ファム・トゥイ・ガー
PHAM THUY NGA
ファム・トゥイ・ガー
PHAM THUY NGA
Profile & Message
2014年~2018年 タイグエン大学化学薬学専攻卒業
2019年4月 金属プレス加工職種の技能実習生の技能実習生として来日
2020年12月 日本語能力試験 N3合格
2022年 技能実習を修了し、特定技能1号に変更
2024年7月 日本語能力試験 N2合格
2024年10月 結婚
2025年7月 技能実習評価試験に合格し、特定技能2号へ変更
私にとって一番の財産は、資格という肩書だけではありません。習慣として身についた粘り強さ、自分自身と向き合う落ち着き、そして今日の小さな努力が明日の確かな土台になるという確信こそ、何より大切なものだと思っています。
人生の分岐点
私は2018年にタイグエン大学化学薬学科を卒業しました。卒業後、ハノイに出て就職活動をしましたが、思ってい以上に大変で、2か月経っても応募した会社からは全く連絡がありませんでした。そんな時、家族から「海外に行ったらどうか」と言われました。周りにはすでに日本や台湾に行って帰国した人も多かったので、私も思い切って調べてみることにしました。この行動が、自分の人生の新しい分かれ道になるとは、その時はまだ知りませんでした。
当初は、化学薬学の分野でエンジニアとして働きたいと思っていました。しかし、最初に訪れた仲介会社では「この業界の求人はほとんどなく、かなり難しい」とはっきり言われ、ショックを受けました。それでも諦めきれず、別の会社に訪れると、「ある」と言われ、すぐに登録し、費用も払い、大きな期待を抱きました。ところが数日後、その会社は別の提案をし始めました。「本当に化学薬学の仕事をしたいなら、ここで日本語の勉強を続けてチャンスを待つしかない。でもいつになるか分からない。早く行きたいなら技能実習生の道を選んだ方がいいし、もし余裕があるなら留学の方が将来性はある」と言われました。
当時の私は相談できる人もおらず、ただ「とにかく早く行きたい、働いて仕送りしたい」という気持ちしかありませんでした。留学は費用も時間もかかりすぎ、大学を出たばかりの私には無理でした。そう考えて、最終的に技能実習生の道を選びました。
仲介会社に「とある求人に行けばいい」と言われ、最初の求人の面接は落ちましたが、2回目の機械系の求人で合格し、そのまま決まりました。実は、機械系の仕事自体は私にとって全く馴染みがないわけではありませんでした。父が機械工で、小さい頃から毎日溶接の音を聞きながら育ったので、自然と慣れていました。だから女性であっても工場で働くことに抵抗はありませんでした。2018年11月、正式に採用が決まり、日本語を学ぶためのセンターに通い始めました。そこはまるで軍隊のように厳しく、寄宿舎での生活は、朝5時半起床、顔を洗って6時には体操とランニング、その後掃除をして8時から授業。昼食を挟んで午後も授業、夜は翌日の準備で勉強。息をつく暇もない日々が5か月間続きました。
その厳しい環境のおかげで、私は少しずつ規律に慣れていきました。来日後の1か月間、組合での研修も同じように厳しく、その経験が自分を変えてくれました。方向性が見えずに迷っていた私も、努力することの大切さを学ぶことで、規律ある生活を自分に課せるようになったのです。それは、異国で新しい道を歩むための大切な「心の準備」となりました。
日本での最初の日々
愛知県に到着してまだ1週間、まだ組合にいる時に、体調不良になってしまいました。お腹を壊して1週間下痢が続き、副鼻腔炎まで悪化し、涙や鼻水が止まらず、体もだるくてふらふらでした。時差に慣れる前に薬に頼らざるを得ず。「この坂を越えれば、きっと軌道に乗れる」と自分に言い聞かせて、乗り越えることができました。。
組合では中国人の友達と仲良くなり、会話をすべて日本語で行うことで、会社に配属された時、日本人の先輩たちと話す際に戸惑うことはほとんどありませんでした。分からない言葉はその場で聞き、少しずつ慣れていきました。
組合での1か月間の研修
配属された会社では私が、最初のベトナム人だったので、頼れる先輩がいませんでした。社長は厳しい方でしたが、一つひとつの作業や安全の基本を丁寧に教えてくれました。初めて工場に入った日の仕事は、鉄くずを拾ったり、数えたりする単純な作業でしたが、油断すると鉄板の端で手を切ってしまう危険性がありました。最初の数日間は、手には無数の細かい傷ができ、今でも鮮明に覚えています。
最初の2年間は、ほとんど同じ場所に立って同じ作業の繰り返しでした。手で材料を入れ、足で機械を踏み、目でタイミングを合わせました。目の前には自分で書いたメモ -単語やフレーズ、歌の歌詞までを貼り、作業しながら覚えました。しかし長時間同じ姿勢を続けると腰に負担がかかり、病院で「早期の脊椎症」と診断されました。私は毎日仕事の日誌を書き、その日の痛みや作業内容を記録しました。社長がそれを知り、サロンパスを買ってきてくれたり、工場の仲間が腰ベルトや休憩の取り方を教えてくれたりしました。それ以来、体が警告を出したら無理せず一旦手を休めてから再開するようになりました。
