ブイ ・タン ・タム
BUI THANH TAM
ブイ ・タン ・タム
BUI THANH TAM
Profile & Message
2011年4月 静岡県の日本語学校に留学
2013年 三重県の四日市大学に入学
2016年 高田馬場に「Banh Mi Xin Chao」1号店をオープン
2017年 四日市大学を卒業
2019年7月 浅草に「Banh Mi Xin Chao」2号店をオープン
2020年6月 神戸市にて初のフランチャイズ店舗を展開
2023年 『Shark Tank』にて資金調達
2023年 国家主席および関連機関の視察団を迎える
2024年 ビジネスパートナー「Dcom」より追加出資を受け、グローバル展開時に共に 進出できる体制を構築
2025年 セントラルキッチンを新設
「起業とは、ただ美味しい料理を作ることでも、おしゃれな店舗を構えることでもありません。リスクを見極め、テクノロジーを活用し、そして常に学び続ける姿勢を持つことです。そうした総合的な力があってこそ、変化の波に柔軟に対応し、長く生き残り、そして着実に成長していけるのだと私は信じています。」
起業の夢の始まりはケバブ屋
2011年、高校卒業後すぐ、私は自費で日本への留学を決意しました。最初の2年間は静岡県にある日本語学校で日本語を学び、その後、三重県にある四日市大学に進学しました。
この大学を選んだのは、兄や親戚が通っていたという縁があったことに加え、外国人留学生向けの奨学金制度が充実していたこと、そして何より、幼い頃からの夢である「起業」に向けたビジネス教育に力を入れていたことが大きな理由です。
大学時代は三重県に住んでいましたが、当時交際していた彼女が東京で学んでいたため、ゴールデンウィークなどの長期休暇には、よく東京を訪れていました。
2015年のゴールデンウィークに、彼女と一緒に上野を散策していた際、通りの一角で、ケバブサンドの屋台に長い列ができているのを見かけました。その光景に、私は強く心を惹かれました。
初めて東京に行った際にBanh Mi Xin Chaoをやろうと思い立ち、日本人が経営するパン屋さんに行ったが、閉まっていた。
その時、ふと頭に浮かんだのが、ベトナムのバインミーです。当時、CNNで「世界のストリートフード・トップ10」のひとつとして紹介されていた、ベトナムを代表するソウルフードです。
「日本で、ベトナムのバインミーブランドを立ち上げたい!」
そのアイデアは、まるで電撃のように頭にひらめいたのです。
私はすぐに兄のズイに電話をかけました。彼は四日市大学のOBで、当時は大阪の組合で働いていました。このバインミーブランドの構想を話すと、彼はとても乗り気で、すぐに「やろう!」と答えてくれました。
そこから私たちは、すぐに物件探しを始め、資金の準備や事業計画の立案に取り掛かりました。私は三重、兄は大阪と、離れた場所に住んでいましたが、出店場所に選んだのは迷うことなく東京でした。東京はメディアの中心地であり、在日ベトナム人が最も多く暮らす街だからです。
当時すでに、日本には多くのベトナム料理店がありましたが、バインミー専門店はごくわずかでした。その多くも日本人による経営で、本場の味とは少し異なるものでした。私はそこに、市場の「空白地帯」があることに気づき、これこそが私たちにとっての絶好のチャンスだと確信したのです。
さらに、私がこの挑戦に踏み切ったもう一つの理由は、当時の在日ベトナム人コミュニティに対する報道のあり方にありました。新聞やニュースではネガティブな内容ばかりが目立ち、自分たちのイメージがどんどん悪くなっていくのを感じていました。
「もし、自分が何か良いこと、正しいこと、価値あることを形にできたら――」
そんな思いから、私は起業という行動を通じて、ベトナム人のイメージを少しでも良くし、周囲にポジティブなエネルギーを広げていけるのではないかと信じました。
