ダン ・ バン ・ ドゥク
DANG VAN DUC
ダン ・ バン ・ ドゥク
DANG VAN DUC
Profile & Message
2014年 ベトナムの高等学校 卒業
2015年4月~2019年6月 中国企業のベトナム支社勤務
2019年7月 退職後、日本留学に向けて日本語学習開始
2021年1月 日本語学校 入学
2021年7月 日本語能力試験N2 合格
2021年12月 日本語能力試験N1 合格
2023年4月 大原簿記情報ビジネス専門学校 入学(奨学金を受給)
2023年~2024年 様々な資格を取得
(簿記3級、MOS、情報セキュリティ、販売士3級、色彩3級)
2024年9月 株式会社Estate Plus インターンシップ参加
2025年4月 株式会社Estate Plus 正社員入社(賃貸住宅・学生寮担当)
「朝5時に起きて朝日を見ることができなくても、夕方5時に夕日を眺める時間は持てるはずです。」人生はいつも私たちにチャンスを与えてくれます。それが「明日」です。
前に進もうと努力し続ける限り、明日はいつでも私たちに“やり直す機会”をくれるのです。
一度途切れた日本への夢
2014年、高校を卒業した私は、ずっと「日本で学びたい」という夢を抱いていました。本やテレビを通して、日本が経済的に発展し、教育水準も世界のトップクラスであることを知りました。同世代の友人たちが、日本留学を目指して日々日本語の勉強に励む姿を見て、私の心にも「いつか必ず日本へ行く」という強い思いが込み上げてきました。
しかし、農業を営む家庭で育った私にとって、留学にかかる費用は大きな壁でした。家族と何度も話し合い、悩んだ末、私は決断しました。「今は夢を一旦あきらめて働き、家計を支えよう」と。
そして、友人たちが日本へ旅立つ日。空港のチェックインカウンターの向こうへと消えていく彼らの後ろ姿を見つめながら、私は心の中で強く誓いました。「いつか必ず、私もこの道を歩いて日本へ行く」と。
2015年から2019年まで、私は中国企業の電子製品メーカーで働きました(現在のハイフォン)。そこで働く中で、管理者とのコミュニケーションを円滑にするために独学で中国語を学び、さらには技術移転研修のために中国へ行く機会も得ることができました。
日本への夢を再び追いかけて
時は流れ、2019年7月、私はついに退職届を提出しました。突然の決断に友人や同僚たちは驚き、「安定した収入もあるし、もう少し考え直した方がいいのでは」と止める声もありました。しかし、長年胸の奥で温め続けてきた日本留学の夢をどうしても叶えたいという思いが勝り、決意は揺らぎませんでした。両親はずっとそばで応援してくれ、この挑戦を力強く後押ししてくれました。
複数の情報源から調べ、いくつかの日本語センターを比較検討した結果、私は当時ハノイで評判の高かった実績ある日本語センターへの入学を決めました。
授業初日、教室に入ってまず気づいたのは、自分がクラスの中で最年長だったことです。心の準備はしていたものの、高校を卒業したばかりの若いクラスメートたちと並んで学ぶ中で、どうしても学力の差を感じてしまい、内心では焦りや不安もありました。それでも、「少しずつでも前へ進もう」と自分に言い聞かせ、毎日コツコツと努力を積み重ねました。その結果、まずはN5、続いてN4にも順調に合格することができました。
そして2020年3月。ついに日本行きの準備が整い、荷物もまとめ、航空券も手に入れて、あとは出発の日を待つだけ…そんな矢先に、新型コロナウイルスが世界を襲いました。日本行きのフライトは、出発直前になってキャンセル。あまりのショックに、「自分の選択は間違っていたのだろうか」と不安がよぎりました。
それでも、「この道を選んだのは自分なのだから、最後までやり抜こう」と決意を新たにしました。隔離期間中はこれまで学んだ日本語を復習し、さらに新しい知識も身につけるよう努めました。また、家の近くの会社で働きながら、昼は仕事、夜は日本語の勉強という日々を送りました。
そして2020年12月。ようやく日本へ渡航できる機会が訪れました。まだ日本国内でも社会的な制限が続く中、私は迷わず日本行きを決断し、長年の夢に向かって新たな一歩を踏み出したのです。
日本で味わった、人生初の衝撃
