ター・ティ・トゥ・ハン
TA THI THU HANG
ター・ティ・トゥ・ハン
TA THI THU HANG
Profile & Message
2017年9月 「Mi Trà Cafe」をオープン
2022年4月 カフェを譲渡し、家族全員でベトナムに帰国
2022年9月 ハノイで日本留学関係の会社を起業
2023年3月 起業を諦め、夫の故郷に戻る
2023年4月~2023年7月 日本に戻り、何もしない生活を体験
2023年7月~2024年4月 再び日本へ家族全員で戻る準備のためベトナムに滞在
2024年4月 家族で日本に戻り、人事関連の仕事に就く
「あれから7年が経ち、私の人生には多くの新たな転機が訪れました。夫と共に日本で小さな飲食店をオープンし、コロナ禍という厳しい時期を乗り越えた後、ベトナムに戻って2年の間起業に挑戦しました。そして現在、再び日本に戻り、新たな生活がスタートしています。2回目の今回お話しする内容は、特にベトナムへの長期帰国を検討している方々にとって、役立つ情報になればと思っています。」
7年前、私は日本に渡り、日本語を学んだ後にベトナムに帰国して仕事を始めました。その後、自分に合った仕事を探すために再び日本に戻り、さらに日本ではコミュニティ活動にも力を入れるなど、10年以上に渡るさまざまな経験を重ねてきました。その道のりを皆さんとシェアする機会もいただきました。
それから7年が経ち、私の人生には多くの新たな転機が訪れました。夫と共に日本で小さな飲食店をオープンし、コロナ禍という厳しい時期を乗り越えた後、ベトナムに戻って2年の間起業に挑戦しました。そして現在、再び日本に戻り、新たな生活がスタートしています。
2回目の今回お話しする内容は、特にベトナムへの長期帰国を検討している方々にとって、役立つ情報になればと思っています。
→ 1回目の記事はこちらからご覧ください: Voice of Asean Senpai Vol 25
日本での起業
2016年末、夫と私が立ち上げた日本旅行コミュニティ「Wakuwaku Tabi」は順調に発展し、メンバー同士のつながりも徐々に深まってきました。その中で、みんなが気軽に集まり、交流し、助け合えるリアルな場所を求める声が次第に大きくなっていきました。ちょうどそのタイミングで、夫が以前から温めていた夢である「自分のお店をオープンする」という計画を実現しようと決意しました。
私自身はもともとビジネスに情熱を持つタイプではなく、飲食業に関しても、うどん屋やパン屋、クレープ店でアルバイトした経験がある程度でした。しかし、夫がこの夢に熱心だったため、一緒にその夢を叶えようと協力することを決めました。まず最初にぶつかった壁は、限られた資金の中で、私たちに適切な場所を見つけることでした。
私たちが目を付けたのは、神奈川県の秦野エリアでした。この地域は東京の中心部から離れているため賃料が比較的手頃で、周辺には日産の工場や、多くのベトナム人学生が通う日本語学校があります。さらに、このエリアにはまだベトナム料理店が存在していなかったため、潜在的な顧客層は安定していると考えました。
場所を決定した後、私はまず会社設立の手続きを始めると同時に、お店のセットアップや準備に必要な情報収集に取り掛かりました。2017年当時、日本のベトナム人コミュニティは現在のように情報を共有するグループが多くなく、日本で飲食店を開業したベトナム人が、その経験をネット上で共有する例もほとんど有りませんでした。そのため、経験者に相談することができず、日本語でネット検索をしながら、自力で必要な情報を探し出して進めるしかありませんでした。
お店の内装作業は、タイル貼りやペンキ塗り、壁の装飾など、ほとんど外部業者に頼らずに進めました。友人たちがそれぞれ手伝ってくれたおかげで、自分たちでスムーズに作業を進めることができました。そのおかげで、大幅なコスト削減にもつながりました。こうした、友人たちの協力で、お店の開業に必要な備品や環境が整い、2017年10月、秦野に私たちの小さなベトナム料理店を正式にオープンすることができました。お店は小さいながらも、友人たちの愛情や支えが詰まった、私にとって特別な場所です。
