人生のターニングポイント

 私の日本語との出会い、日本留学には特別な縁がありました。私は両親を11歳の時に亡くし、ビンズオンにある児童養護施設で暮らしていました。2013年のホーチミン市師範技術大学の1年生になる年、施設の運営者であるビン先生から日本へ留学したいかと聞かれました。自分自身の現状から留学なんて夢にも思ったことはありませんでした。しかし、ビン先生から日本留学の話を聞いて、私にも海外留学のチャンスがあるんだと夢を抱くことができるようになりました。

 ビン先生が紹介してくれたのは朝日新聞の奨学生でした。この奨学生に合格したら、日本に留学できるだけでなく、2年間の日本語学校の学費はかかりません。新聞配達のアルバイトもでき、家もあるので、生活でお金に困ることもありません。ただ、この朝日新聞の奨学生に合格するためには、日本語能力N4以上の条件とベトナムでの選抜試験に合格しないといけないのです。

 当時、私はまだ大学1年生に合格したばかりでした。大学に通いながら奨学生の試験を受験することもできますが、せっかく先生が紹介してくれた大事なチャンスです。全力を尽くすために大学の結果を保留にして、日本語を勉強するためにさくら日本語学校へ入学することにしました。

 日本へ留学することなんて今まで考えたこともなかったので、日本語の勉強を始めた当初は勉強も大変で、知らないことばかりでした。しかし、自分でこの道に進むと選んだので、全力を尽くそうと思って毎日頑張りました。頑張って6か月間日本語を勉強したおかげで、晴れて日本語能力N4に合格することができました。そして日本語の勉強を始めて1年後、朝日新聞の奨学生試験にも合格し、2015年の春、念願の日本留学の夢が叶いました。

日本での初めての日々

 日本に来たばかりの時は一番大変でした。1年間ベトナムで日本語を勉強していましたが、実際に日本人の話す日本語がなかなか聞き取れず、日本語での会話に慣れるまで時間がかかりました。幸いなことに朝日新聞が生活環境は全部用意してくれていたので、生活面で苦労することはほとんどありませんでした。

 新聞配達の仕事は決して楽ではありませんでした。2年間、この仕事をやっていましたが、その中でも忘れられない思い出があります。私が日本に来たときは春でしたが、春と言っても早朝は寒く、冬になるとさらに寒くて手がかじかみ、バイクのヘルメットの留め具もなかなか留められないぐらいでした。また、雨の日や雪の日にはレインコートを着てバイクを運転していましたが、配達するのに何回も下りたりするのでいつもびしょ濡れでした。雨だから、大雪だからからと言って新聞配達を休むことはできないのです。

 私の地域は坂道が多く、急な坂道もある場所だったので、雪が降ると滑りやすくなるのでチェーンを巻いていましたが、それでも坂道で転んでしまうこともありました。気を付けながらバイクを走らせていても、急な下り坂では効果はあまりありません。

 雪の日のことで、とくに思い出に残っていることがあります。ある大雪の日、新聞配達でバイクを運転していた時、かなり急な坂道がありました。気を付けて運転していたのですが、それでもタイヤが滑り、ブレーキも効かず、どうしようもなくなりました。あっと思った時にはバイクも自分の体もたおれ、雪の中に新聞が散らばってしまいました。早朝の3時の雪が降り積もる中、倒れたバイクを直し、散らばった新聞を拾うのは大変で、しんどかったです。

 ほかにも、雨の日、マンションの2階に配達しているときに、足が滑って階段から落ちてしまったこともありました。急なことで驚いたのと、打ち付けた痛みですぐには立ち上がれませんでした。

 こんな大変な目に遭ったときは、誰かに話を聞いてほしいなと思いました。私には姉が3人、ベトナムにいるので、姉たちに電話して話したいと思いましたが、辛くて大変だと話したら姉たちを心配させてしまうかもしれないと思いました。私が自分で日本へ行くという目標を立てたのだから、大変なことも自分で一つ一つ乗り越えよう、頑張ろうと決めました。