そしてその信念のもとに、小さな一歩から始めた行動が、少しずつではありますが、確かな変化を生み出していったのです。
準備段階での壁
アイデアを実行に移すうえで、最初に直面したのは資金調達の壁でした。
私はまだ大学生で、兄のズイは会社員として働いており、家族も十分な経済支援ができる状況ではありませんでした。当初、私たちが使える資金は、兄夫妻の結婚祝いとしていただいたお金と、友人や知人からのわずかな借り入れが中心でした。
初めのうちは、親しい人たちに資金を募ってみたものの、時間が経つにつれて、リスクの大きさを感じたのか、多くの方が支援から手を引いていきました。その決断を私たちは尊重し、いただいた資金はきちんと返済するように努めました。この経験は、困難ではありましたが、私たちにとって起業における最初の「責任」を学ぶ大きなきっかけとなりました。
ベトナムバインミーの店を開くにあたり、何よりも大切なのは「美味しいバインミーを作ること」です。この役割は、私が担当しました。
実はベトナムにいた頃、私はほとんど料理をしていませんでした。しかし、日本に来てから、居酒屋でアルバイトをする中で少しずつ基礎を学ぶようになりました。その店のオーナーはとても厳しく、スタッフには「すべての作業を素早くこなせ」と求める方で、私はそこでスピード感をもって仕事をすることと、段取りを叩き込まれました。
外食を控え、自分で料理をするようになってからは、次第に味付けや調理方法への関心も高まり、少しずつスキルを磨いていきました。私は何事もやり始めたら徹底的に調べるタイプなので、バインミー作りでも、既存のレシピにとどまらず、パテやチャーシュー、ソースに使う材料を一つひとつ研究しました。時にはベトナムの家族にお願いして、ホイアンのバインミーの味を調べてもらい、それを参考にして自分なりのレシピを開発しました。
新しいレシピを思いつくたびに、友人や先生、知人に試食してもらいました。ある時、四日市大学で「子ども祭り」が開催され、私のバインミーを提供してみたところ、嬉しいことに多くの方に喜んでもらえました。
私はいつも、ベトナムバインミーの特徴的な味をそのまま保つことを大切にしています。ナムプラーや香草など、日本人には馴染みのない材料も使いますが、違いを大切にしているので、あえてそれを使用しています。
アルバイトでの経験、自己学習の積み重ね、そして少しの運もあって、バインミーは思っていたほど難しい料理ではないと気づきました。正しいスパイスと分量を把握すれば、おいしくて特徴的な商品が作れると確信しました。そして、最終的には私のブランド「バインミー・シンチャオ」のために、独自のレシピを開発し、いくつかのバリエーションにも挑戦していきました。そうして、少しずつブランドの味が形になっていったのです。
バインミー・シンチャオ第1号店オープン
東京での物件探しは、本当に苦労の連続でした。
私たちは二人とも東京に住んだことがなく、なにから始めればいいのかさえ分からなかったので、主に友人や知人を頼りに情報を集めていました。当時は、ただ単純に「人が多いところであれば商売がうまくいく」と考えて、上野やアメ横周辺を中心に物件を探していました。実際に、いくつか良いと思う場所も見つかりましたが、いざ交渉してみると「実績がない」との理由で断られたり、中には「日本人にしか貸さない」と言われたこともありました。
苦労してやっと見つけた物件は、高田馬場駅近くでした。予算にも合っていて、実績のない外国人でも貸してくれるとのことでしたが、条件として日本人の保証人が必要でした。自分が当時お世話になっていて、兄のズイも同じくお世話になった四日市大学の教授にすぐ相談したところ、幸運にも快く引き受けてくださいました。そのおかげで、念願の初めての店舗物件を契約することができました。
