孤独を乗り越える

 18年前、ハノイ大学の経済学部を卒業後、私は就職せずに家族のビジネスの手伝いをしていました。そして、私費留学生として日本へ行くことに決めました。

日本への留学のきっかけは、父の友人たちでした。父は仕事の関係でたくさんの日本人の友人がおり、私も彼らと接する機会がありました。そこで日本人のことや日本の文化などに興味を持ち始め、日本へ留学しようと決めました。しばらく日本語センターで勉強した後、知り合いの先生からの紹介で福岡にある日本語学校へ留学することになりました。

その福岡の日本語学校には、ベトナム人生徒がおらず、私が初めてのベトナム人留学生でした。来日当初、私は日本語がほとんど話せなかったので友達もいなくて寂しい日々でした。

私は学校まで自転車で通学しており、いつも学校の近くの駐輪場に止めていました。そこでよく日本人のおじいさんとおばあさんを見かけました。2人は近くに住んでいるようで、ある日、勇気を振り絞って、ベトナムのお土産を渡して話しかけてみました。話してみると、2人には子どもいるけれども大きくなって遠く離れて暮らしていて、今は年老いた母親と一緒に暮らしているのだと知りました。

その時から、時々駐輪場で2人に会うと、2人は私に話しかけてくれるようになりました。それだけでなく、手作りの料理をくれたり、着なくなった服をくれたり、お正月のお祝いに誘ってくれたりしました。当時、一人ぼっちで寂しかった私にとって2人の存在は大きく、支えとなっていました。あれから約20年が経ち、今は福岡の地を離れていますが、私たちは昔と変わらずにずっと連絡を取り合っています。

日本語学校は一般的に2年間のコースです。この福岡の日本語学校も同様に2年間のコースが基本ですが、入学してから半年で、福島にある今泉女子専門学校へ進学しました。その専門学校は父の友人から紹介された学校で、とても歴史がある女子校でした。とくに日本の伝統文化を重んじて、茶道や料理、お裁縫などに力を入れていました。私は奨学金をもらえたので学費に困らず、もっと日本のことを勉強したかったので、この学校へ入学することにしました。実はこの学校は今まで外国人留学生を受けれたことがなかったので、私はこの学校で初めての外国人留学生だったのです。

私が来日した当時は、外国人留学生の人数が今よりもはるかに少なかったです。東京でさえ、今の十分の一ぐらいしかいなかったと聞いています。福島自体、人口が少なかったのもありますが、外国人留学生はほとんどいませんでした。

私は日本に来てたった6ヶ月で新しく福島へ移動となり、日本語での会話もほとんどできなかったので寂しい日々でした。周りにはベトナム人もおらず、インターネットも今ほど普及していませんでした。携帯電話もなく、家族と連絡を取れるのもお金がかかるのでめったに取ることができず、贅沢なことでした。

専門学校に通いながら工場でアルバイトをする日々でも、ホームシックや孤独感はなくなりません。今の家族が恋しく、孤独な状況のままではいけないと思い、自分から積極的に日本人と交流しようと思いなおしました。日本人と交流することで、日本語も上達することができると思ったのです。日本人と交流するために、市役所の国際交流イベントや、ベトナム料理教室など、あらゆる機会に参加しました。

当時、私はアジアフードのお店でアルバイトをしていました。そこにみんなから「お母さん」と呼ばれている日本人の女性がいました。そのお母さんには子どもがいるのですが、大きくなって親元から離れて一人暮らしをしています。なので、今は一人で暮らしていると聞き、一人での生活は寂しいだろうと思い、私は一緒に暮らさないかと提案しました。私もお母さんと暮らすことができたら寂しくないし、家賃も折半できます。そして何より、私が一緒に暮らしたいと思っていたのです。お母さんは私の提案にOKしてくれ、私が結婚して東京へ引っ越すことになるまで、ずっと一緒に暮らしていました。

