ズォン・リン

 DUONG  LINH

Profile & Message

2010年5月   ベトナム国家大学ハノイ外国語大学にて日本言語文化学部を卒業

2010年9月   佐賀大学の修士課程準備コースに入学

2014年3月  佐賀大学文化教育学部修士課程を修了

2014年4月  長崎国際大学の日本語講師を務める

2017年3月  東京のJCFL日本語学校にて日越通訳翻訳学科の講師

2019年4月~2019年11月 ベトナムに帰国し、フリーランスとして活動

2019年12月~2020年2月 Hybrid TechnologiesにてBPO部門を担当

2020年3月~2020年11月 Esuhai社にて留学部門の部長を務める

2021年2月~2021年8月 Citynow社にてマーケティング・広報部門の部長を務める

2021年10月~現在       Haio Education社にて教育部門のディレクターを務める

あれから9年が経ち、様々な経験を積み重ねてきた今、後輩たちに改めて伝えたいのは、「どんな状況でも、自分に自信を持ち、謙虚に学び続け、周りをよく観察してください。」ということです。

世界のどこにいても、必ず自分を成長させるチャンスがあることを忘れないでください。自分の可能性を信じ、学ぶことに前向きであり続けることで、新しい道が必ず開けるはずです。 

前回の記事を見る:VOICE OF ASEAN SEMPAI VOL 7 

拠点を東京に移す – 自分の位置づけを再定義する旅‐

「私は賢くないけれど、目標に対して一貫している人間だ」と私はよく皆に言っています。私の目標は、教育現場に真摯に向き合い、携わることです。長崎県佐世保で3年間働いた後、より活気のある教育現場で新たな挑戦をしたいという気持ちが強くなりました。九州の穏やかな環境で過ごした7年間は、その時点では自分にとって十分だったのだと思います。そのため、東京への転職を決意し、新たなステージで自分を試す旅を始めることにしました。長崎での仕事は、ここで養父母と出会ったことから始まりました。すべてが自然に進んでいったように感じます。その自然さに、私はふと「こんなに簡単に仕事が決まるなんて、これが本当に日本での就職活動なのだろうか?」と思いました。良い仕事に恵まれ、仲の良い同僚に囲まれ、養父母のそばで暮らせる。外国で暮らす女性にとってこれ以上何を望むべきだろうと考えていました。しかし、転職を考え始めたとき、心の中に強い思いが湧いてきました。「私はもっと大きなことができるのではないか?もし今その一歩を踏み出さないなら、一体いつ踏み出すのだろう?」その時、私にとっての「自己位置づけ」とは、単に自分の能力をどこまで伸ばせるのかを測ることではなく、「自分を信じる気持ちがどれだけ強いのか」を確かめることでした。挑戦する勇気を持ってくれてありがとうと、あの頃の自分に伝えたいです。

私は、何かを始める時には冷静に判断するタイプですが、心の奥で「今がその時だ!」と感じ、東京への転職計画を立てました。そして約3ヶ月後、内定を2つもらいましたが、最終的に日本人向けのベトナム語講師として専門学校に勤務する道を選びました。

すべてが決まってから、養父母にそのことを伝えました。実の両親と同じように、2人も私の決断を心から応援してくれました。母は「リンちゃんがいなくなるのは寂しい」と言っていましたが、それでも2人は私を信じ、私の選択を尊重してくれました。異国の地で、無条件に愛し、応援してくれる人たちがいることは本当にありがたく心強い支えです。この支えがあったからこそ、私は自信を持って、これからの困難な道にも挑み続けることができるのです。

東京での生活‐ 成長と忍耐の日々‐

高い物価、急速に流れる日常、そして孤独感。これが「光の街」として知られる東京に引っ越した当初の私の印象でした。引っ越しには、かなりの貯金を費やし、何もかもが「田舎」と比べて割高に感じました。以前は電車やバスが30分(時には1時間)に1本のペースで来る環境でしたが、今ではたった1、2分の違いで次の電車に駆け込む生活です。そして、周りにたくさんの人がいるにもかかわらず、なぜこんなに孤独を感じるのだろう?」という気持ちになる日々でした。この経験は、大学に合格したときの感覚に似ていると感じます。親元を離れる寂しさを抱えつつも、新しい生活への期待を胸に東京へ向かう気持ちが、ふと蘇るようでした。。