苦戦する就職活動

 来日してからの1年間はN2合格のために全力を尽くしていたので、日本での就職活動について、スケジュールや応募の仕方などよく知りませんでした。実際に就職活動してみるとN2合格しただけでは全然ダメで、もっと勉強したり準備したりしなければいけないのだと気が付きました。日本の会社の求人票には、外国人採用でN2以上と書いてあっても、N2の合格証明書では役に立ちません。面接の場で、自分には日本語の会話力があり、コミュニケーション能力も高く、企業や仕事内容の理解ができているとアピールしなければ通らないのです。

まだ日本語能力が未熟だったときはマイナビなどの日本語で書かれた就活情報やコラムを読んで理解することはできなかったので、MP研究会のベトナム語で書かれている就活コンテンツを読んで、就活の基本を学びました。自己分析や履歴書の書き方、面接の質問の受け答えなど、基本の基本から勉強しました。とくに自己分析は大変ですが意味のあるものだと思いました。自分がどんな人なのか、

 どうなりたいのかがわからないまま面接で仕事の希望を聞かれても答えられません。事前の準備がいかに大切かを知っただけでなく、日本語での会話力やコミュニケーション能力も高めないといけないと思い知りました。私は学校とアルバイト先でしか日本語を使わなかったので、日本語の発音やコミュニケーション力に不安がありました。そこで積極的に日本人との交流を増やそうと思い、日本人と交流できるグループや活動を探して日本人の友人を増やしていきました。日本人とたくさん話をしていく中で、場面ごとにどのように日本語を使うのか学ぶことができました。学校やアルバイト以外でも日本語力を磨く工夫をしていました。

 就職活動を始めて数ヶ月後、初めてある企業から内定をいただきました。その会社はアパレル業界の会社向けのシステムを手掛けている小さな会社で、カスタマーサービスやデータ入力のお仕事でした。内定後、1日4時間のインターンシップを半年間続けることが入社条件だったので、インターンシップから始めました。このインターンシップ期間では本当にいろいろなことを学びました。日本の会社のビジネスマナーから電話の応対、日本でのビジネスメールの書き方、お客様が来所された際のご案内など、取引先のお客様は日本人なのでとても勉強になりました。データ入力なども上手になりました。数ヵ月間インターンシップをしましたが、結局、内定を辞退することにしました。辞退してしましたが、この会社で学んだことは後々とても生かされています。

就職を視野に入れて学校を選ぶ

 私が11歳の時に両親が亡くなり、私たちの生活はいっぱいいっぱいでした。私が日本留学のチャンスを手にしたとき、もちろん私も喜びましたが、姉たちと親戚が喜んでくれ、頑張ってほしいと大きな期待をかけてくれました。なので日本に着いた日からみんなの期待に応えられるように勉強も生活も精一杯頑張ろうと心に誓いました。

 私は小さいころから絵を描くことが好きだったので、建築の仕事をしたいと思っていました。なので、日本語学校卒業後は建築の専門学校へ進学しようと考え、専門学校へ申込みをしました。ちょうど専門学校へ申し込んだ時期に、ベトナムからビン先生が来日し、お会いする機会がありました。私は進路について先生に相談しました。先生は私が子どものころから見てくれているので、自分よりも私のことを知っています。先生は性格や個性、そして将来のことを考えるとホテルやトラベルなど観光業界の方がいいだろうとアドバイスをしてくれました。ホテルなどの仕事は考えたことがなかったのでじっくり考えた結果、ビン先生のアドバイスに従おうと思いました。

 建築の専門学校ではなく、観光の専門学校へ進路を変更しました。最初にやったことは、今の日本語学校の先生にトラベル、宿泊、ホテルの専門学校について聞くことです。どの専門学校がいいのか、就職のチャンスがたくさんあるのはどの学校かなど、たくさん意見を聞きました。