お母さんは明るくて元気がよくて、私は大好きでした。お互いの文化や生活習慣は違いますし、世代も大きく離れていますが、お母さんは私の考えを尊重してくれました。違う部分はたくさんありますが、いつも一緒にご飯を食べたり、お風呂に入ったり、韓流ドラマを見たりと、とても仲が良く、楽しい日々でした。私はお母さんと一緒に暮らしたおかげで、日本人の考え方や文化について学ぶことができ、日本語も格段に上達しました。皆さんのおかげで、私は日本で楽しい毎日を過ごすことができました。

子育てしながら大学進学

 専門学校卒業まであと1年となった2005年、ベトナムの大学時代から付き合っている人と結婚しました。当時、彼は岐阜で働いていたので離れていましたが、ずっと交際を続けていました。結婚をして長女を出産しました。そして夫の勤務地が東京になったのをきっかけに、私たちは東京へ引っ越しました。

引っ越してから、私は仕事をしていなかったので、家で娘の世話をしたり、料理を作って夫の帰りを待つ日々でした。しかしこの生活が徐々にストレスになり始めました。私はせっかく日本に留学生としてきたのに、留学の意味や日本にいる意味がないと感じ、もっと勉強したいと思い始めました。私は専門学校で服飾も勉強していたので、当時、東京のファッション業界で有名だった文化ファッション大学院大学へ進学したいと考えました。

もちろん大学の学費は安くはありません。そして学校へ通うなら娘を預かってもらうためにもお金がかかります。そして、大学を出たところで良い仕事につけるという確証もありません。けれども、私はさらに学歴を得て、チャンスを掴むために大学への進学を決めました。

私たち家族には、周りに親戚も頼れる人もおらず、学校を卒業するまでの2年間は娘の世話をしたり、家事をしたり、学校の試験を受けたりと目まぐるしい2年間でした。娘はまだ1歳で、夫も仕事が忙しいので、学校へ行っているときにも娘を学校へ連れていきました。私が学校の課外活動へ行くときに娘が大泣きしたことは、今でも覚えています。大変で、忘れられない日々でした。そして、大学の2年生になった時、私はすでに30歳を超えていましたが、日本の就職活動に初めて参加することになるのです。

32歳から就職活動

 30歳を過ぎ、小さな娘を抱えながら就職活動が始まりましたが、困難の連続でした。就活のためにジョブフェアや説明会に参加し、たくさんの企業へエントリーし、企業の面接も受けました。面接の機会もたくさんありましたが、私に家族や子どもがいることがわかると不合格となってしまうことが多かったです。

あるコンサルティング会社では、私は5次選考まで進んでいて最終選考でした。面接官は私の履歴書を見て、2006年から2010年までの4年間のブランクがあること、そして2歳の娘がいることがわかったとたん、いきなり不合格となってしまいました。また、学校から紹介してもらった他のファッション業界の会社がありました。そこの最終面接で残業ができるか質問され、私は子どもがいるから難しいと答えたところ、不合格となりました。

就職活動に疲れ、止めようかと思ったこともありますが、決して諦めませんでした。私はまだ自分に合った会社に巡り合っていないだけだ、良い会社に出会えたら内定をもらえると思って頑張り続けていけました。大学2年生になると、企業のインターンシップへの参加が必須となります。夏の休みを使ってインターンシップするのですが、私のインターン先の会社は、当時、ベトナムとの事業を始めたばかりの会社でした。就活も続けながらインターンシップに参加し、そして家事や娘の世話もしていたので、とても大変な日々でした。

就職活動では、長い時間がかかりましたが、ついにあるファッションの会社から内定をいただきました。その会社は、女性に優しい会社で、もちろん結婚している女性にも優しいと評判のある会社でした。内定をもらえたことがうれしくて、インターンシップ先でも同僚に内定をもらえたことを話していたら、数日後、社長から呼ばれました。なんと、このインターンシップ先の会社から内定をもらったのです。毎日、大変な中でインターンシップをしていましたが、日々の努力や頑張りが報われたと感じました。

どちらの内定を承諾するか考えた結果、私は今インターンシップをしている会社の内定を承諾することに決めました。理由は、仕事の内容もわかりますし、上司や同僚など社内の人たちのこともわかるからです。子どもを抱えながらの就活やインターンシップと、たくさんの困難を乗り越え、やっと新しく働くママとしての一歩が始まりました。

