ノン・ティ・ビック
NONG THI BICH
Profile & Message
2009 - 2013 私費留学で宇都宮共生大学に入学
2013 - 2015 宇都宮大学大学院に進学
2015 - 2018 佐川グループの企業に入社し、
人事部で全国の外国人労働者の管理やベトナム市場調査を担当
2018年8月 - 現在 東京の組合に転職
2023年6月‐ 自分の会社を設立
「自分自身のスキルを向上させ、現在の働き方をより良くする方法を常に学び、模索し続けることの重要性を改めて実感しています。こうした努力を積み重ねることで、仕事の成長につながるだけでなく、提供するサービスの質を高め、より多くの方々に価値を届けることができると信じています。」
留学生活での貴重な体験
2009年、私は日本へ留学し、新たな挑戦を始めました。私はTày族の出身で、実家はかなり田舎にあります。高校時代は県内の全寮制の学校に通うため、家を離れました。学校は進学校でしたが、設備は十分とは言えず、日本に来たときはすべてが新鮮で、驚きの連続でした。生活リズムや人々の暮らし、そして便利な環境―どれもがこれまでの自分の世界とはまったく異なっていました。
日本での最初の日々は、ワクワクしながらも戸惑いの連続でした。完全に自立する必要があり、学校の授業を受けながら、生活費を稼ぐためにアルバイトもしなければなりませんでした。昼は授業に出席し、夕方から夜にかけて働く毎日。それでも、勉強と仕事だけの生活にはしたくありませんでした。できるだけ多くの交流イベントに参加し、新しい友達を作り、日本の文化や人々と触れ合うことで、一日でも早くこの国の生活に馴染めるよう努力しました。
日本に来たばかりの頃、私の日本語はN3レベルで、授業で先生が話す内容をすべて理解するのは難しいこともありました。それでも、学期の終わりには、クラスの日本人学生と肩を並べながら、常に成績上位に入ることができました。その秘訣は、ひたすら努力して暗記することでした。授業で理解しきれなかった内容は、帰宅後に教科書で復習し、試験前にはその内容をすべて覚えて臨んでいました。
大学の最初の2年間は、日本語のスピーチコンテストに積極的に参加し、ほぼすべての大会で優勝しました。当時の練習方法は、まずスピーチ原稿を書き、日本人の先生に添削してもらうことでした。次に、その先生に音読をしてもらい、それを録音して、何度も聞きながら発音やイントネーションを練習しました。本番に向けては、表情や話し方にも気を配りながら繰り返し練習を重ねました。そのおかげで、日本に来たばかりの頃と比べて、日本語のスピーキングとリスニングの力が大きく向上しました。
スピーチ大会で優勝
学業成績が優秀で、積極的に課外活動にも取り組んでいたことから、大学の最後の2年間はIIZUKA TAKESHI教育基金の奨学金を受けることができました。(この基金は、経済的に困難な状況にあるが優れた学業成績を収めた学生を支援し、社会に貢献できる市民となることを期待する目的で設立されています。)さらに、大学院の2年間もROTARY奨学金を受けることができました。これらの奨学金のおかげで、生活費の心配が軽減され、学業に集中したり、日本各地を巡ったり、交流活動に参加するための時間をより多く確保することができました。
栃木県の学校で絵本の読み聞かせに参加
山崎直子さんのシェアイベントのMC
学生時代、他の留学生と同じように一般的なアルバイトをするだけでなく、栃木県の弁護士の通訳もしていました。特に、逮捕・拘留されたベトナム人がいる警察署での通訳を担当することが多かったです。
この仕事を始めたのは偶然でした。県や市が主催する国際交流活動に積極的に参加していたことで、さまざまな関係機関の職員に顔を覚えてもらい、そこから仕事を紹介してもらったのです。当時の私はまだ日本語に自信がなく、不安で断ろうとも思いました。しかし、担当の方から「通訳が必要な人よりも、あなたの日本語の方が確実に上手だよ」と励まされ、思い切って引き受けることにしました。
