フォン・ルア

 HUONG LUA

Profile & Message

2015年8月: ハノイ建設大学建築学科卒業

2016年5月: 結婚して3か月後、家族滞在ビザで来日

2017年8月: 長女誕生

2020年1月: 建築会社でアルバイトを始め、その後正社員になる

2020年6月: コロナの影響で解雇され転職

2022年4月: 次女誕生

2023年5月: 仕事に復帰し、ホームステイの事業に挑戦

すべての分野でN3の日本語能力だけで仕事を見つけるのは難しいことも理解しています。しかし、自信を持つことと、新しい機会を見つけるための意欲を持つことは、非常に重要です。時間がある限り、一生懸命に日本語を学び、自分のキャリアに関連するあらゆる知識や資格を身につけたり、経験を積んだりするといいでしょう。夢を持って努力し続ければ、皆さんが自分自身と家族に合った素晴らしい仕事を見つけることができると確信しています。

右も左も分からない日々

2015年、建築学部を卒業した後、ベトナムの会社で建築設計の仕事に就きました。その頃、同じ大学で学んでいた夫(当時は彼氏)が2014年に来日して、仕事をしていました。彼は日本での生活環境と仕事が自分に合っていると感じていたので、二人で話し合った結果、日本で新しい生活を築くことになりました。

ベトナムで結婚した後、ひとまず家族滞在のビザで来日し、生活が落ち着いたら私の日本でのキャリアも考える流れになり、私はベトナムでの仕事を辞めて、日本語の勉強に専念しました。勉強して2ヶ月間も経たないうちに、ビザの結果がおりて、N5未満の日本語レベルの状態で来日しました。

日本に来たばかりの時、他の在日ベトナム人との繋がりがまだなかったので、情報もあまり入ってこず、家族滞在ビザのままでは日本語学校に通うことができないと勘違いをしていました。私が日本に入国した頃は、もうすでに留学生の入学時期を過ぎていました。留学のビザに切り替えても間に合わないと思ったので、そのまま独学で日本語を勉強し続けることにしました。日本語はまだ初級でしたが、週末に夫婦で近所のお店を回ってバイトを探してみました。

ある日、レストランの外に求人が出ているのを見て、夫に外で待ってもらい、私は訪ねに行きました。 少ししか日本語が話せない私を見て、お店の人は家で待つようにと言いました。断られたとも知らず、私はその後2ヶ月もずっとお店からの連絡を待っていました。今振り返ってみると、彼らは丁寧な言葉で断ったのですが、私の日本語があまりにも下手だったので、理解できなかっただけでした。

2ヶ月間ずっと待っても、お店から何の連絡もなかったため、私は友人に仕事を紹介してほしいと頼みました。その時、野菜加工工場で働いていた友人が急遽辞めざるをえない事情があったので、私を工場の人に紹介してくれました。やっと仕事が見つかって、とても喜んでいましたが、出勤して2日目にひどいめまいと吐き気に襲われました。最初は単に慣れないことが原因だろうと思っていましたが、病院で診断した結果、妊娠したことがわかりました。

初めての妊娠なので、色々なことで不安になりました。このまま仕事を続けて、万が一何かあったら、お腹の赤ちゃんに影響があるかもしれないと心配し、結局安静を保つために仕事を辞めることにしました。その時期はつわりがひどく、モチベーションを上げる理由も見当たらず、日本語の勉強を続ける気力を感じませんでした。家にいる間も、ほとんど日本語の教材に触れることはありませんでした。家事や食事の準備に追われながら、時折、日本での出産や子育てに関する情報を調べるため、同じく日本に住むベトナム人の母親たちと交流ができる、在日ベトナムママのコミュニティに参加していました。

N3未満の日本語能力で正社員の仕事に挑戦

2017年8月に長女を無事に出産しました。赤ちゃんはよく熱を出したり、風邪をひいたりしていて、そのたびに夫は仕事を休まないといけませんでした。私の日本語だけではどうしても先生に子供の症状を伝えられなかったし、先生の言ったことや診断結果を理解できなかったからです。この時、私は初めて妊娠した時に、ちゃんと日本語を学ばなかったことを後悔しました。妊娠中に時間がたっぷりあったのに、なぜ日本語の勉強をしなかったのだろうとずっと後悔していました。小さなことから大きなことまで、とりあえず日本語が必要な場面では全部夫に頼らないといけない状態になって、夫にも申し訳ないと思うし、不便だと痛感しました。

