験合格を目指して時間を割いています。2年以内に合格することが目標です。

メッセージ

 6年前、ベトナムでの安定した生活と出世街道のキャリアを捨て、35歳で来日し、ゼロから再スタートすることを決断した時、多くの友人たちが思い留まらせようとしました。彼らにとって、それは大胆すぎる決断だと思ったからです。

私自身と家族も、日本に来たばかりの時には不安と疑念を抱かずにはいられませんでした。しかし、周囲の人々との関係の中で、私は常に前向きでオープンな姿勢を持って接していたため、多くの友人、知人からさまざまな面でのサポートを受けることができました。日本語が不得意な私にバイトを紹介してくれたり、転職の手伝いや、住居を探すのを助けてくれたりしました。

皆さんの協力のおかげで、来日して6年間、私はベトナムにいた時と同じくらいの安定した生活を送ることができています。

35歳の時、安定した生活とキャリアを捨て来日し、37歳の時に日本で初めて正社員としての仕事を見つけ、40歳になる頃には、完全に新しい分野での挑戦を始めました。私の過去6年間の人生の旅物語が、30歳を超えてから日本で新しい生活を始めようとしている人々の、刺激や励みに少しでもなれば幸いです。私たちが本当に望むなら、新しい冒険を始めるのに遅すぎることはありません。

東京、2023年9月