2010年代の初めは、今のように技術が発達しておらず、単語を調べるのも電子辞書や紙の辞典が主流でした。幸い、最初に出会った弁護士の先生方はとても親切で、通訳の基礎をいろいろと教えてくださいました。初めて通訳を担当したときには、ある先生が「警察(けいさつ)」と「検察(けんさつ)」の違いを丁寧に説明してくださり、さらに、中心部から警察署まで車で2時間もかけて移動しながら、逮捕から拘留、裁判に至るまでの流れを詳しく教えてくださいました。
仕事に慣れるにつれて、依頼も次第に増えていきました。最初は調整部門を通じての依頼がほとんどでしたが、やがて弁護士の先生方から直接連絡をいただくようになりました。
そんな中で、今でも忘れられない出来事があります。それは、ある日の通訳が2時間半にも及んだことです。数平方メートルほどの密室で、容疑者とは小さなガラス越しに向かい合いながら、ひたすら通訳を続けました。私だけでなく、弁護士の先生や容疑者も皆、心身ともに疲れ果てていました。しかし、その通訳の後、予想以上の高額な報酬をいただき、さらに弁護士の先生が追加でお金を渡されました。その2時間半の通訳で得た金額は、当時のベトナムで母が教師として1ヶ月働いて得る給料に匹敵するほどでした。
栃木県内の各都市でロータリークラブに参加
この通訳の仕事や他のアルバイトに加え、学生時代には栃木県内にある組合でも働いていました。そこでは、実習生の生活サポートや通訳を担当していました。数年間の経験を積むうちに仕事にも慣れ、当初は大学院を卒業したらそのまま協同組合に残るつもりでいました。しかし、先生から「せっかく日本に来て、6年間も栃木で過ごしたのだから、仕事ではここに留まらず、東京で新しい経験を積むのも良いのではないか」と励まされました。それをきっかけに、自分の可能性を制限せず、東京での仕事探しに挑戦することを決意しました。ハローワークに通い、面接の練習をしてもらいながら履歴書も修正していった結果、最終的に日本の大手物流グループSGホールディングスの子会社に入社することができました。
卒業式
初めてのフルタイムの仕事から学んだ教訓
私の主な仕事は、全国の各支店で働く外国人労働者のデータと情報を管理することでした。具体的には、労働時間や書類、居住状況などを管理し、関連する法律規定を遵守できるようにすることが求められました。
入社当時、会社には約500人の外国人社員が在籍していましたが、退職する頃にはその数が7〜8倍に増えていました。最初は、データ管理のプロセスもシンプルで、管理対象の労働者も少なかったため、特に問題なく業務を進めることができました。しかし、外国人労働者の急増に伴い、さまざまな問題が発生するようになりました。
例えば、労働者がフルタイムで働くために学校を辞めるケースや、同じ外国人登録証の情報を使って異なる支店で就職活動をする人もいました。これは会社の規定に違反するだけでなく、法的なトラブルにつながる可能性もあります。そのため、問題が発生するたびに、私は直接出入国在留管理局と連絡を取り、情報の確認や必要な手続きを行っていました。
この経験を通じて、出入国在留管理局や行政機関に電話をかけることは、単にその電話番号にかけて誰かと話せば答えが得られるものではないと理解するようになりました。重要なのは、適切な担当者や部門に連絡を取り、何を知りたいのかを的確に伝えることです。そうすることで、迅速かつ正確な回答を得ることができます。
私が学んだ教訓の一つは、電話をかける際には必ず担当者の名前を確認することです。そうすることで、後から照会が必要になった際や追加の質問をする際にスムーズに対応できるようになります。この経験は、その後の職場である労働組合でも活かされ、特に実習生の年金手続きなどの場面で大いに役立ちました。