 観光に関する専門学校はたくさんありますが、先生のお話によると、JTBの専門学校がお勧めとのことでした。JTBの専門学校はネットワークも広く、研修も充実しており、さらに就職のチャンスもたくさんあります。その分、月曜日から金曜日まで、朝から夕方まで授業がぎっしりあるので勉強は大変です。入学試験もハードルが高いです。ハードルが高い分、学校側の就活のサポートはしっかりしています。いろいろな専門学校のメリットとデメリットを分析して、私は日本で就職したいと思っていたので、就職のサポートがしっかりしていて、就職率も良いJTBの専門学校に決めました。

 この頃、まだ日本語が上手ではなく、JTBの専門学校に合格できるかはわかりませんでした。しかし目標への第一歩なので、チャレンジしようと頑張り始めました。すでに自分は日本語の会話力がまだ弱いことは把握していました。なので、専門学校の面接でよく質問される自己紹介や志望理由はしっかり考えて、何度も話す練習をしました。実際の面接のときは練習が功を奏して順調に話せたと思います。私は、正しい文法の日本語で話すことを重視するのではなく、面接官の質問に対して自分が思ったことを伝えられることを重視しました。どうやったら自分の言いたいことが相手に伝わるか、日々練習していました。この練習の成果が出て、JTBの専門学校に合格することができました。私の日本語学校からこの専門学校に合格したのは、なんと私が最初の留学生でした。

日本お父さん、お母さんとの出会い

 日本語学校を卒業し、専門学校に入学しました。日本語学校卒業と同時に、2年間の朝日新聞奨学生の契約が終わったので、新しく居酒屋のホールのアルバイトを始めました。ホールの仕事の時には笑顔を心がけて接客していました。

 ある日、3人のお客さんから声をかけられました。ご夫婦と息子さんご家族でした。挨拶程度しか会話していませんが、そのご夫婦は私に好意を持ってくれたようで、住所と電話番号を書いたメモを渡してくれ、時間があったら会いましょうと言ってくれました。ほんの少ししか会話していませんが、そのご夫婦の親切さや好意を感じて、後日、私から電話してみました。

そのご夫婦と再会したのは、ちょうど私の誕生日でした。前はアルバイト中だったので少ししか話せませんでしたが、今回はたくさん話す時間がありました。お二人は私に、日本の生活はどうか、暮らしに慣れたかなどを質問し、いろいろとお話していました。その中で、ベトナムの両親は心配していないかと質問されました。私は両親を子どものころに亡くしたことを話したところ、お二人とも私の頑張りを知ってくれたからか、今日から私たちが日本のお父さんとお母さんになると言ってくれました。私は嬉しかったです。

 それから私を家に招待してくれたり、農作業のボランティアに誘ってくれたりといろいろな経験をさせてもらえました。その中で、お父さん、お母さんとの一番の思い出があります。ある日、農作業のボランティアに一緒に参加していた時のことです。私はベトナムから持ってきた靴を履いて作業をしていたら泥まみれになってしまいました。その靴を脱いでおいて置いたら、お父さんがせっせと私の靴をきれいにしようとしてくれていたのです。小さいころから両親がおらず、日本にも頼れる人がいなかったので、お父さんのその姿が本物の両親のようで、私はとても嬉しくて、心が温まりました。

 お父さんとお母さんと出会って初めて日本のお正月も経験しました。もう何度か日本のお正月の時期は過ごしていましたが、この時期、多くの留学生はアルバイトに明け暮れていて、「日本のお正月」は経験したことがない人が多いと思います。私も同じでした。今回、お父さんが今年は家族で一緒にお正月をお祝いしようと連絡してくれ、私は初めて日本のお正月を体験することができました。こたつで紅白歌合戦を見たり、お節料理を食べたり、初詣に行ったりと楽しかったです。その時にお父さんとお母さんが買ってくれたお守りは今でも肌身離さず身に付けています。