お店の準備を進める過程で、友人を通じて「姉さん」と呼ばれる方と出会いました。姉さんは日本に長く住んでいて、岡山県でいくつかの飲食店を運営した経験を持つ方でした。私たちが飲食店を開く計画をしていることを知ると、わざわざ岡山から秦野まで来てくださり、ベトナム料理の作り方やお店を開業する際の注意点などを丁寧に教えてくださいました。それにも関わらず、一切お金を受け取らず、全て無償で助けてくれたのです。
姉さんは、「あなたたちはコミュニティのために積極的に活動しているから力になりたい」とおっしゃってくれました。私たちはこれまで、日本で「愛のバインチュン」などのチャリティー活動を行い、募金活動にも取り組んできました。その活動に感謝し、姉さんなりの形で私たちを支援することで、コミュニティに貢献したいと思ってくださったそうです。姉さんの助けがあったおかげで、開業当初の多くの困難を乗り越えることができました。
さらに、姉さんに教えていただいた料理に加え、夫婦でベトナムに帰国してドリンクや料理の講座にも参加し、メニューの幅を広げるために努力しました。その結果、より多彩なメニューを提供できるようになり、たくさんのお客様に楽しんでいただけるお店へと成長しました。
お店のオープンは、友人たちの協力のおかげで順調に進みましたが、営業を開始してからはさまざまな困難に直面しました。中でも一番大変だったのは、開店当初、資金が限られていてアルバイトを雇う余裕がなく、夫婦と共同経営者の友人の3人で、すべての業務を手作業でこなさなければならなかったことです。材料の仕入れや下ごしらえ、調理、配膳、片付け、皿洗い、経理まで、全て自分たちで対応していました。
また、近くの日本語学校には多くのベトナム人学生が通っていたため、開店当初は学生たちを惹きつけるため朝7時からお店を開けて朝食を提供していました。そのため、準備は朝5時頃から始める必要がありました。さらに、前日の夜にお客様が遅くまで滞在した場合は、片付けが終わるのが深夜1~2時になることも珍しくありませんでした。そんな日は、翌朝の準備に間に合うよう、店で寝泊まりすることもしばしばありました。
忙しさが一段落した時には、新しいメニューの試作や味付けの調整を行い、より美味しく、幅広いお客様の好みに合う料理を目指して努力しました。また、頻繁にお客様の意見を伺い、観察を重ねながら、新規のお客様を惹きつけるだけでなく、リピーターを増やすための工夫を凝らしたイベントや企画も考案しました。開店当初の友人たちの支援に頼るだけではなく、常に新しいお客様を呼び込み、既存のお客様とのつながりを大切にすることを意識していました。
お店をオープンしたばかりの頃は本当に大変で、休む暇もほとんどありませんでしたが、それでもその期間は夫婦にとって非常に意義深いものでした。新しい出会いや交流を通じて、たくさんの新しい友人ができたからです。お客様が気軽に集まり、交流を楽しめる空間を作りたいという思いから、お店の一部をカラオケコーナーとしました。時には近くの日本語学校に通う学生たちが、何も注文せずに立ち寄り、ただ話をしたり、数曲歌ったりして帰ることもありました。そのような姿を見るたびに、お店がただ食事を提供する場にとどまらず、人々のつながりを育む場所になっていることを実感し、嬉しい気持ちになりました。
私たちのツーリンググループ「Waku Waku Tabi」が集まるときも、もう場所探しに悩むことはなくなりました。このお店は、単なる飲食店ではなく、私たち夫婦にとって大切な「第2の家族」とも言える存在になりました。お客様や友人たちとの温かい交流を重ねるうちに、この場所がどんどん特別な空間になっていくのを実感しました。