ワーキングマザーとして仕事と家庭の両立

 私の仕事は、ファッション製品の開発と生産管理で、生産MDと呼ばれているものです。その仕事はモノづくりと関係があり、一般的な知識だけでなく、私が専門学校で勉強してきた服を作る技術や知識が仕事をする上でとても役に立ちました。

ところが、すべてがすぐにスムーズにいったわけではありません。その仕事に関する新しい知識をたくさん学ばなくてはならず、また先輩から仕事上で指摘されることもあり、頭はパンク状態でした。しかも子どもが熱を出してしまうこともあり、仕事を休まないといけないこともありました。

日本では小さい子がいるお母さんが働く場合、よく時短勤務を使う人がいます。しかし私の娘は3歳で、私はまだ入社したばかりの新入社員出たので時短勤務を申し出ることは申し訳ないと思い、朝9時から夕方5時までのフルタイムで働いていました。3歳になると病気にかかりにくくなっていきますが、しかしまだ小さい子どもなので時々体調を崩すことがあります。娘が体調を崩したと連絡があると、私は会社を早退して迎えに行かなくてはいけませんでした。会社は私の事情を知っているので配慮してくれますが、仕事を中断することで仕事が遅れ、多くの人に迷惑をかけてしまうことになります。これはいけないと思い、夫と何度も話し合いました。私の会社は土曜日出勤することができたので、もし娘が病気で途中で早退しなければならなくなったときは、夫に娘の世話を頼んで土曜日に出勤して遅れた分の仕事をしました。

日本人の上司や先輩はいろいろと指導をしたがります。その人たちの意見には学ぶことも多いので、しっかり聞き、必要な時には自分の意見を伝えることで、徐々に関係が良くなっていきました。そして仕事と家庭とのバランスも上手く取れるようになっていきました。

今の会社を務めて数年後、大きな素材メーカーの会社に転職しました。転職の理由は、娘がずいぶん大きくなったので、私も積極的に仕事に取組み、キャリアアップしたいと考えてからです。仕事のために1週間、ベトナムへ戻らないといけない時もありましたが、私の旦那が家のことを見てくれました。

そして昨年、私たち夫婦は2番目の子どもを出産することに決めました。娘に兄弟を作ってあげたいし、家族も増やしたかったのです。出産にあたり不安や迷いがなかったわけではありません。出産となると、今までバリバリ仕事をしてきたこのキャリアから一時的に離れることになります。私は出産とキャリアを天秤にかけて深く悩みましたが、悩んだ末に「出産」を取り、次女を出産しました。次女の出産を機に1年間の育児休暇を取得しましたが、日本の社会では、まだ女性と男性との間で差があり、男性の方を優遇する考え方が強いのだと実感しました。

生まれたばかりの次女の世話は大変ですが、毎日、2人の子どもたちと遊んでいると疲れも吹き飛びます。この4月に次女が保育園に入園したので、私も1年間の育児休暇から復帰して、新しい業界で新しい会社での挑戦にすることにしました。

前の仕事を辞めて、先はどうなるか分からない、経験したことのないIT業界に転職することを決心しました。いろいろな困難はあると思いますが、やってみないと分かりません。日本に来た精神で精一杯頑張って、自分がどこまでいけるか試してみたいと思ってます。

メッセージ

 私が日本に来たばかりの約20年前と比べると、在日ベトナム人コミュニティは大きく、インターネットもはるかに普及しているので、いつでもベトナム人の先輩と後輩とで悩みを相談でき、情報交換するのも非常に便利になりました。

しかし、昔も今も、どの時代においても課題や困難なことはあります。母国から離れた新しい国へ留学して、就職するのは大変です。子どもがいる母親はもっと大変です。なので、私のこの20年近くの歩みを共有することで、少しでもこれから私と同じ道を歩く後輩たちの経験や自信に繋がってほしいと思っています。

みなさんに一つ覚えておいてほしいことがあります。18歳でも20歳でも、私みたいに30歳を超えていても、先の未来を信じて精一杯頑張れば絶対に報われます。日本では自分が努力した分は返ってきます。努力が報われると信じて、自分の道を歩んでいってほしいです。

東京, 2020年4月