最初の会社での仕事を通じて、情報を探すスキルが向上しただけでなく、データ管理能力も大幅に高まりました。労働者の数が急増する中で、記録の追跡、分類、管理は大きな挑戦となりましたが、その経験を通じて、徐々にシステム思考を身に付け、より論理的で効率的な働き方を学ぶことができました。このスキルは、どの分野においても非常に役立つものだと実感しています。
日本での様々な経験
転職と起業
Sagawaでの3年間の勤務を経て、オフィスワークが次第に単調に感じ始めました。データ管理や行政手続き、日本企業での働き方について多くを学びましたが、業務がルーティン化し、新しい発見が減ってしまったのです。
ちょうどその頃に同棲をすることを決めました。しかし、問題が一つあり、二人とも今の職場に留まると、一方が遠くまで通勤しなければななかったのです。そこで、私はより挑戦的で活発な仕事を求め、転職を決意しました。もっと多くの人と交流し、つながる機会を増やしたいと考えたからです。
転職活動を行い、横浜にある監理団体で働くことに決めました。そこは現在の職場でもあります。私は人と関わることが好きなので、この環境は自分に合っていると思いましたし、学生時代や前職で培った知識と経験も活かせると考えました。
しかし、実際に働き始めると、想像とは全く異なる仕事が待っていました。最初の数日は、日本人スタッフと数人のベトナム人実習生の様子を見守るという業務が中心で、トラブルや衝突が起こらないようにする役割でした。ほぼ2ヶ月間、ただ立って観察するだけの仕事が続き、正直なところ、やる気を失いそうになることもありました。
それでも続けるうちに、日本人スタッフも私に対して好意的になり、徐々に信頼を得ることができました。私の通訳とコミュニケーションのスキルが、双方の理解を深める手助けとなり、衝突を減らすのに役立ったのです。状況が安定するにつれ、私が頻繁に現場に出向く必要も少なくなっていきました。
まだ特定技能ビザがなく、技能実習生は3年間の実習を終えると帰国しなければなりませんでした。そのため、帰国後の年金払い戻しの手続きを知りたいという実習生が多く、毎回その質問をたくさん受けていました。
最初は、困っている数名の方に無料で手続きを案内し、必要な書類の準備を手伝っていました。当時、代行サービスの手数料が高かったため、自分がサポートすることで少しでも負担を減らせればと思ったのです。しかし、そのうち実習生の間で紹介が広がり、相談が次第に増えていきました。
実習生の間で、翻訳や各種手続きのサポートが必要とされていることを実感し、本格的に支援できるよう会社を設立することを決めました。まずは翻訳関連のサービスから始め、経験や知識を積み重ね、資格などを取り、徐々に事業を広げていく予定です。
現在、夫婦で法人設立の手続きを自分たちで調べながら進めています。夫はフルタイムで働きながら行政書士の資格試験に挑戦し、今年1月に合格しました。私は現在、日本の不動産関連の資格(宅建)を勉強しており、今後は社労士などの資格にも挑戦するつもりです。今後、より多くのベトナム人労働者の皆さんをサポートできるよう、必要な資格を取得しながら活動の幅を広げていきたいと考えています。
メッセージ
留学生だった頃から、自分の仕事を築くまでの道のりを振り返ると、これまでの経験や学びが自分を大きく成長させてくれたことに、心から感謝しています。どの挑戦も、自分を高める機会であると同時に、多くの実習生、同僚、そしてお客様との貴重なご縁を繋いでくれました。
また、常に学び続け、より良い方法を模索しながら自分を磨くことの大切さを改めて実感しています。これは、自分自身の成長だけでなく、提供するサービスの質を高め、より多くの方々のお役に立つことにもつながると信じています。
これからも会社を成長させ、サービスを拡充し、日本で頑張るベトナム人の皆さんをさらにサポートできるよう努めていきます。そして、多くの方々と学び合いながら、一緒に価値あるものを生み出していけたら嬉しいです。
東京、 2025/02