初めて社長の家に遊びに行ったとき、2人の相撲さんに会えた
その後コロナの影響で、会社の勤務時間は、1日4時間に短縮し、、残業も全くなくなりました。基本給は維持されましたが、手取りは毎月10〜12万円程度になりました。生活を見直し、支出を切り詰め、叔母から借りたお金を返済し終えるのに、1年半もかかりました。その間、仕事がない分、勉強に充てる時間を増やし、JLPTの資料を集めて勉強をしたり、工場の日本人の方に言葉の使い方を教えてもらったりしました。
仕事に慣れてくると、同じ場所に固定されることはなくなり、毎日3〜4工程を動き回るようになりました。あちこちを少しずつ手伝いながら、自分で作業の順序を考え、工夫して体の負担を減らしつつ、作業の進み具合を維持しました。振り返れば、あの「鉄を拾って数える」日々があったからこそ、規律を守ること、体の声に耳を傾けること、そして自分に合った働き方のリズムを見つける力を学べたのだと思います。
工場の中で学び― 「ぺこぺこ」からN3への挑戦
体調や仕事に慣れるのに必死だった最初の日々を越え、私は日常生活の中で日本語を身につけ始めました。それは、工場の中で学ぶことです。休憩時間のちょっとした会話から、新しい言葉がどんどん入ってきました。ある日、日本人の女性が笑いながら私に「ぺこぺこ?」と聞いてきました。意味が分からずポカンとしていると、「おなかすいた?」と教えてくれて、その瞬間「ぺこぺこ=お腹ペコペコ」が頭に刻み込まれました。
その時、「日本語を早く覚えたいなら、日常生活に結びつけるのが一番」ということに気づきました。それからは、前日の夜にN3の文法や単語を勉強すると、翌日すぐに工場で試してみました。言い方が正しければ褒めてもらい、間違っていればその場で直してもらえる。そうして一歩ずつ覚えていきました。
2019年に会社の人と一緒に初めて旅行した
コロナが広がった頃、勤務時間が1日4時間に短縮され、空いた時間を本格的な勉強に充てました。オンライン講座などには通わず、インターネットにある教材を活用しました。YouTubeでN3対策の授業を見たり、組合から配られた過去問を解いたりしました。分からない箇所は印をつけ、翌日工場に持って行って日本人の同僚に聞くことを積み重ねを続けた結果、2020年12月、私はN3に合格することができました。
その小さな紙切れにすぎない合格通知書は、私にとって「機械の音、油の匂い、そして仕事終わりの机に向かう夜」の努力の結晶であり、かけがえのない道のりの証でした。
日本の生活を届けるYouTubeチャンネルを開設
私はもともと写真を撮るのが大好きで、よくFacebookに写真を投稿していました。おかげでそこそこ反響もありました。ある日、偶然Facebookを見ていたら、地元・フートーの特産である「酸肉」を売っている人を見つけ、懐かしくなって購入しました。。食べてみると、本当に美味しくて、すぐに友達にも紹介し、故郷の味を知ってもらいました。そのおかげで、新しい知り合いも増えました。
ちょうどその頃、本職ではないけれど趣味で高性能なカメラを購入し、本格的に撮影して、SNSに投稿する人たちが増えるブームがありました。私はいつの間にか「アマチュアモデル」として声をかけられ、みんなの練習に付き合いながら、自分自身も素敵な記念写真をたくさん残すことができました。
アマチュアモデルを始めた
ちょうどその頃、本職ではないけれど趣味で高性能なカメラを購入し、本格的に撮影して、SNSに投稿する人たちが増えるブームがありました。私はいつの間にか「アマチュアモデル」として声をかけられ、みんなの練習に付き合いながら、自分自身も素敵な記念写真をたくさん残すことができました。
最初に夫に撮ってもらった写真。そのとき私たちはまだ「姉弟」だった 😀
最初は短い動画ばかりでしたが、そこからYouTubeチャンネル「@ngocvangajp」を立ち上げました。最初の頃の内容は、日本に来たばかりの人が必要とする身近なテーマ――郵便再配達の予約方法、ゆうちょでの送金、基本的な書類の手続きなどでした。時間が経つにつれ、チャンネルは私たちの生活リズムと一緒に少しずつ広がっていきました。ベランダで野菜を育てたり、初めてサツマイモを収穫したり、ワクワクしながら季節を迎えました。大阪や上高地への旅行や名古屋水族館へのお出かけもしたりました。ダイソーやユニクロ、コンビニでの買い物の様子も動画に収めました。そして時には、機械工場で働く一人の女性として仕事の具体的な内容や、仕事の大変な所、どうやって体力とモチベーションを保っているか――をありのままを話したりもしました。
チャンネルを始めた目的は、まず両親や家族に、自分の日本での生活を少しでも理解してもらうことでした。また、もし日本に関心を持つ若者が偶然見てくれたら、この国での生活がよりリアルに想像できるようにと思っていました。まさか多くの人に応援されるとは夢にも思いませんでした。チャンネルが2万フォロワーを超えた日、私たちは顔を見合わせて笑いました――「思い出を記録することが、こんなにも温かいものを届けられるんだ」と実感しました。