ただ、経験もなく、誰からのアドバイスも受けていなかった私たちにとって、初期費用の大きさは想像以上の負担でした。家賃の10ヶ月分、仲介手数料1ヶ月分、サービス料金1ヶ月分、敷金2ヶ月分、そして物件の改装費として約500万円がかかり、合計すると実質14ヶ月分以上の家賃に相当する出費でした。今思えば、もっと交渉して費用を抑えることもできたのかもしれませんが、当時は経験がなかったので、その方法すら分かりませんでした。
ようやく改装が終わり、開店準備が整ったと思った矢先、新たな課題に直面しました。東京には、私たちが理想とするベトナム風のバインミーを提供するお店がほとんどなく、パンの調達先が見つからなかったのです。以前は、四日市のスーパー「Valor」でベトナムバインミーに似たフランスパンを入手していましたが、東京にはそのスーパーがなく、代わりになるパンを探す必要がありました。20〜30軒のパン屋に問い合わせた結果、ようやく1軒が協力してくれることになり、開店の1週間前になってようやくパンの手配が整いました。
Banh Mi Xin Chaoの開店日
開店日には、SugoiやTokyoBaitoなどのメディア支援もあり、多くのお客様が来店してくれました。特に最初の3日間はフル稼働で、初日にはなんと500個のバインミーが売れました。十分な材料を準備していたつもりでしたが、まさかこんなにも多くの方に来ていただけるとは思っていませんでした。
開店初期は、ほとんど休みなしで働きました。起業したばかりで、手元の資金はすでにすべて使い切っていたので、兄のズイと私は家賃を払う余裕もなく、最初は大塚で友人と一緒に暮らしていました。お店に泊まり込むことも多く、段ボールを床に敷いて寝ることもあり、費用を少しでも節約して翌日も頑張れるようにしていました。
店内には椅子が6つしかなく、お客様の多くはテイクアウトでした。毎日、午前2時や3時まで働き、数時間の仮眠を取ってまた新しい一日が始まりました。
あの頃を振り返ると、資金も経験も足りず、本当に大変でした。それでもとても貴重な時間だったと感じます。自分の信じることに向かって、アイデアを一歩ずつ現実に変えていく過程には、大きな喜びがありました。疲れて、店に泊まったりする生活や、インスタントラーメンで空腹をしのいだりしても、お客様が喜んでバインミーを手にしてくれる姿を見ると、その疲れがすべて吹き飛びました。
私はいつも、社会に何か貢献するためには、まず自分の財務能力と個人の能力を十分に高めることが大切だと思っています。そして、この起業の旅は、まさにその力を身につけるための第一歩だったと感じています。もちろん、すべてが完璧だったわけではありませんが、これは間違いなく「本物」でした。ゼロから始める勇気を持ち、最後までやり抜いたことを誇りに思っています。
「ベトナムでの忘れられない失敗」
最初の週はお客さんが次々と訪れ、1日に500食も売れました。すべてが順調に思え、この先もうまくいくと信じていました。しかし、2週目には厳しい現実を突き付けられました。冬が近づき、寒さが増すにつれて、日本人はベトナムのバインミーをあまり知らなかったため、なかなか手に取ってもらえませんでした。ベトナム人も寒い時期にはパンをあまり食べたがらなかったため、店はほぼ閉店に近い状態になり、売上は急激に減少しました。
そんな最も厳しい時期に、運が味方してくれました。私の卒業論文が中日新聞に紹介され、その後、VTVのインタビューも受けました。そのおかげで、少しずつメディアの波が戻り始めました。そして、思いがけないチャンスが訪れました。それは、有名なキャスター、ライ・ヴァン・サムさんが東京を訪れることになり、記者たちの提案で、私たちの店でインタビューを行うことが決まりました。
VTVのインタビューに答える
店舗が狭かったため、インタビューは店の外の芝生で行われましたが、その様子がVTVの人気番組「カフェ・サング」で放送されると、想像以上の反響を呼びました。それは番組の中でも最も話題となる回となり、その日を境に、店には再びたくさんのお客様が訪れるようになりました。
高田馬場公園の芝生で、「カフェ・サン」の番組を超スピード収録!