私たち夫婦は共通の趣味として大型バイクに乗っており、その情熱を活かしてお店の認知度を広げるため、毎年開催されるハーレーのバイクイベントにも参加してきました。この活動は、バイク好きとしての夢を追いかけると同時に、ベトナムの伝統料理を通じて日本にベトナム文化を広める良い機会にもなりました。その結果、多くの日本人にもお店を知っていただき、温かい応援をいただけるようになりました。
また、地域の日本人と近隣のベトナム人コミュニティをつなぐため、私たちは地元の商工会に参加し、イベントの際にはお店を交流の場として提供することもありました。特に、旧正月や祝祭日には、ベトナム人と日本人が一緒に楽しめるイベントを企画し、「チャリティーのためのバインチュン作り」などを開催しました。こうしたイベントを通じて、地域の人々が交流し、お互いをより深く理解し合う機会を作ることができました。
しかし、2020年には新型コロナウイルスの世界的な流行により、政府から厳しい営業制限がかかり、私たちの店も大きな影響を受けました。そんな中で、新たな挑戦としてオンラインでの料理販売を始めたことで、新しい顧客層にアプローチすることができました。さらに、営業制限が緩和された後も、常連のお客様が変わらず応援してくださり、政府からの補助金も支えとなったことで、パンデミックの2年間をなんとか乗り切ることができました。この困難な時期を通じて、柔軟な対応の大切さ、そして地域の支えがどれほど心強いものかを改めて実感しました。
帰国の決断
コロナ禍の2年間をなんとか乗り越え、これからは順調に進んでいくと思っていた矢先、また新たな転機が訪れました。
2年間ベトナムに帰れなかったことで、夫は次第に家族と離れて暮らすことへの不安や寂しさを感じるようになり、「やっぱりベトナムに戻って、両親や親戚のそばで暮らしたい」と思うようになりました。お店の経営は順調ではあるものの、現状維持が精一杯で、これ以上の発展は難しい状況でした。そんな中、実は私たちは2019年からベトナムで3つのカフェを経営しており、それも順調に運営できていることから、夫の「ベトナムに戻って新しい生活を始めたい」という気持ちはますます強くなっていきました。
その時点で、私はすでに日本で16年近く暮らしていました。長い年月を故郷を離れて過ごしてきたからこそ、夫の決断を前にして、どうすべきか本当に戸惑いました。
ベトナムに戻って新しい生活を始めてみたい気持ちもある一方で、本当に馴染めるのかという不安もありました。私は18歳で日本に渡り、それからずっとここで暮らし、働いてきたので、今のベトナムの社会についての知識はほとんどありません。その間にベトナムは目まぐるしく発展し、果たして自分が適応できるのか、仕事を見つけられるのか、さらにはこれまであまり関わらずに済んでいた「対人関係の問題」とも向き合わなければならないのではないかと、考えれば考えるほど不安は募るばかりでした。
そんな迷いが続く中、夫の「帰りたい」という気持ちはますます強くなり、「3人(私と子どもたち)は日本に残って生活を安定させ、しばらくは自分が日本とベトナムを行き来しようか」とまで言い出しました。でも、私にとって家族は一緒にいるべきもの。バラバラの生活は考えられませんでした。
悩みに悩んだ末、私は夫とともにベトナムへ戻り、新しい生活を始めることを決意しました。
ベトナムに完全に戻ると決めた以上、お店と車を手放さなければなりませんでした。お店は、私たち夫婦だけでなく、多くの仲間や友人たちの想いが詰まった大切な場所だったので、譲る相手は慎重に選びました。幸いにも、近くで食品関係の仕事をしていて、長期的に経営を考えているベトナム人の方に引き継ぐことができ、少し安心しました。
通常、帰国を決めたら最低でも1年かけて準備を進めるものですが、私たちの場合はすべてが驚くほどのスピードで進みました。1月に家族全員で帰ることを決め、2月から3月にかけてお店や車の売却手続き、賃貸の解約、子どもの退園・退学手続きなどを済ませ、4月にはもう荷物をまとめて帰国しました。
