新しい方向性を探す

 2011年にベトナムの建設大学を卒業し、ハノイの建築事務所で働き始めました。2年間、設計の経験を積み、会社の仕事以外にも同僚と設計グループを作り、お互いに意見を交換しながら経験を共有し合い、設計の仕事の依頼も受けていました。当時の仕事は順調でいろいろなプロジェクトに携わり、経験も積んできましたが、徐々にこれ以上自分を成長させることは難しいのではと思い始めました。

 ベトナムでは、国内のトレンドに合わせ、画一的なデザインのビルや建物ばかりなので、新しい設計のデザインにチャレンジできる機会がほとんどありません。。そこで、自分で新しい設計デザインやアイディアを取り入れようと思い、他の国の資料や本などを探してみました。しかし、ベトナムには近代的な建築の本はあまりなく、海外から翻訳されている資料も古いものばかりで、参考資料としては使えますがあまり実践的ではありませんでした。

また日本風の建築様式、西洋風の建築様式など、それぞれの建築様式や設計デザインはその国の文化や気候、生活習慣から生まれています。なので、その国の様式をそのまま取り入れても上手くいかず、資料を読むだけではわかりません。実際に現地へ赴き、文化や習慣、生活を体験することで初めてわかることです。

 そこで、自分自身をもっと成長させるために海外で仕事をして、実践的に学びたいと思い始めました。当時、私の第一希望の行き先は日本でした。その理由は、日本とベトナムは社会的背景や文化面で似ていることが多く、さらに、日本には有名な近代的な建築家も大勢いるので、もし日本で働くことができたら多くのことが学べるだろうと思っていたからです。

ちょうどその時、偶然にも母校の建設大学で、日本で働きたい建設系エンジニア向けのプロジェクトである「日越人材開発雇用プロジェクト(JP CAREER)」のことを知りました。そのプロジェクトに参加すると日本語の授業を受けることができ、あまり高い授業料ではありません。尚且つ日本で働くことができるチャンスもあります。私は日本の無駄を省いて効率性を重視した建築様式(minimalism)に興味があったので、この「日越人材開発雇用プロジェクト(JP CAREER)」に参加しようと決めました。

 書類選考、面接と2回の選考を受け、晴れて日越人材開発雇用プロジェクト(JP CAREER)の第1期メンバーの60名の1人に選ばれました。このプロジェクトで日本語の勉強に専念し、なるべく短期間で日本へ行くために、ハノイの建築事務所の仕事は辞め、同僚と行っている設計グループでの仕事のみフリーランサーとして行っていました。

 プロジェクトに参加してから4か月を経ずに、日本企業との面接会がありました。今まで3年間の設計経験があるので、すぐにポートフォリオはまとめることができました。そして日本の建築事務所から内定をいただきました。その当時、私の日本語能力はまだN4もなく、挨拶程度の日本語力でした。内定をもらえたことが嬉しい反面、まだ日本語が十分ではないこと、そして最初の来日メンバーであることへのプレッシャーもありました。少しでも日本語でのコミュニケーション力を高めるために、来日するまで一生懸命日本語の勉強に励みました。

いろいろ探りながら一歩ずつ進む

 来日する前、日本語能力N4しかない私が日本の建築事務所で仕事ができるのか、何回も何回も自問自答しました。今になると、この質問に「できる」と答えることができますが、そう簡単なことではありませんでした。

 まず、日本の建築事務所に入社してから仕事に慣れるまでに6か月、そして仕事の知識が身に付き、順調に仕事ができるようになるまでには1年間かかりました。私が入社したこの建築事務所は社員数が12名と小規模ですが、いろいろなプロジェクトを担当していました。そのため、一人一人の仕事量が多く、毎日夜遅くまで契約のやり取りや設計図の修正や作成名地の仕事に追われ、とにかく忙しい事務所でした。大きな企業の場合、入社してから数週間、1か月程度は研修として新人が教育を受ける期間があると思いますが、社員の皆さんがとても忙しいのであまり教育してくれる時間はありませんでした。入社して初日は挨拶、翌日の2日目からはプロジェクトに配属され、大事に取引先とのミーティングに参加していました。何もわからず、日本語でのコミュニケーションもまだ全然上手ではなかったので、とても辛く大変でした。

  入社後、グループのリーダーに言われた言葉があります。「今、あなたがいるのは建築事務所で、ここのみんなは設計のプロフェッショナルです。教えてもらうのではなく、自分で周りを観察して、自分で勉強しなさい」という言葉です。今でもこの言葉は印象的で、私はこの言葉からすべてが始まり、自ら周囲を観察して勉強し、進んで行く日々が始まりました。

