チャン・ ヴェト・アン

TRAN VIET ANH

Profile & Message

2008年 ハノイ工科大学を卒業し、Ericsson Vietnamで働き始める

2012年 ドイツの大学とハノイ工科大学の

連携MBAプログラムに参加

2013年          慶応大学が主催するビジネスプランコンテストに参加

2014年          日本企業のフィールドワークに参加

2015年          NEC株式会社に入社 海外開発担当

   日本へ来るルートや手段はそれぞれ違いますが、常に試練や変化を受け入れる意識を持って、自分を変え、環境に馴染んで、成長すれば、成功を収められると信じています。

自らが変わること

2008年にハノイ工科大学を卒業後、英語が多少できたこともあり、運良く外資系の大手通信会社に採用されました。新しい知識を取得することや、いろいろと挑戦できる機会が多く、仕事の環境が非常に良かったです。同僚や上司はオープンで協調性のある人ばかりでした。仕事も安定的で、自分が頑張ったことも認められるので全く転職を考えていませんでした。

しかし、周りの友達の多くは2~3年で転職していました。周りの人がそのように動いていることを見る度に、「自分も…、他の仕事にチャレンジした方が良いのだろうか…?」と自問していました。

ある日、「我々が変わって初めて人生が変わる」という自己啓発本を読んだことをきっかけに、このテーマについて同僚に相談する機会がありました。その時、外部の要因に変化があり、自分が置いていかれたくないのなら、積極的な態度やチャレンジ精神をもって常に変化に応対できるように姿勢を整えることが大切だと気付き、2012年に、ドイツの大学とハノイ工科大学の連携MBAプログラムに申し込みました。夜の暇な時間と週末を利用して勉強に励み、近い将来の転職のために知識を増やすつもりでいました。

来日の夢と初のチャンス

 2012年には妻が子供を出産しました。とても喜ばしいことではありますが、安全な粉ミルクはどこで買えばいいのか、どこの病院に行けばいいのか等、不安や心配を感じることもありました。

同じ時期に、環境汚染問題や保育教育の質が低下する問題が新聞記事で多く取り上げられていたので、自分の子供のためにより良い環境がないかを初めて考えました。その時、最初に閃いたのが日本でした。

明確な計画はありませんでしたが、妻に相談してみると、幸いなことに妻も共感してくれました。二人ともまだ若かったので、できるうちに海外に行って色々な場所を訪れ、体験し、良い環境で暮らすことができれば、多少大変なことがあっても乗り越えられると思っていました。そして、日本に行くチャンスを探し始めました。どこから始めればいいか分かりませんでしたが、前に進むしかないと決意しました。

その後、たまたまMBAのマーケティング講義に出席した際に、慶応大学がASEAN圏の各大学と連携して開催する「ビジネスプランコンテスト」を知りました。このプログラムは、日本の学生とベトナムの学生がグループになり、メールやFacetime、skype等を利用して話し合い、国内市場、またはASEAN市場向けの経営計画を3ヶ月以内に開発するというコンテストでした。

そして、上位3チームに入ると4週間日本にインターンシップへ行くチャンスが与えられ、さらに日本の大手企業の採用面接を受けることができるという条件でした。その当時は仕事がとても忙しく、娘もまだ小さかったのですが、この機会が日本に行く夢につながり、自分自身を変える良い機会になると考え、時間を調整して参加することにしました。

コンテストに参加した当初、「コミュニケーション力に自信がない」、「賞が魅力的ではない」等の理由で積極的に参加しないメンバーが何人かいて、とても困りました。しかし、同じ意思を持つカイン君というメンバーがいたので、彼と力を合わせて他メンバーを説得し、積極的に参加するよう呼びかけると、参加メンバーは12人まで増えました。

私は日本の学生と、ベトナム人チームの間での連絡係を務め、カイン君と共にプロジェクトを促進しました。3ヵ月後、私たちのチームは上位3チームに入ることはできなかったものの、私とカイン君の二人はプロジェクトを促進した頑張りを評価して頂き、日本でのフィールドワークに参加できることになりました。

フィールドワークは3日間で短い期間でしたが、日本企業の環境を観察する機会を頂きました。そして、最終日には日本の大手企業の面接を受け、合格し、さらに3週間のフィールドワークに参加できることになりました。ここまでくると、日本で就職することへのイメージが鮮明になってきました。ベトナムでの仕事を片付けて、再度3週間のフィールドワークに参加するために日本へ行きました。この3週間は私にとって大きな戦いになります。全力を注ぐ決意をしてしっかりと準備をしていました。