子供が1歳になって、保育園に申し込んでみましたが、私が働いていないので、どこの保育園にも入れることができませんでした。その後、一時的にベトナムに戻り、子供が少し大きくなるまでの間、ベトナムで生活してみるという選択も検討しました。しかしベトナムに戻った後に、家族がバラバラになることはあまりにも合理的でないことに気付き、結局、私たちは日本に戻ることにしました。

幸いなことに、日本に戻ってから、近くのベトナム飲食店のオーナーであるベトナム人女性と親しくなり、その女性のサポートを受けて、子供が通園する許可を得るために一時的に彼女の店で働くことができました。子供が保育園に入学した後、私は近くの語学学校で日本語の勉強を始めました。子供が保育園に通うようになったため、毎日連絡帳を書いたり、保育園の先生と子供について話をしなければならないので、以前のように夫に頼ることはできませんでした。私自身も日本語のスキルを向上させるために努力する必要がありました。

日本語学校で勉強した後、私は以前よりもコミュニケーションに自信を持つようになり、友人の紹介もあって、コンビニのアルバイトに応募してみました。その頃の私の日本語のスキルは、N5からN4へ少し向上したものの、レジの仕事をしたり、お客さんと直接会話をしたりすると、どうしても焦ってしまいました。学校の先生方は私が理解できるようにゆっくりと話してくれたり、簡単な言葉を使ってくれることが多かったのですが、実際の現場ではいつもそう簡単ではありません。幸いなことに、シフト上他のベトナム人のスタッフと一緒に働くことが多く、彼らからのサポートとアドバイスを受けることで、最初の壁を乗り越えることができました。

子供が保育園に通えるようになり、自分も現在の日本語スキルに合ったバイトを見つけたので、建築の仕事に戻ることを考えなくなりました。正直言って、その時点での私の日本語のスキルはN4で、まだN3に達していなかったので、専門職の建築関連の仕事を探すのは難しいと感じていました。しかしある日偶然、大学時代の先輩で、現在日本に住んでいる方と話す機会がありました。

彼も家族滞在ビザで来日して、建築の専門職に付くためにエンジニアのビザに切り替えました。彼は私に、「コンビニでの仕事を続けていては、いつになったら建築の仕事に戻れるか分からない」と言いました。彼の知り合いの会社がかなりの人手不足で、バイトも募集しているから応募してみたらどうかと勧めてくれました。私の日本語はまだ上手くないかもしれないけれど、専門知識があるし、会社には他にもベトナム人がいるから、何とかなるだろうと励ましてくれました。ここでバイトをすることは、少なくとも私の専門知識を活かす機会になり、日本語が上達すれば、フルタイムの仕事に戻れる可能性もあると考え、思い切って挑戦してみました。

日本に来てから初めての就職面接だったので、とても緊張しました。その先輩はとても協力的で、仕事の紹介だけでなく、面接のトレーニングにも熱心に付き合ってくれました。一生懸命に練習したおかげか、面接時にはいつもより滑らかに話せました。ちょうど会社も急いで人を採用したかった様で、面接の場ですぐに部長さんから採用と言われました。しかも、アルバイトではなく、正社員として採用されることになりました。

ただし、家族滞在ビザのままではすぐ正社員として仕事ができないため、最初はアルバイトとして働きながらビザの結果を待っていました。その1ヶ月後にやっとビザの結果が降りて、本格的に仕事を始めました。当時の私の日本語能力はN4からN3の間くらいでしたが、本当に信じられないほど早く正社員としての仕事を手にいれることができて、周りもみんな驚きました。

家庭と仕事の両立とコロナの影響

私の勤務先は建築設計会社で、私は建物のドアの図面を担当しています。会社には日本人のスタッフの他に、私を含めて4人のベトナム出身のスタッフが働いています。その中には、私よりも長い間フルタイムで働いているスタッフが1人おり、残りの2人は私より約1か月後にアルバイトで雇われました。ベトナム人スタッフがいるおかげで、私は少し安心して働くことができました。

1年間ベトナムの建築会社で働いた経験がありましたが、今担当している仕事は以前の仕事と全く関係がないので、入社した当初はかなり時間をかけて専門知識を学ばなければなりませんでした。今まで学んだ日本語は、日常会話がほとんどだったので、仕事を理解するためには、専門用語の日本語も頑張って勉強する必要があります。会社が用意してくれた教材を熱心に学びながら、新しい言葉を毎日メモし、復習することを心がけていました。