1週間ほどの安定した日々を過ごした後、新しい学校での試用期間が始まりました。

前の職場での温かい歓迎とは異なり、新しい職場では「すれ違うだけ」というスタイルで、手短な挨拶と1週間のタスクリストを渡されました。東京での仕事がどんなものかは理解していたつもりでしたが、7年間のんびりと過ごしてきた九州での生活に慣れていた私にとって、この新しいペースに馴染むのはかなり苦労しました。それに加え、職場間を歩いて移動する距離も長く、会議や授業の合間に歩くことも多く、疲れ果てて帰宅した日には、食事を取る気力もなく、ただベッドに横になって寝てしまうことが続きました。しかし、それ以上に辛かったのは、周りの人々がとても優秀で、自分に自信が持てなくなったことです。

この職場では、教職員が自分で生徒を集めたり、事務作業をこなしたりする役割を兼任しているため、私は専門職として生徒を引きつける方法が分からず、とても苦労しました。他の学科では説明会にたくさんの学生が参加しているのに、私が担当するベトナム語学科には数人しか来なかったり、時には誰も来ないこともありました。そのたびに、どうしたらよいのか分からず、誰に相談すれば良いのかも分からず、ただ一人で迷子になったような気持ちでした。しばらくは殻に閉じこもって、自分が与えられた仕事だけをこなし、周りの忙しそうな人たちを見守るだけの日々が続きました。帰りたくても帰れず、ただ時間を無駄にしているように感じていました。以前は、とても積極的で自信があったはずなのに、今はこんなにも消極的になっている自分に驚きました。

養父母に電話をし、思わず泣いてしまいました。すると、父が私にこう言いました。

「お前、あの歌のコンテストで初めて会ったとき、母さんが何でお前を気に入ったか覚えているか?…お前の歌声が心に響いたからだ。歌を聴いて、母さんはお前がきっと優しい心を持っている人に違いないと感じた。自分が賞を取るために歌っているんじゃないと分かったからだ。」

「お前はあの歌を歌えるようになるまで、何度も何度も練習しただろう。新しい仕事もそうだよ。焦って結果を出すことはないんだよ。観察して学び、他の人に影響を与えられることをやりなさい。あの時の歌のように。」

その言葉を聞いて、私は涙が溢れました。父の言葉で、私の心の中で何かが解けたように感じました。

その後、私の担当する学科に生徒が集まらない時、私は韓国語学科に行き、そこの先生方から色々と学ぶことにしました。何もできない私でしたが、ただ廊下で道案内をしたり、必要なときに雑務を手伝ったりしていました。そんなある日、参加した親御さんと生徒からのフィードバックを見る機会がありました。

「学校の先生たちはとてもプロフェッショナルな態度で、あるベトナム人の先生が非常に明るい笑顔で丁寧にサポートしてくれました。」

名前は明記されていなかったものの、それが自分のことだと感じ、誰かの役に立てたのだと思いました。小さなことであっても、それが学校全体の評価に繋がっていることを知ったとき、私は自信を取り戻すことができました。

東京での仕事

それから私は、新たにいくつかの仕事を任され、最終的には別のキャンパスでベトナム語と日本語の翻訳・通訳の授業を担当することになりました。これは私が大学時代に学んだ専門分野でもあり、その時の喜びは言葉に表せないほどでした。これまでの努力や無償で注いできたものが、ようやく形となって実を結んだ瞬間でした。

他国から来た同僚たちの経験に学びながら、自信を持って提案を行い、翻訳・通訳学科の生徒を集めました。その結果、1年目には3クラス、2年目には4クラスを運営することができ、自分が自由に創造できる環境で生きていると実感するようになりました。これこそが、私が長い間探し求めていた私自身の存在だと思います。「自信を持って与えることで、自分にも多くのものが返ってくる」ということを、深く理解することができました。

東京での仕事

帰国 ‐予想外の転機

 突然ですが、前世で私は日本人だったと確信しています。日本を愛する気持ちは言葉で表現することはできないほど深く、ただ「愛している」というシンプルな感情に集約されます。そんな思いから、私は長く日本と関わり続けたいと願っていました。それだけに、10年という月日が経った後に、自分が日本を離れることになるとは思ってもいませんでした。

しかし、2019年に家族の事情で帰国する決断をしました。当時、私は東京でキャリアを積んでおり、日本への愛情がますます深まっていた最中でした。この決断は簡単なものではありませんでした。それまでの私の人生には、九州での安定した仕事を辞め、東京に引っ越して自己を確立しようと挑戦した経験もありましたが、今回はすでに築き上げたキャリアを捨て、すべてをゼロからやり直すという、はるかに大きな挑戦でした。