ライ・ヴァン・サムさんと一緒に、収録後の成果を振り返るひととき
試行錯誤と挑戦の連続のなかで、私たちは多くを学び、そしてようやく最初の店舗が安定しはじめたのです。
順調に進んでいたこともあり、私はベトナムに帰国し、このモデルを広げるという強い意欲を持っていました。2号店はホーチミン市の第10区にオープンしましたが、これは痛い失敗となりました。この経験を通じて、私は大切なことに気づかされました。日本でうまくいったことが、必ずしもベトナム市場に通用するわけではないということです。
日本では「新しさ」やメディアの影響が有利に働きましたが、故郷では私は数あるバインミー販売店の中の一つに過ぎませんでした。競争上の優位性は、ほとんどありませんでした。
失敗は私にとって大きな痛手でしたが、同時に目を覚まさせてもくれました。もしあの時、何も考えずに成功していたら、無謀に拡大し、もっと大きな失敗をしていたかもしれません。そのため、2018年から2019年にかけて、私は再び日本に戻り、2号店を浅草にオープンすることに決めました。
浅草は家賃こそ高いものの、敷金が低かったので、この場所を選びました。工事チームを雇いながら、自分自身も施工に参加して、できる限りコストを抑えました。最終的な費用は約1,500万円に達しました。最初は銀行が融資を承認してくれましたが、税務署のミスで財務報告にズレが生じ、融資は取り消されてしまいました。
資金不足に陥った私たちは、様々なところに助けを求めました。工事チームには支払いを待ってもらい、ベトナムの知人には銀行融資の協力をお願いしました。
最も厳しかった時期、私たち兄弟は小さな家で一緒に暮らしていました。あの頃は本当に貧しくて、毎食、毎回の出費を計算しながら生活していました。でも、そのおかげで、私は事業運営の実際の方法を学び、資金の重みをより深く理解することができました。
今振り返ってみると、あのすべての困難が、私にとって最も大切な教訓を教えてくれました。成功は、運で決まるのではなく、すべてが崩れそうな時でも、諦めずに続けたからこそ、得られたものなのです。失敗するたびに私は、ビジネスだけでなく、人間関係や自分自身についても学びました。
兄と一緒に
コロナを乗り越えて
いくつもの努力の末、ついに浅草に2号店をオープンすることができました。有名な観光スポットのど真ん中という立地だったので、「これでお客さんがたくさん来てくれるに違いない!」と期待していました。
しかし、現実はまったく違っていました。毎月の家賃は70万円以上もかかるのに、ある日は売上がたった8,000円しかなかったのです。観光地にあるにもかかわらず、店舗は2階に位置していたため、観光客は階段を上るのを嫌がり、日本人のお客様はまだベトナム料理に馴染みがなく、さらに外国人観光客は「せっかく日本に来たんだから日本食が食べたい」と思っているようで、なかなかお客様が来てくれませんでした。
今思えば、少し考えればすぐに分かったはずのことでしたが、私たちは新しいお店を持てたことが嬉しくて、冷静な判断ができていなかったのだと思います。
そんな中、売上が厳しい状況にあるとき、一筋の希望が見えてきました。この時期、Bánh Mì Xin Chào は初のフランチャイズ店舗もオープンしました。神戸に住むある方が、「神戸でもこのお店をやりたい」と声をかけてくれたのです。その方は店舗の場所の確保から内装工事までをすべてを担当し、私たちはレシピと運営ノウハウを提供するという、いわゆるフランチャイズモデルでの展開でした。約1年近く準備を進めた結果、2020年の中頃にやっと店舗が正式にオープンしました。
しかし、状況がようやく安定しそうになった矢先、コロナが襲ってきました。オープンしたばかりのお店はすぐに影響を受け、来店客はどんどん減っていきました。「もう今回ばかりは続けられないかもしれない」と思ったのを、今でもはっきり覚えています。
そんな中、日本政府がタイミングよく支援策を打ち出してくれました。私たちのような店舗には、1日あたり5万円の補助金が出ることになり、そのおかげで営業を続けながら戦略を立て直すことができたのです。メニューを見直し、持ち帰りに適した商品に絞って、Uber Eatsでの販売にも力を入れました。その結果、徐々に売上が回復し、多い日には1日で8万円近く売り上げることができるようになりました。売上だけで生活するのはまだ厳しい状況でしたが、補助金と組み合わせることで、なんとか事業を維持することができました。