日本に来てから、私は「絶対に日本の国立大学に合格する」という目標を自分に課し、必死に勉強をしました。日中は学校に通い、分からない漢字や言葉があればすぐに調べました。電車の広告や電柱、壁に貼られたポスターの文字まで、気になったら片っ端から辞書で意味を調べました。午後からは、ヤマト運輸の仕分け工場でアルバイト。かなりの体力を必要とする仕事でしたが、社会的な制限が続く中でも生活費を稼げる仕事があること自体、とてもありがたいことでした。
全てが順調に進んでいるように思えた矢先、2020年4月の週末、いつものようにバイトへ向かう途中で、突然の出来事が起こりました。次に目を開けた時、私は病院のベッドの上にいました。全身には包帯が巻かれ、状況が全く分からず混乱していると、当時通っていた日本語学校の留学生担当だったハイさんが側にいて、私にこう教えてくれました。「道を渡っている時に、車にはねられたのよ」。
その事故で私は足を骨折し、多発外傷を負い、一時的な記憶喪失にもなりました。しばらくは学校を休まざるを得ませんでしたが、落ち込んでばかりはいられないと、入院中もできる限り自習を続け、7月のJLPT試験に向けて勉強を続けました。回復後も、生活のため再び同じ仕事に戻りました。当時の私には、生活のため収入が必要だったのです。
先生や友人、そして日本にいる親戚や知人たちからの励ましと支えのおかげで、あの苦しい時期を乗り越えることができ、その年に私はJLPT N2、N1の両方に合格しました。
それでも心が折れそうになる日もありました。仕事で疲れ果てた時、会話がうまく理解できない時、深夜の帰り道にふと孤独を感じた時、「もうベトナムの家に帰りたい」と思ったこともあります。そんな夜は、母に電話をかけました。母の声を聞くだけで、不思議と心が落ち着き、また頑張ろうと思えたのです。
専門学校か大学か―悩みと葛藤の中で
日本に来た当初の目標は大学進学でした。しかし、事故やその後の経験を経て、私は「できるだけ早く就職し、生活費を稼ぎながら事故で働けなかった期間の借金を返したい」と考えるようになりました。ただ、専門学校に進むとしても、大学と比べて教育の質はどうなのかや就職の機会が同じくらいあるのかと、不安は尽きませんでした。
そんな迷いや不安のせいで勉強にも身が入らず、貴重な時間を無駄にしてしまっていました。そこで私は、一人で悩んでいても答えは出ないと思い、担任の先生に正直な気持ちを打ち明け、相談することにしました。先生は親身になって話を聞いてくださり、さまざまなアドバイスをくれました。そして最終的に、私は大原簿記情報ビジネス専門学校 横浜校を受験することを決意しました。大原は専門学校の中でも知名度が高く、大学に劣らない教育の質を誇る学校です。
私は人と関わることが好きなので、外向的な性格を生かせる仕事に就きたいと考え、マーケティング学科の2年制コースを選びました。すでにN1に合格していたため、学内の奨学金面接に挑戦するチャンスもありました。面接前日に高熱を出してしまい、とても不安でしたが、それでも全力で取り組みました。結果は合格!ぎりぎりではありましたが、無事に奨学金をいただくことができました。
新しい環境と数々の試練
日本語学校を卒業し、専門学校に入学したばかりの頃は、日本に来てから最もプレッシャーを感じた時期でした。新しい環境、長時間の授業、難しい専門知識、そして周りは日本人のクラスメートばかり。最初は不安と緊張でいっぱいでした。
授業の時間に合わせて、アルバイトも居酒屋に変えました。以前のアルバイトよりも勤務開始時間が遅かったので、帰宅は深夜になってしまいます。1年目は授業数や単位取得のための試験が多く、ほぼ毎月のようにテストがありました。学業とアルバイトを両立させるため、授業が終わると学校で1時間ほど復習し、その後電車で30分かけてアルバイト先に向かいました。帰宅は深夜1時頃。帰宅後に勉強をすると体調を崩しかねないので、すぐに寝て、翌朝早く起きて復習するスタイルを続けました。
その結果、専門学校1年目は一度も単位を落とすことなく、簿記3級、情報セキュリティ2級、MOS Word・Excel、販売士3級など、いくつもの資格を取得することができました。これらは、自分にとって就職活動に備える大切な武器となりました。
就職活動では、最初に営業職とマーケティング職の2社を受け、面接までは順調に進んだものの、最終的にどちらも不採用という結果に終わりました。ショックで落ち込んでいたある日、Facebookで偶然MPKENの就活支援勉強会(無料)の案内を見かけ、迷わず申し込みました。そして、この講座に参加したことが、現在の会社との出会いにつながる大きなきっかけとなったのです。