仕事だけでなく、育児との両立を実現させるためにも工夫する必要がありました。通常だったら、子供がいる働くママは時短勤務の制度を活用することができるのですが、私は入社して間もないので、その制度を利用することができず、他のスタッフと同じく毎日8時間勤務でした。それに、通勤時間もあるので、アルバイトをしていたときに比べて、家で子供の面倒を見る時間が大幅に減りました。家族の新しい生活リズムに合わせるために、私と夫は真剣に話し合いをして家事の分担を決めました。朝、私は子供の朝食を用意して出勤し、夫が子供にご飯を食べさせて学校に送り出します。夜は、私が子供のお迎えと夕飯の支度を担当し、夫は食器を洗ったり、洗濯物を干すなどの家事をします。子供が寝た後に、その日に学んだ単語を復習したり、わからない言葉を調べたりしていました。

約3か月後、新しい生活スタイルに慣れ始めたばかりでしたが、日本で新型コロナウイルスの感染が急速に広まりました。都内の保育園はほぼ閉鎖されるか、運営していても可能な限り子供を家で待機させるように呼びかけていた状況でした。私たち夫婦は両方とも会社から在宅勤務を指示されました。もし子供を保育園に預けたら感染する可能性があると心配したので、子供を保育園には預けないことにしました。子供が一日中家にいる場合、私たち夫婦は一日中コンピュータの前に座って仕事をするわけにはいかないので、子供の世話を交代で行いました。どちらかが仕事をしている間、どちらかが子供と遊んだり、ご飯を食べさせたり、寝かしつけたりしました。私たちは時には夜遅くまで仕事をして、8時間労働を確保するために努力しました。

数か月間このニューノーマルな生活を送ってましたが、コロナの影響で会社の業績が悪くなり、人員を削減するという理由で、私は他の何人かの日本人社員と一緒に解雇されました。

初めてこの知らせを受けた時、私は非常に混乱しました。当時はコロナの影響により、どこも人員削減のニュースばかりで、採用募集の広告を見ることはほとんどありませんでした。しかし、夫はずっと私が再就職できるように頑張ろうと励ましてくれました。今回は誰かの紹介ではなく、自分で就職活動をしてみたらどうかと提案してくれました。内定が決まらなくてもきっといい経験になるし、最悪の場合、再び家族滞在のビザに戻り、昔みたいにまたアルバイトをしても大丈夫だと言ってくれました。その励ましの言葉に勇気をもらって、私は再びフルタイムの仕事に応募してみることを決心しました。

当時、コロナが広がっていて、外出することを極力控えていました。仕事がなくて、一日中時間があっても日本語のボランティアクラスや就職支援講座に参加することがなかなかできない状況でした。仕方がないので私は毎日、インターネットから手に入れた資料で漢字の練習や日本語の勉強をしたり、面接の練習をしたりしてました。

元々私は、一度に一つのことにしか集中できないタイプなので、同時に多くの企業には応募書類を送りませんでした。一つの企業に応募書類を提出し、その後その企業からの結果を待ってから、次に進むことにしたのです。多くの企業に応募しましたが、その中で2社からだけ面接の機会をいただきました。最初の企業では、私に子供がいるので、残業が必要な時に調整が難しい等の理由で断られました。2番目の会社では、私の面接を担当した部長さんが3人の小さな子供を持つ親であり、私の状況を理解してくれました。母親でありながらフルタイムで働こうという私の決意に非常に同感してくれたそうです。恐らくそのおかげで、私は採用されることになり、建築関連のプロジェクトで3Dの図面を担当することになりました。それは、私が大学で学んだ専門知識に合った仕事でした。

新しい出発

私が入社した頃はコロナがすでに収束し始めていたので、再び子供を保育園に預けて、毎日会社に出勤しました。新しい会社では、これまでに学んできたソフトウェアとは異なるソフトウェアが使用されているため、在宅ではなく出社した方が早く仕事を覚えられると思ったからです。

前の会社とは異なり、新しい会社では、日本語とビジネスマナーを学ぶための環境が整っていました。毎日、勤務時間内に1時間の日本語学習時間を提供してくれた他、その1時間に私と日本語の会話練習に付き合う日本人のスタッフまで手配してくれました。