そんな厳しい状況の中、思いがけずメディアが私たちに注目してくれました。テレビ局や新聞記者がやってきて、「コロナ禍で奮闘する若いベトナム人の物語」として取り上げたいと言ってくれたのです。この機会を活かし、私はメニューをさらに改良し、お店の空間もより温かみのある雰囲気に整えました。すると次第に「まるでホイアンにいるようだ」と言ってくれるベトナム人のお客様も増えていきました。
この経験を通じて、私は一つの大切なことを学びました。「美味しい料理だけでは足りない。店には“物語”や“個性”が必要なんだ」ということです。空間作り、メニュー構成、SNSでの発信など、すべてが常に新しく、魅力的でなければなりません。
コロナ禍は、私にとって「立ち止まり、自分の進む道を見直す」時間でもありました。その頃から、フランチャイズ展開に関心のある人たちとのネットワークを少しずつ広げていきました。そして、最初に思い描いた「Bánh Mì Xin Chào」というブランドを、全国展開するという夢に向けて、また一歩を踏み出すことができたのです。
もちろん、これからも課題は山積みです。でも、自分が進む道が少しずつ見えてきた今は、「本気で取り組み続ける限り、きっと道は拓ける」と信じられるようになりました。
妻と一緒に
50店舗展開の目標と世界進出
フランチャイズ第1号店の成功をきっかけに、「バインミー・シンチャオ」は本格的にフランチャイズ展開を加速させました。小規模な飲食店にとどまらず、イトーヨーカドーやイオンといった大手流通チェーンへの出店も実現しました。さらに、ベトナムフェスティバルをはじめとした文化イベントにも継続的に参加し、ブランドとしての存在感を確かなものにしています。
当初掲げていた目標は「全国で50店舗展開」でしたが、今ではその視野を海外にも広げ、「Go Global」を目指して歩み始めています。
最初に大手スーパーへの出店が実現したのは、ある偶然からでした。
元々イトーヨーカドーの店舗前でフードトラックによる試験販売を行っていたところ、想像以上に好評で、その反響がきっかけとなり、なんと店内への常設店舗出店の話をいただいたのです。
その後、ベトナムフェスティバルへの積極的な出店姿勢が評価され、イオン側からも声がかかりました。そして商業施設のリニューアルオープンのタイミングで出店することが決定しました。オープン当日には、なんと1日で売上が100万円に達したこともあり、高い利益率を実現することができました。
フードトラックオープン!
大手流通と提携が組めたことで、売上だけでなく、ブランドとしての信頼性も一気に高まりました。
イトーヨーカドー、イオン、ユニクロといった日本の大手企業とのコラボ実績は、他のパートナーとの商談時にも強力なアピール材料となっています。まさに、揺るぎない「実績」として、ブランドの背中を押してくれています。また、ベトナムフェスティバルは、ブランド認知を広げる絶好の場でもあり、販売の場としても非常に効率的です。ある年には、たった2日間で600万円の売上を達成しました。
思い返せば、立ち上げ当初は、チーム全員で自宅のキッチンに集まり、寝る間も惜しんで仕込みをしていた時代もありました。でも今では、倉庫やオペレーション体制もしっかり整い、スムーズな運営ができるようになりました。
現在では、日本国内のほぼすべてのベトナム系イベントに出店しており、出店登録を忘れていると主催者から連絡が来るほどの存在になりました。
こうしたイベントから私たちはさらなる可能性を感じ、イベント・フェスティバル専用の事業部の立ち上げを決意しました。これもまた、私たちにとって戦略的な一歩です。
ただし、ここから急成長・安定成長をするためには、どうしても「外部からの資金」が必要です。チームもあり、商品もあり、展開力もある。でも「資金」だけが足りない。だから私たちは、資金調達を本格的にスタートすることを決めました。
私たちがまず挑戦したのは、ベトナムの有名投資番組「Shark Tank」への出演でした。番組の中で、日本でのビジネス経験を持つ唯一の投資家であるビンさんが、私たちの想いや取り組みに共感し、出資を決断してくださったのです。
シャーク・ビンさんからの出資を受けて、シャークタンクで資金調達に成功!