冷静でいようと努めながらも、心の中ではたくさんの葛藤がありました。決断を下した後も、その選択が正しかったのか、何度も自問自答する日々が続きました。

帰国当日、羽田空港にて

 帰国の日、羽田に着いた時、足取りが重かったのを今でも覚えています。家族と一緒に過ごしていても、日本への懐かしさが日々胸を締め付け、心を苦しめました。その感情に浸るあまり、再スタートを切る気力を失ってしまった時期もありました。それは本当に辛く、孤独を感じた日々でした。

そんな中で、最も心の支えとなったのは、東京で一緒に働いていて尊敬していた上司の一言でした。彼女が送ってくれたメッセージにはこう書かれていました。 「時々、私たちは自分がどこに住むか、どこに留まるかを選んでいると思いがちですが、実はその場所が私たちを選んでいるのです。もし、リン先生が本当に日本と縁があるのなら、必ず日本はまたあなたを迎え入れるでしょう。」

その言葉は、迷いや不安で揺れる私の心に静かな灯火を与えてくれました。もしかしたら、この別れもまた新しい縁の始まりなのかもしれないと思えるようになり、人生の新しい章をまた歩み始めるための励みになったのです。すべては彼女の言葉のおかげです。

帰国後、ホーチミンで生活を始めた当初、私は予想外のカルチャーショックを受けました。多くの人が経験する「逆カルチャーショック」とは異なり、私が驚いたのは、ベトナムが急速に発展していること、そして若者たちが才能とエネルギーに溢れていることでした。彼らは驚くほど意欲的で、「自分の道を切り開く」ために、数ヶ月単位で転職を繰り返していました。この姿勢は、日本で見慣れていた仕事観とはまったく異なり、私にとって新鮮であると同時に挑戦でもありました。

日本で培った日本語や日本の文化に関する経験だけでは、ここでは通用しないと感じました。まさにゼロからやり直す必要があると覚悟した私は、まずフリーランスとして教育活動を半年間行いながら、新しい環境に慣れ、スキルを磨く時間を取りました。その後、BPO業務、留学コンサルティング、社内広報、IT企業のマーケティングと、3回の転職を経験しました。日本では転職を繰り返すことはあまり一般的ではないかもしれませんが、ベトナムでは「ジョブホッピング」としてごく一般的な働き方です。私自身もこの文化に順応しながら、それぞれの職場で新しい知識や経験を積み重ねていきました。

「ベトナムの生活にどれくらいで慣れたか?」と聞かれたら、私はこう答えるでしょう。

「どこにでも良さがあり、それを見つけることができるかが大切です。」と。帰国後、私は本当に多くのことを学び、知識を深め、スキルを向上させることで、日々成長を実感しています。

イベントのバイリンガル司会者

コーチング資格を取得する

 現在は、ホーチミンにあるHaio Educationという企業でトレーニングディレクターとして働いています。

Haio Educationでの仕事

日本での経験を活かし、教育分野で創造的な仕事に取り組んでいます。この仕事は、日本で学んだことを生かす場であると同時に、ベトナムならではの新たな挑戦の機会でもあります。

さらにこの仕事を通じて、日本への出張の機会も得ています。2023年3月には、5年ぶりに桜を見ることができ、その感動は言葉では表せないほどでした。以前、尊敬する上司が言っていた、「縁があれば、日本はまたあなたを迎え入れてくれる」という言葉を思い出し、その意味を深く感じました。

私は日本とベトナムを比較して、どちらかの生活を正当化しようとは思いません。両国の良いところを学び、それぞれの文化を取り入れながら、バランスを取ることが重要だと感じています。

また、帰国後も日本語の勉強を続けており、むしろ日本にいた時よりも多く学んでいます。日本語の歌を歌い続けたり、毎日鏡の前で日本語を練習したりすることで、日本語への愛を育み続けています。これは、私が日本とつながる方法であり、同時に常に自分を成長させるための力となっています。

メッセージ

 2015年11月19日に「VOICE OF ASEAN SEMPAI」で行った初めてのインタビューを読み返すと、9年経った今でも当時と変わらない気持ちを抱いている自分に気づきます。あの時、私は後輩たちに「自分で失敗し、学びながら成長していくべきだ」と伝えました。

それから9年が経ち、様々な経験を積み重ねてきた今、後輩たちに改めて伝えたいのは、「どんな状況でも、自分に自信を持ち、謙虚に学び続け、周りをよく観察してください。」ということです。

世界のどこにいても、必ず自分を成長させるチャンスがあることを忘れないでください。自分の可能性を信じ、学ぶことに前向きであり続けることで、新しい道が必ず開けるはずです。


ホーチミン市、 11/2024