けれど、こうして慌ただしく決めてしまい、帰国後の生活について十分な準備やリサーチをしなかったせいで、帰国後の約2年間、私たちは本当に多くの困難に直面することになりました。
準備不足でのスタートとベトナムでの起業
準備期間があまりにも短く、帰国後の具体的な計画がほとんどないまま新しい生活を始めたため、家族全員がさまざまな問題に直面しました。
まずは健康面。帰国して間もなく、夫は食中毒にかかり、体調不良が何週間も続いていました。子どもたちも、環境の変化や気候の違いの影響なのか、交互に体調を崩し、ひとりが治ったと思えば、もうひとりがまた熱を出すという日々の繰り返し。家族全員が新しい環境に慣れ、健康を取り戻すまでには、約半年もの時間がかかりました。
この時期は、家の片付けや新しい生活リズムを整えながら、夫婦で「これからベトナムでどうやって生計を立てていくのか」を模索する時間でもありました。
当時、私たちはまだ夫の故郷であるヴィエトチーに住んでいたので、住居の問題はとりあえずクリア。しかし、子どもたちは体調が安定せず、まだ学校に通えずに家で過ごす日々が続いていました。さらに、ヴィエトチーでは日本語を活かせる仕事の選択肢がほとんどなく、家計は以前から共同経営していたカフェの収益と、私が行っていた日本語のオンライン授業、親向けの子育てコーチングクラスの収入に頼るしかありませんでした。限られた収入の中での生活は決して楽ではなく、不安を感じることも少なくありませんでした。
そんな中、生活がようやく落ち着いてきた頃、夫婦にとってベトナムでの新たな起業のチャンスが訪れました。
ちょうどその時、日本で働いていた頃に関わっていた専門学校の元パートナーと話す機会があり、彼から「一緒にベトナムで留学支援の会社を立ち上げないか」と誘われたのです。
この仕事なら、日本で培った経験や強みを活かせると感じたので、夫婦で挑戦を決意しました。こうして、家族そろって再びハノイへ移り、新たな生活の「第2章」をスタートさせることになったのです。
理想と現実のギャップ
いざ事業を始めてみると、日本での留学生支援の経験と、ベトナムでの留学ビジネスの運営はまったくの別物だということに気づかされました。
日本の専門学校で留学生をサポートしていた頃は、すでに学生が在籍しており、彼らの生活や進学をサポートをするのが主な業務でした。しかし、ベトナムでの留学ビジネスでは、まず日本へ留学を希望する生徒を見つけ、ヒアリングし、実際に申し込んでもらうことが最も重要なステップになります。
ちょうどその頃、日本円の為替レートが大きく下落し、日本の留学市場は韓国や台湾など他の国々に比べて魅力が薄れていました。そのため、「日本での生活や経験がどれほど価値があるか」を語るだけでは、生徒を惹きつけるには不十分だったのです。
さらに、私たちは長年ベトナムを離れていたため、留学を希望する若者にどのようにアプローチすればよいのか、まったくの手探りの状態でした。人脈も乏しく、生徒を見つけること自体が大きな課題となったのです。
会社を運営し続けるため、私たちはゼロから生徒を集めることに膨大な時間と労力を費やしました。オンライン・オフラインのセミナーを開催したり、学校を訪問したりと、とにかく動き続ける毎日でした。
そんな中、子どもたちはまだ小さく、ハノイに引っ越してからも体調を崩しがちでした。特に下の子は頻繁に体調を崩し、食事もまともに取れず、ほぼ栄養失調のような状態になってしまっていました。私自身も、昼間は会社で夜遅くまで働き、帰宅してからはオンライン授業を続けるという生活で、子どもたちの世話や人間関係の構築に時間を割く余裕がほとんどありませんでした。
母がハノイまで来てくれ、料理や子どもの送り迎えなどを手伝ってくれましたが、それでも毎日が混乱の連続でした。仕事が山積みで処理しきれず、焦るばかりでした。さらに、忙しさのあまり小さな子どもたちに十分なケアをしてあげられないことへの葛藤もあり、常に心がざわついていました。