入社当初、日本語の壁とベトナム・日本の異文化の理解でとても苦労しました。また、仕事の業務についてだけでなく、毎日のコミュニケーションも戸惑いがありました。入社初日は社員の皆さんに挨拶しなければならないので、前日の夜遅くまで挨拶の言葉を日本語で書いて覚えました。当日、皆さんの前に立った時、緊張のあまり頭が真っ白になり、せっかく覚えた挨拶も半分も言えずにがっかりしました。今まで日本人と接したことがなかったのでどのように挨拶したらいいのか、コミュニケーションを取ったらいいのかわかりませんでした。ベトナムでは、朝出勤したら社員同士に挨拶したり、少し談笑したりと楽しい雰囲気で仕事が始めることが多いです。一方、この会社では、出勤したら各々の席で黙々と仕事を始めていました。みなさんと合わせて仕事を始めたら挨拶しない失礼な人だと思われるかもしれない、しかしベトナムのように声をかけたら馴れ馴れしい人だと嫌がられてしまうかもしれない。どうしたらいいのだろうかと悩んでいましたが、みなさん忙しいので、誰にも聞くことができませんでした。なので、皆さんを観察して、私も周りに合わせるようにしました。

  日常のコミュニケーションも大変ですが、仕事になるともっと大変でした。とくにミーティングです。建築のプロジェクトを進めるためには、いろいろな人たちと協力しなければなりません。一人ではできないのです。一つのチームにも役割分担があり、チーム内のミーティング、お客様とのミーティングがあります。ミーティングの頻度も時間も長いので、まだN4程度の日本語力しかない私にとって、ミーティングはとても辛いものでした。ミーティングについていこうと携帯電話で録音して、後で聞き直してもわからない日本語が多くありました。設計図を見ればある程度内容を理解することはできますが、言葉がわからずにミスを犯してしまったことがあります。そのミスとは、リーダーの言葉が十分にわから鳴ったので、お客様が望んでいること、意図を理解することができず、全然違うものを設計してしまいました。もう一度設計図を修正し直さなくてはならず、プロジェクト全体に影響を及ぼしてしまいました。このミスから、仕事をするためにはまず、しっかり聞き取ることが大切だとわかりました。聞き取れなければ聞き直し、理解することを肝に銘じました。

  さらに、日本では報告、相談、仕事の分担など、日本とベトナムでは大きく違うことがあるので観察しないといけません。ベトナムでは、日本でいう「報告・連絡・相談」の習慣はありません。途中経過報告はせずに、仕事が完遂して初めて報告する傾向があります。そのため、締め切りギリギリに上司からリマインドされてから仕事をやらなくてはと火が付く人が多いです。一方、日本は違い、途中でも「報告・連絡・相談」することが大切です。日本人の上司はリマインドがあまりなく、自分からの報告が求められます。ベトナムは上司が言うまで自分から報告しなくても良いという風潮があるので、日本とベトナムでは考え方が大きく違うのだと観察して気が付きました。

相手を知り、自分を知ることで自分を生かすことができる

 私の日本語能力はまだ高くありませんが、周りをよく観察して、皆さんがどうやって仕事しているのか見ていたおかげで、自分の弱みと強みがわかってきました。そしてどうやったら仕事に慣れるのかもわかってきました。まず日本語は未熟なので、録音するだけでなく、ミーティング前には仕事に関係する言葉やプロジェクトのテーマに関わる専門用語を調べてリストアップしていました。プロジェクトによっては専門用語のリストが数十ページにもなったこともありますが、事前の準備には力を入れるようにしました。また、ミーティングでメモした内容が正しいか確認することもしていました。以前、自分が聞き取れなかったことからミスが起きてしまったので、ミーティング後に日本人の先輩へ積極的に声をかけて、先輩のメモをお借りしました。自分のメモした内容とを見比べて、仕事のこと、スケジュールなど細かいことまでしっかり確認し、仕事に取り組むようにしていました。

  このように自分の弱みを改善していくと同時に、自分が他の人よりも優れていることがないか、強みを探しました。当時、あまり若い社員がいなかったので、見ていると使っている設計ソフトも昔ながらのもので、仕事スピードが遅いように感じました。新しい設計ソフトを使うと仕事の効率も上がり、仕事のスピードも早くなるだろうと思い、上司に新しいソフトの導入を積極的に提案しました。その結果、新しい設計ソフトを導入してもらい、事務所全体の仕事の効率も上がり、仕事の質、スピードが良くなりました。社員の皆さんから私への評価も上がりました。

 また仕事を分担するとき、自分ができる仕事だと思ったら自ら手を挙げてやらせてほしいとお願いしました。自分から手を挙げることで、周りは私が積極的だ、やる気があると思ってくれます。また自分が得意なことなら仕事もサクサク進み、一石二鳥です。入社当初は何をしたらいいのか、自分は何ができるのかわかりませんでした。しかし、周りの人たちの仕事スケジュールを見たり、仕事の様子を観察したりしていくうちに、自分ができる仕事がわかってきたので、主体的に仕事へ取り組めるようになりました。