講座では自己分析の方法を学び、自分の強みや弱みを理解した上で、どんな仕事が自分に合っているのかを考えることができました。先生方は私にこう言ってくれました。「もし面接に落ちても、それは能力が足りないからではなく、まだ自分に合った仕事に出会えていないだけ。面接の一回一回が、自分を見つめ直すチャンスなんだよ」。その言葉が、疲れ切っていた私に大きな勇気と力を与えてくれ、再び前に進む原動力となりました。
初出勤の日とEstate Plusでの初めての出張
インターンとして初めて出勤した日は、また大雨でした。緊張と不安で胸がいっぱいでしたが、その気持ちはすぐに消えました。会社の皆さんがとても親しみやすく、明るく迎えてくれたからです。最初の不安な一日を終える頃には、少しずつ職場の雰囲気にも慣れ、不動産営業に必要な知識やスキルを学び始めました。
翌週、私は広島県で開催された「広島ベトナム中秋節」のイベントに、会社のメンバーと一緒に参加する機会を得ました。この出張では、Estate Plusの社員の人柄や仕事の進め方、そして不動産営業という仕事の本当の価値を知るきっかけになりました。
「お客様一人ひとりには、それぞれの物語がある。お渡しする家や部屋の一つひとつには、お客様が私たちに託してくれた期待や信頼が込められている。鍵を手渡した瞬間から、本当の意味でお客様とのご縁が始まる。」この言葉こそが、Estate Plus全体が目指している理想であり、目標なのだと強く感じました。
もちろん、学校の授業、アルバイト、そして会社でのインターンシップをすべてこなすのは簡単ではありませんでした。正直、プレッシャーに押し潰されそうになることもありました。それでも、友人や家族からの励まし、そして会社の仲間からの温かいアドバイスや経験談が、私の背中を押してくれました。
お客様からいただく「ありがとう」の言葉や、会社のサービスや質についての高評価は、私にとって大きな励みです。それらが、Estate Plusで働く自分を成長させ、これからもお客様に最高の体験を届けたいと思える原動力になっています。
将来のビジョン
どんな道もバラ色ではありません。もちろん不動産営業という仕事も同じです。お客様の希望に合う物件を見つけられなかったり、過去のトラブルを理由に外国人への賃貸をオーナー様から断られてしまったりすることもあります。そんな経験を重ねる中で、私は「いつかEstate Plusが自社で物件を所有し、直接お客様に貸し出せるようになれば、外国人だからという理由で家を借りられないケースを減らせるのではないか」と考えるようになりました。
そのためには、営業としてのスキルだけでなく、不動産に関する法律の知識も必要です。私は現在、宅地建物取引士(宅建士)の資格取得を目指して勉強を続けています。宅建士は日本の国家資格の中でも難易度が高く、日本人でさえ2〜3年かけてようやく合格できるということも珍しくありません。だからこそ、私も長期戦を覚悟し、仕事から帰ってくる時間が早くても遅くても、毎日必ず勉強のための時間を確保しています。
目標は、遅くとも2年以内に宅建士試験に合格すること。そして、Estate Plusで働く中で得た経験と知識を活かし、将来的には外国人でも安心して住まいを見つけられる環境を自分の手で作っていきたいと考えています。
メッセージ
今回は、自分の経験が少しでも皆さんの励みになればと思い、この経験を共有しました。
日本での生活には、時に心が折れそうになる日もあります。でも忘れないでください。あなたは決して一人ではありません。勉強してもなかなか上達しないと感じたり、思うような仕事が見つからなかったりする時は、少し休んでみてもいいのです。好きなものを食べたり、自分へのご褒美に何かを買ったり、目覚ましをかけずに思いっきり寝たり。そんな小さな息抜きが、また前に進む力になります。
諦めたくなる日もあるかもしれません。しかし、あなたの背中を押してくれる家族や大切な人たちが、いつも応援してくれています。その存在こそが、毎日努力を続けるための一番の原動力です。一日一日、ほんの少しずつでも頑張れば、必ず自分の目指す場所に近づいていけます。
そして信じてください。ひとつの扉が閉じてしまっても、必ず別の扉が開きます。始めようと思ったその時が、あなたにとっての最良のタイミングなのです。
東京、 2025/07