夫にとっても厳しい状況でした。もともとデスクワークには向いていない性格なのに、毎日スーツを着て会社に行き、資料を作り、留学相談をする生活は大きなストレスになっていました。また、私たちが出資していたカフェも、コロナ禍をなんとか乗り越えたものの、経済状況の悪化により売上が激減していました。コロナ後のベトナム経済は厳しく、人々のカフェ通いの習慣も以前ほど活発ではなくなっていたのです。
ハノイでの起業から半年が過ぎたころ、私たち夫婦は常に目まぐるしく、行き詰まった状態でした。このまま起業に振り回され続ければ、家族の生活が本当に破綻してしまう——そう感じずにはいられませんでした。
確かに、日本での起業経験があり、それなりの成功を収めたこともありました。しかし、今回の状況はまったく違いました。日本での起業時は、豊富な人脈があり、若さゆえの勢いもありました。そして何より、子どもがいなかったのです。一方で今回は、人脈ゼロ、頼れる人もいない。そして、幼い2人の子どもを抱えながら、さらに3人目の子どもを授かったばかりでした。
妊娠がわかったのは、開業からちょうど6カ月が経った頃でした。すべてが混乱のピークにある中での発覚でした。もはや、このままハノイで踏ん張り続けるのは現実的ではないと判断し、私たちは一旦立ち止まることに決めました。そして、家族全員でヴィエトチーに戻り、今後の方向性を冷静に考える時間を持つことにしました。
ハノイでの生活を続けるには、すでに2人の子どもの生活費や教育費が大きな負担になっていました。そこにもう1人が加わるとなると、経済的にも精神的にも限界を超えてしまうと確信したのです。
日本への再移住
ヴィエトチーに戻ったことで、経済的な負担は確かに軽減されました。しかし、ここでの生活が理想的とは言えないことに気づくのに、それほど時間はかかりませんでした。
まず、子どもたちの幼稚園環境が、ハノイとも日本ともまったく異なり、なかなか馴染めずにいました。それだけでなく、私自身も教育方針や環境の違いに強い違和感を覚えました。
さらに、ヴィエトチーに長く住み続けることは、私たちのキャリアにとっても大きな課題をもたらしました。仕事の選択肢が極端に限られ、将来的な展望が見えにくい状況でした。かといって、ハノイに戻れば、仕事の機会は広がるものの、家賃や子どもの教育費、保険、医療費など、3人の子どもを抱える家族にはあまりにも大きな経済的負担がのしかかることが明白でした。
そこで、夫婦で何度も話し合い、新たな選択肢として「日本への再移住」を本格的に検討することにしました。
私自身、日本の永住権を持っていたため、ビザの問題で困ることはありませんでした。しかし、長年日本を離れていたため、果たして今の日本が私たち家族にとって再び「住みやすい場所」になり得るのか、その確信は持てませんでした。
そこで、まずは4ヶ月間の「お試し移住」してみることに決めました。実際に生活しながら、今の日本が自分たちに合うのか、子どもたちが適応できるのか、そして仕事のチャンスがあるのかを確かめることにしました。
こうして、私たちは再び日本へと足を踏み入れることになったのです。
この4か月間は夫婦ともに一切仕事をせず、ただ家族との時間を大切に過ごしました。
毎日一緒に料理をし、ゆっくりと生活しながら、これからの人生について語り合う。そんな日々は、私にとってかけがえのない時間となりました。
それまでの私は、ずっと仕事に追われ、目の前の課題をこなすことで精一杯でした。しかし、この4か月間で初めて「立ち止まる」ことができたのです。毎日を慌ただしく過ごすのではなく、一日一日を大切に味わいながら生きることの大切さを実感しました。
改めて考えてみると、今の私たち家族にとって、日本での生活が最も安定しやすいと感じました。子どもたちが小さいうちは、教育環境や医療体制が整っていることが何よりも重要ですし、経済的な基盤を築くための人脈や仕事のチャンスも、日本のほうが多いのが現実です。