会社に入社して最初の6ヶ月は、比較的仕事が少なかったです。実際、その期間中に、会社は私に新しいソフトウェアの使い方を学び、日本語スキルを向上させる時間を提供してくれました。前社では電話応対の経験がなかったので、電話での具体的な応対方法や、実際に電話を受ける練習をさせてくれました。

会社に来訪したお客様には、お茶を出す方法や、日本のビジネスマナーに則った挨拶の仕方なども指導されました。メールの書き方や返信の仕方についても、ステップバイステップで指導してくれました。

会社のサポートとトレーニングのおかげで、さまざまなことを基礎から再び学ぶことができ、日本の企業文化についての理解が深まり、会社内での仕事に自信を持つことができました。

入社して1年後、二人目の妊娠が発覚しました。妊娠が発覚したとき、不安で不安でたまりませんでした。長女を妊娠した時、ただうちで安静にするだけだったのに、ひどいつわりでとても大変でした。今度は仕事もあるし、上の子の世話もあるので、出産の時期まで体力が持つかと考えると、とても不安でした。

しかし、今回は1回目とは異なり、すでに妊娠と出産の経験があったので、前よりは少し楽になりました。また、面白いことに、今度は仕事と子供の世話で毎日が忙しすぎて、うちで安静にしていただけの1回目の妊娠と比べたら体力がよりあるような気がします。加えて、妊娠中、吐き気がひどい場合には、簡単に休暇を取れるよう会社がサポートしてくれたので、比較的順調に過ごすことができました。

1年間の育児休暇を取った後、2023年5月に仕事に復帰しました。1年間の休暇で、仕事のことを忘れてしまったため、復帰する前に本を読んだり仕事の資料を復習したりしました。現在、私は育児のため、勤務時間を短縮する制度を利用しており、1日に5時間だけ働いています。

自分のビジネスにチャレンジ

 最近、子供たちの世話をしながら仕事に行くことに慣れてきたので、また新しいことにチャレンジしてみました。先輩のアドバイスを受けて、新しく購入したマイホームを活用し、ベトナムから旅行に来た人や東京へ観光に来る人のために、民宿のサービスを展開し始めました。このビジネスは、給与以外のわずかな収入になるだけでなく、新しい出会いにも繋がるし、ソフトスキルを向上させ、絶えず学び、自己啓発を追求する励みとなっています。

例えば、今までは会社勤務だったため、私たち夫婦の人間関係は職場とその友人の家族に限られていました。しかし、最近、わずか2か月しか経っていないにもかかわらず、私たちは多くの人と出会えました。また、自分のサービスを運営し宣伝するために、私たちはコンテンツの作成や、お客さんからの問い合わせの対応方法、効率的に時間の管理をするコツを身に付けることができました。

以前、私はよく複数のことを同時にこなす癖がありました。その結果、何事も適切には終えられず、とても混乱しているという状態がよくありました。今は、会社の業務から家事、民宿の事業まで多くの仕事をバランスよくこなす必要があり、一日の時間を区切り、各作業をいつ行うべきかを計画することを始めました。作業中は、その作業に心を捧げ、自分をその瞬間に完全に集中させることで、すべてがスムーズに進むように感じます。

メッセージ

 日本に来てから7年が経ちます。私の日本語はまだN3のレベルに留まっていますが、専門分野を活かせる仕事に就けるし、子供の世話や、家事と仕事が両立しやすい職場環境に恵まれています。

あの時先輩に背中を押してもらわなかったら、恐らく今も、日本でN3の日本語能力しか持っていない人は、絶対正社員としての仕事が見つからないだろうと思って、自分の働く夢を捨ててコンビニでのアルバイトを続けていたかもしれません。だから、先輩には心から感謝しています。

もちろん、すべての分野でN3の日本語能力だけで仕事を見つけるのは難しいことも理解しています。しかし、自信を持つことと、新しい機会を見つけるための意欲を持つことは、非常に重要です。言語スキルを向上させ、自己評価を高めるための努力が、成功への第一歩となります。

時間がある限り、一生懸命に日本語を学び、自分のキャリアに関連するあらゆる知識や資格を身につけたり、経験を積んだりするといいでしょう。少しずつ、一歩一歩進んでいくことが大切です。夢を持って努力し続ければ、皆さんが自分自身と家族に合った素晴らしい仕事を見つけることができると確信しています。

東京、2023年10