 毎日会社へ行き、周りの人たちのスケジュールや仕事の様子を観察して、仕事の仕方や考え方を改善していました。また周りの人たちからのアドバイスももらい、もっと自分自身を良くしようと努力していました。そして1年間が経ち、ようやく仕事が定着し、軌道に乗ってきたのです。

今後の方向性

 来日して、何もわからず手探り状態から少しずつ仕事に慣れていった最初の1年目が終わり、翌年の2年目、3年目は自分自身のキャリアアップのために専門である建設のことだけでなく、日本語の勉強にも力を入れました。

 日本には建築の専門書がたくさんあり、内容も実践的なものが多く、ずっと将来的にも使える本が多いです。また、専門書もマンガや雑誌、研究用など、さまざまな種類があります。わからないことがあったら、本などを読んだら大概のことが解決できるのです。私の建築事務所にも参考文献となる専門書がたくさんあり、小さな図書館のようでした。仕事で使えるだけでなく、研究や勉強もできるこの環境は、私にとって理想的な環境でした。豊富な専門書のおかげで私の専門知識は日に日に増えていきました。

 そして何より、専門書は日本語で書かれているので、本を読むことで日本語力もアップできました。設計事務所での仕事は、机に向かって日本語の勉強をする暇もないぐらい忙しかったのですが、本を読んでいくうちに漢字を覚えることができ、そして読解力も向上しました。その他、私の家から事務所までは往復で2時間かかるので、電車の中で本を読んだり、知らない言葉があったらアプリで調べたりしながら、通勤時間も勉強の時間に充てていました。アプリは便利で、例えば建築に関する言葉ならば、その言葉をグルーピングすることができたので、いろいろな言葉を関連付けて覚えることもできました。

 私は「日本語能力N1、N2を取得しよう」という明確な目標を立てて、机にかじりついて勉強していたわけではありません。むしろ忙しく、机にかじりつく時間があまり取れなかったので、仕事や通勤時間などの少しの時間で勉強していました。毎日のちょっとした積み重ねのおかげで、なんと私は日本語能力N1に合格することができたのです。

 もちろん、N1、N2に合格しようと目標を立てて勉強することも大切だと思いますが、仕事が忙しい人は仕事や日常生活の中で勉強していく方が効果的だと思います。例えば、日常生活の中で「保険」や「副業」といったわからない言葉にぶつかる時があります。その時、最初は私もわからない言葉を検索して、ベトナム語で書かれた説明を読んでいました。しかし、わからない言葉をキーワード検索して、日本語で調べて説明を読むほうが何倍も勉強になります。尚且つ、正しい情報を得ることができます。残念ながら、同じ情報でも日本のことなら日本語で調べたほうがはるかに正しい情報です。最初は読むのが難しいのですが、自然と新しい言葉を知っていき、理解力も上がります。

 日本語と専門知識を高めると同時に、新しい方向性を検討しています。建築業界の多くの日本人は、資格を取得します。資格を取得することがキャリアアップにつながるからです。私はあまり資格取得への気持ちは高くありません。なぜなら、資格を取得し、同じ会社で20年以上働くということは、あまり新しい刺激がなく、ベトナムにいることと同じだと思っています。新しい方向性を探すために来日したので、当初の目標を忘れずに建築のスタイルを勉強したり、美的センスを磨いたり、どうやって日本の建築スタイルをベトナムへ導入できるかを考えたりしています。

 私はベトナムと日本両方の建築スタイル、文化、習慣などがわかります。これは他の人よりも私の強みだと思っています。資格取得も大切だけですが、ベトナムにも日本にも還元できる仕事をしたいと思っています。今考えていることは、ベトナムにいる友人たちとネットワークを作り、専門知識や仕事をシェアして、自分を生かすことができる仕事に携わりたいと思っています。その道を私は探し続けています。

メッセージ

 ベトナムにいたころは、細かいところまで気を配る習慣がなく、全体が上手くいっていれば大丈夫だと思っていました。細かいところは何とかなるだろうという考え方を持っていましたが、日本人とともに働くようになり、細かいところが重要な役割を果たすのだと気が付きました。一つのプロジェクトが、全体的には上手くいっているように見えても、細かいところ、例えばスイッチやエアコンの位置、リビングの椅子の高さなど、細部まで気を配ることが大切だと気が付きました。4年間日本で働いて、専門知識も日本語も勉強になりましたが、一番勉強になったことは細かいところまで気を配ることです。今では、細かいところまで気を配り、よく観察して比較する習慣が身に付きました。物事を観察することが環境に早く慣れること、そして自分自身の成長につながりました。

海外で勉強したり仕事したりする上で、言葉を習得することがカギになります。確かに重要なカギではありますが、すべてではないです。自分の周りの物事、人々を観察して、比較して勉強し続けることが大切なのです。

この季節、そろそろ入社時期になりますが、私の記事を通じて、日本語能力に自信がない人でも自信をもって、次のチャレンジをしてほしいと思っています。

東京、2020年3月