「Shark Tankに出たのは、宣伝目的では?」という声も一部ありましたが、私たちが出演を決めた理由は「本気で資金調達をしたかったから」です。なぜなら、資金が足りなければスピードが落ちる。そしてその間に、大手企業が市場に参入してきたら、これまで積み重ねてきたポジションを失ってしまう可能性もあるからです。
だからこそ、私たちは明確なビジョンを持っています。
「買収されるに値する規模になるのか、それとも競合と真正面から戦える存在になるのか。」
そのどちらにしても、まずはしっかりとした土台とスピードが必要でした。
実は、バインミー・シンチャオの成長は、この2年の急成長だけでは語れません。その前の5年間は、体制づくりと土台の蓄積に費やしてきた時間でした。ビンさんからの出資によって、2〜3店舗を展開できる基盤を整え、それ以外は自社資金や銀行からの融資などを活用しながら、キャッシュフローを改善し、着実に拡大を続けています。
会社の忘年会
国家主席ご一行と東京都知事と一緒に記念撮影
そして、ついに今年4月。念願だった「セントラルキッチン」をオープンしました。これは、品質の安定、全店舗への供給体制の強化、そして事業のDX推進の中核となる存在です。
ブランドは、ただ美味しい商品を提供するだけでは作れません。
「プロフェッショナルで丁寧な姿勢」、
そして「次の一手につながるストーリー」があってこそ、人の心に残るブランドになると、私たちは信じています。
そして、このセントラルキッチンこそが、私たちの歩みの象徴的な存在です。ここは、人材を教育する場であり、効率的なシステム生産の核でもあり、さらに一般のお客様にも開かれた、交流と発信のスペースでもあります。
きっとこれから先も、さまざまな試練や壁が待ち受けていることでしょう。でも、同時にチャンスも無限にあると私たちは信じています。これまでと同じように「本気で、誠実に、ブレずに」。そんな姿勢を大切にしながら、私たちはこの道を一歩ずつ歩み続けます。心を込めていれば、 きっと道は拓けると信じているからです。
セントラルキッチンのオープニングセレモニー
メッセージ
どの国で起業するにしても、それがベトナムでも、日本でも、あるいは他の国であっても、最も大切なのは、まず「徹底的なリサーチ」をすることです。
私たち自身も、過去に「感覚」だけを頼りに市場調査を怠り、大きなリスクを背負ったことがありました。幸運にも、そのときはまだ「やり直すチャンス」が残っていたため、なんとか軌道修正できましたが、今はもう当時とは状況が違います。社会の変化はとても速く、準備不足のままでは、あっという間に致命的な失敗へとつながってしまう。そういう時代になっているのです。
商品力、人材、テクノロジーのどれか一つでも準備が不十分であれば、たちまち市場から淘汰されてしまうことも珍しくありません。「やり直しのチャンス」が、いつもあるとは限らないのです。
起業とは、ただ美味しい料理を作ることでも、おしゃれな店舗を構えることでもありません。リスクを見極め、テクノロジーを活用し、そして常に学び続ける姿勢を持つことです。そうした総合的な力があってこそ、変化の波に柔軟に対応し、長く生き残り、そして着実に成長していけるのだと私は信じています。
東京、 2025/04