今も私たちは時々動画を更新しています。それは習慣のようなものであり、日常を残しつつ生活リズムを整え、自分が学んだことや経験したことを届ける大切な時間になっています。
特定技能2号を目指して
友人と楽しく仕事や生活を楽しみながらも、時々ふと考えてしまう瞬間がありました。せっかくベトナムで4年間の大学生活で化学薬学を学んだのに、日本に来てからはその知識を活かせず、学士があっても技能実習生として入国し、その後も特定技能1号で働いている現状を前に、自分の将来につについて考えるようになりました。。同級生の中には日本で技人国ビザに切り替えた人もいて、焦ると同時に「自分も一度挑戦してみたい」という気持ちが強くなりました。
でも、一度自分に問いかけました。「自分の日本語力は十分だろうか? 新しい会社、新しい環境で働く自信はあるだろうか?」――答えは「まだ足りない」でした。そこから気持ちを切り替え、「大学で学んだことを活かせなかった」と悩むより、今ある環境で一歩ずつ積み上げていこうと決めました。N3は通過点、次はN2、そして特定技能2号と、今の仕事をきちんとやりながら、言葉と技術を蓄えていく道を選ぶことにしました。。
試験に挑戦しようと決めた時、私は特定技能1号3年目で、もし失敗してもすぐ帰国しなければならない状況ではありませんでした。だからこそ、焦らず「確実に合格する」ことを優先しました。計画はシンプルで、まずN2を取得し、その後で特定技能2号に必要な二つの試験に挑むことにしました。
工業製品製造分野で特定技能2号を取るには条件があります。3年以上の実務経験と、「生産管理試験(オペレーションまたはプランニング。私はオペレーションを選択しました。)」および「評価試験」の二つを突破すること。この二つは順番に関係なく受験できます。
組合の担当者が、すでに2号に合格した先輩を紹介してくれ、その先輩が経験者の勉強グループに私を招いてくれました。勉強方法や出題傾向、解き方のコツなどを共有し合う環境に入れたのは非常に大きな経験となりました。。グループ学習のおかげで、手探りではなく、はっきりと道筋が見えるようになりました。。具体的なスケジュールとしては、夜9時から11時までオンラインで授業、昼間は予習・問題演習・質問の準備を行いました。2024年10月の結婚を終えて一息ついた後、11月からすぐに勉強モードへ戻り、はっきりと毎日のリズムを整えていきました。
最初の「生産管理試験」は最大の関門でした。単なる日本語力だけでなく、現場リーダーの視点――人員配置、作業の割り振り、資材管理、トラブル対応などが問われます。先輩たちが分析や解放のアドバイスのおかげで、試験の感覚を少しずつつかむことが出来ました。3か月はあっという間に過ぎ、2025年2月に受験。自己採点で手応えを感じつつも、合格発表までは落ち着けませんでした。全国合格率はわずか28%と聞き、結果を手にした時の安堵と誇りは、今でも忘れられません。
続いて「評価試験」。こちらは前の試験より負担が半分程度でしたが、勉強のリズムは同じ。夜の授業、昼の自習、過去問演習と修正の繰り返しでした。すでに勉強の流れが体に馴染んでいたので、迷わず取り組むことができました。そして2025年7月、合格通知を受け取ったのです。
2枚の薄い合格証。しかしその紙には、油の匂いが染み込んだ作業現場の日々、ノートにびっしり書かれたメモ、腰が痛くても机に向かって解いた問題集の夜がすべて詰まっていました。
こうして「3年の実務経験+2つの試験」、特定技能2号への条件を揃えることができました。特別な飛躍ではなく、ただ「夜9〜11時」の積み重ねの連続。それでも私は気づきました。「専門分野」とは資格や肩書きに縛られるものではなく、目の前の仕事を自分のものにしていく過程そのものだと。こうして築いた力があれば、もし将来別の道に進む時も、自分の足でしっかり歩いていけると信じています。
私たちは新しい目標に向かってこれからも頑張っていきます
メッセージ
振り返ると、私には特に、大きな飛躍はありませんでした。ただ小さな一歩を、毎日積み重ねてきただけです。時には「専門と違うのでは」と迷うこともありましたが、本当の「正しさ」とは仕事の名前にあるのではなく、目の前の仕事を自分のものにしていく学び方にあるのだと気づきました。
迷いそうになった時は、今を大切にすることを選びました。規律を守り、体の声に耳を傾け、小さな瞬間を記録し、日々を少しずつ知識を積み重ねていきました。その繰り返しの中で、目標を明確にし、努力を続ければ、やがて自分だけの「実り」を手にできるのだと学びました。
私にとって一番の財産は、資格という肩書だけではありません。習慣として身についた粘り強さ、自分自身と向き合う落ち着き、そして今日の小さな努力が明日の確かな土台になるという確信こそ、何より大切なものだと思っています。
愛知、 2025/08