いつまでもあきらめない限りは

3週間のフィールドワークは日本の大手企業の環境を体験できました。日本語が分からないため、言語の壁にぶつかりましたが、周りの人のサポートのおかげで、日本人や日本のビジネス文化が少しずつ分かるようになりました。毎日の挨拶、効率的な時間の使い方、勤勉さを知ること等です。

3週間のフィールドワークの姿勢が評価され、終了後に人事部の方から採用選考の話しを頂きました。日本語ができない海外在住の外国人を採用することは前例がありませんでしたが、その後、ウェブテストや面接などを受けました。

日本へ行く機会が近づいていることをいつにも増して実感し、家族とも話し合い、頭の中で日本での生活を描いていました。しかし、家族が日本に馴染めるか、どこに住むのか、子供の学校のことなど心配もありました。雇用契約の交渉の際にも心配ごとに頭を支配され冷静に話し合うことができず、残念ながら入社には至りませんでした。

大きなチャンスを逃してしまい絶望しましたが、家族が励ましてくれました。ビジネスプランコンテストに参加してからこれまでに日本人とのネットワークが拡がり、日本の大学の教授からの信頼を得ることができたと、前向きに考えました。

その後も日本へ行く機会を探し続けました。その結果、日本人の教授のご縁でまたしても日本でのインターンシップに参加する機会を頂きました。インターンシップ後、採用選考に合格し、雇用契約の交渉の際には前回の失敗を活かし、ついに日本での就職が決まりました。

家族との転機と友人からのサポート

日本へ行く夢を2年間追い続けて実現することができましたが、妻の日本での仕事について心配がありました。当時、妻は7年間外資系の銀行で働いていましたので、日本でも同じような仕事を希望していました。しかし、調べてみるとそれはかなり厳しいことだと分かりました。日本へ行くということは、妻は自分のキャリアを失うことになりますが、違う国で新しい生活を始めることを前向きに捉えました。

2015年5月にまず私一人で来日し、仕事と生活を安定させて家族を呼び寄せる手続きを調べました。仕事では日本語は必要ありませんでしたが、生活では必要なので独学で日本語を勉強しました。週末にはボランティアの日本語クラスに参加しました。子供の保育園のことや、妻が日本に来た際のアルバイトのことなどを友達に聞いたり、調べたりしました。友達の話によると、妻が学校へ通ったり、仕事をしたりしないと、保育園に子供預けることはとても難しいと聞いて心配でしたが、少しずつ解決していこうと夫婦で励まし合いました。

半年が経った、2015年11月に妻と子供が来日し、また家族が一緒に生活できるようになりました。妻は来日後1週間後には、英語力を活かせるアルバイトを探し始めました。日本語はできませんでしたが、友人のサポートもあり、家の近所の保育園で英語を教えるアルバイトが見つかりました。

私たち夫婦は二人とも日本語ができなかったので、友人に子供の保育園の手続きでも友人に力を貸してくれました。近所に住んでいるベトナム人の友人が入園手続きを手伝ってくれたおかげで、子供は無事に保育園へ入園することができました。 妻の仕事や子供の保育園のことが心配でしたが、思っていたよりも早く2つの問題が解決したので、日本の生活に順調に馴染むことができました。

妻は時々、銀行での仕事の話しをするので、懐かしんでいると分かっていますが、日本に来たことで英語を教える先生になったので、徐々に新しい仕事を愛すると思います。生活は前向きに考えれば、自分が期待する方向に行けることでしょう。

メッセージ

時々、家族で来日までの過程の話しをします。振返ってみると、私は偶然と幸運が重なり、日本へ来る機会を得たと思っていますが、妻はチャンスが努力した人にのみ訪れると言います。

変化を積極的に受け入れると、新しいチャンスが訪れます。日本にこられたことはその教訓の成果です。しかし、それは新たな旅の始まりで、今後も多くの試練や変化が起こるでしょう。日本へ来るルートや手段はそれぞれ違いますが、常に試練や変化を受け入れる意識を持って、自分を変え、環境に馴染んで、成長すれば、成功を収められると信じています。

横浜、2017年1月