また、日本を離れて初めて、自分がどれほど長い間日本の環境に慣れ親しんできたのかを痛感しました。ベトナムに戻る決断をしたときは、正直なところ準備不足だったのかもしれません。仕事、生活、人間関係、すべてをゼロから築き直すには、あまりにも時間が足りなかったのです。
こうして、夫婦で何度も話し合った結果、私たちはもう一度日本に戻り、ここで新たなスタートを切ることを決意しました。日本は、今の私たちにとってやはり一番「暮らしやすい場所」なのかもしれないと感じたからです。そして、今度こそ焦らず、一歩ずつ確実に。家族とともに、未来を築いていこうと思います。
新たな始まり
日本での生活を4か月間試した後、私たち家族は一度ベトナムへ戻り、6か月間の準備期間を経て、2024年4月に正式に日本へ移住しました。
3人の小さな子どもがいるため、夫婦で話し合い、一方が正社員として働き、もう一方は時間に縛られないフリーランスの仕事をすることにしました。夫はデスクワークが苦手なため、医療通訳のフリーランスとして働く道を選び、私は日本の人材関連企業で正社員として働くことになりました。
日本に戻って、もうすぐ1年が経ちます。まだ整理すべきことはたくさんありますが、家族の生活は少しずつ落ち着き、穏やかになってきました。夫婦の会話も増え、祖父母の助けはないものの、子どもたちと過ごせる時間が増えたことは、何より嬉しく感じています。
以前、日本を離れる前は、日本での生活が単調で退屈に感じることもありました。ベトナムに帰るたびに、活気に満ちた賑やかな雰囲気を感じ、「日本にいることで大きなチャンスを逃しているのでは?」と悩んだこともあります。友人たちがベトナムで成功していく姿を見て、「自分もベトナムに戻れば、もっとキャリアアップできるのでは?」と考えることもありました。
しかし、実際にベトナムで生活を経験し、その後日本に戻ったことで、日本の方が自分に合っていると強く感じるようになりました。ベトナムでの生活は確かに楽しく、活気に満ちていますが、私たち家族にとっては、日本でこれまで築いてきた基盤があるからこそ、よりスムーズに生活できるのだと実感しました。
もちろん、ベトナムで新しい生活を一から築くことも不可能ではありません。ただ、それには相当な時間と準備が必要です。私たちの場合、6か月や1年、2年では足りず、おそらく5〜7年はかかるでしょう。しかし、その時間は、今の私たちには長すぎるものでした。
そう考えたとき、日本はやはり私たち家族にとって最適な場所なのだと確信しました。これからも日本で、一歩ずつ家族の未来を築いていこうと思います。
メッセージ
これまでの道のりを振り返ると、日本に残るかベトナムに戻るかという決断は、単なる場所の選択ではなく、何よりも家族全員の準備と意思の統一が重要だと気づきました。もしベトナムに戻ると決めたなら、少なくとも1年間は経済的な備えをしておく必要があります。収入が安定しない状況に陥れば、簡単に行き詰まってしまうからです。「とりあえず帰ればなんとかなる」という楽観的な考えではなく、具体的な計画を立て、夫婦で将来の展望や課題についてしっかり話し合うことが大切だと実感しました。
この2年間は決して楽なものではありませんでしたが、その中で最も大きな収穫は、自分自身をより深く理解できたこと、そして家族とのつながりを再認識できたことです。夫婦としても、お互いをより理解し合い、共通の考えを持ち、家族の生活を調和させることができるようになりました。また、実際にベトナムでの生活を経験できたことも、貴重な体験となりました。
今回、日本に戻るにあたっては、明確な計画を持ち、より主体的に動くことができています。TikTokを始めたり、新しいことに挑戦したりしながら、自分を成長させる機会を楽しんでいます。そして今、現在の生活にとても満足しています。結局のところ、大切なのは「どこで暮らすか」ではなく、「どのように自分たちの生活を築いていくか」なのかもしれません。
東京、 2025/01