 専門学校卒業の時には、お父さんとお母さんを卒業式に招待し、一緒に写真を撮りました。学校の卒業式に両親がいてくれたことはなかったので、この卒業式は日本でとても大切な思い出です。日本のお父さん、お母さんとの出会いがなければ、心温まる経験も初めての体験もできませんでした。本当に大切な宝物です。

就職活動

 日本語学校の先生が教えてくれたように、私の専門学校の就職支援はとてもしっかりしていました。先生は一人一人の学生をよく把握し、学力や能力に応じて会社を提案してくれました。もちろん、履歴書の作成や求人検索、日本語での面接練習のサポートもしてくれました。私が今働いているホテルの面接練習をお願いした時、担任の先生ではなく、校長先生が直接練習してくれて驚いたことを今でも覚えています。

 私が就活でまず考えたのは、4年間東京に住んでいたので、東京以外の場所で働きたいと考えていました。東京は大都会でとても便利です。しかし、私にとっては東京の生活のスピードは早すぎて、生活や周りをゆっくり感じることができません。子どものころにいろいろなものを失ったからこそ、いつ何が起きるかわからないとしみじみ感じています。一生懸命自分の生活を犠牲にしてもがむしゃらに働き、成功してからリラックスして自分の生活を楽しんだらいいという考え方もあると思いますが、私は今、その時その時の人生を楽しみたいと思っています。なので東京以外の環境で、ゆっくりと周りを感じることができる環境に住みたいと思っていました。

 どこで働きたいか考えていた時、学校の研修で行ったことのある群馬県の草津を思いつきました。草津の環境は自分の理想に近い環境だと思い、先生に草津で働きたいと伝えたところ、学校のネットワークを使って草津のある有名なホテルを紹介してくれました。書類選考、面接を経て、晴れて草津の有名ホテルに就職することができました。

草津での生活

 草津の生活はとてもゆっくりで、都会みたいにガヤガヤして忙しないわけでなく、それでも草津は観光地なのである程度賑やかで豊かな場所です。私は20㎡の社宅に一人暮らししています。この家は社宅ですが、自分が毎日過ごす大切な空間として、勉強部屋やリビング、キッチンなどを自分の好みに合わせて作りました。仕事から疲れて帰ってきたら、自分の家でホッとリラックスできる家にしました。

 ホテルの仕事の休みの日には旅行したり楽しんでいます。就職してお金を稼ぐだけの生活ではなく、旅行をして日本の文化を知ったり、いろいろな地方へ行っています。時間があったら積極的にいろいろな場所へ旅行し、日本の47都道府県のうち37の都道府県はすでに行きました。残りの13都道府県は近いうちに行きたいと思っています。旅行に行くときは必ず両親の写真も一緒に持って行きます。両親と一緒に旅行して、旅行先で写真を撮ることで思い出を増やしています。

 私は小さい頃、お母さんに、大きくなったら画家になって、大きな家を買ってあげると言いました。社会人になり、両親に家を買ってあげることはお金があっても叶わなくなってしまったので、今は一緒に旅行に行き、私の幸せな姿を見せてあげたいと思っています。

メッセージ

 誰にでもチャンスはあります。そのチャンスが来たら、チャンスをつぶすのではなく、大切に努力し続けて自分の夢を実現させましょう。日本に行けば素敵で楽しい毎日だとみんな思っているかもしれませんが、それは人それぞれです。実際に日本で様々な経験をして、自分の色で日本を描いてください。たくさん経験していくと、日本がカラフルに見えると思います。

色々なことにチャレンジし、困難なことがあっても自分の目標に向かって諦めずに続けてください。毎日の仕事に忙殺されるのではなく、自分自身のために時間を使ってみてください。いろいろな場所に旅行へ行ったり、生活を探求してみたり、思い出をつくることができると楽しい毎日になると思います。

草津、2021年3月