留学生の夢は叶わず

 2012年、私が高校2年生だった時、日本に留学していた従姉がヒエンちゃんを留学させてみたらどうかと母に勧めてくれました。日本へ留学できるなんて金持ちの人だと考える人が多いかもしれませんが、そうではありません。従姉は、日本では留学生として勉強しながらアルバイトができて、学費も生活費も稼ぐことができる。そして家族に仕送りまでできると言うのです。私の田舎は決して裕福な人ばかりではなく、むしろ日本へ留学することが人生を変えるチャンスだと思われていました。私の家族も決して裕福ではなかったので、ベトナムの大学に進学しても学費を工面することが大変です。しかし、日本へ留学したら従姉みたいに自分でお金を稼げて、尚且つ家族に仕送りまでできるのです。なので、私も従姉から勧められたとき、迷わずに「行きたい」と答えました。そして、日本なら将来、給料の高い仕事に就くチャンスもありので、日本へ行く夢は高まるばかりでした。

 私は高校を卒業したら日本へ留学しようと思っていたので、高校2年生から3年生になる短い休暇を使ってハノイにある日本語センターに通い始めました。母は私のためにいろいろなところからお金を借りてくれたので、私は田舎を離れてハノイで勉強に集中することができました。日本語センターで2か月間勉強し、その後、田舎に戻って高校3年生に進級しました。戻ってからも日本語の勉強も独学で続け、2012年に日本語能力試験N5に合格することができました。

 そして高校を卒業する2013年に、日本語を上達させるために再びハノイへ行きました。今回は日本語センターへ行くのではなく、別の従兄に紹介してもらった日本レストランでアルバイトを始めました。この日本レストランは時給8000ドン(約40円)で、周りのお店に比べると低かったのですが、私は今まで畑仕事しか経験がないのでこのアルバイトは経験を積むチャンスでした。アルバイトを始めた当初は、床の掃除やテーブルのセッティング、キッチンの手伝いなど簡単な仕事から始まり、だんだんメニューを覚えられるようになるとオーダーを取らせてもらえるようになりました。毎日オーダーの時に日本語でお客さんと話していたので、少しずつ日本語が上達していきました。そしてお客さんとのコミュニケーションも徐々に取れるようになっていき、もっと日本語が話せるようになりたいと思うようになりました。

 高校の成績もよく、N5にも合格したので、私は自信満々に日本へ留学するためのビザ申請をしました。しかし2013年8月に申請したビザの結果が、なんと不許可だったたのです。とてもショックを受け、なぜ不許可だったのか、書類作成を依頼した日本語センターの人に聞きに行ったところ、入国管理局の審査官は私の卒業証明書などが偽物だと判断し、不許可になったのだという理由でした。自分の書類が偽物なはずないので、初めはその理由を聞いても納得できませんでした。しかし数年後に日本で日本語学校の申請書類の準備に手伝うことがあり、同じような理由で不許可になっている人が実はかなり多いということを知りました。

 その不許可の知らせを聞いたとき、私の書類は正しいはずだったのに、偽物だと判断されたことがとても悲しかったです。雨の中、泣きながら自転車に乗って帰りました。母は牛を売ってまでお金を集め、私の留学ビザを申請するための手数料を払ってくれたのに、何もかもが台無しになってしまいました。日本へ行けないことへのショックが大きかったのですが、しばらく経ってから落ち着いて考えてみると、私は留学について何も情報を集めず、知らないまま日本語センターに任せっきりにしていました。あのとき、留学について少しでも情報を集めて準備していたら変わっていたかもしれないと思い、もっと勉強して知識を増やさないとダメだと気持ちを切り替えました。

新しい扉が開かれる

 私の留学ビザが不許可になったことを知り、従姉からもう一度チャレンジしたいかと聞かれましたが、一度落ちてしまった道をもう一度行くのではなく、他の道に進むことに決めました。日本へ行きたい気持ちは変わりませんがまだ知識が足りていないことが分かったので、無理やり行くのではなく、一度立ち止まって日本語をもっと勉強してから再度挑戦することに決めたのです。そこで、私はハノイ大学の日本語学部で日本語を基礎から勉強しようと考えました。

 大学入試では、文学と数学、英語か日本語が受験科目でした。英語はあまり自信がなかったので、日本語で受験しようと思いました。日本語を既に勉強している人にとっては日本語の試験はそれほど難しくはないですが、N4~N3の日本語能力が必要です。私は日本語の勉強をしようと思いましたがあまり経済的に余裕はなかったので、日本語センターでN4の後半だけの授業を受講しました。運よく、クラスの担当の先生から一緒に住まないかと誘っていただいたので、私はその先生の家でお世話になっていました。先生のおかげで生活費も節約でき、また先生は家でN3クラスの授業を行うときもあったので、私も参加させてもらっていました。このおかげでこの年の終わりには日本語能力試験N3に合格することもできたのです。そしてハノイ大学の日本語学部にも晴れて合格することができました。

 まわりのみんなが協力してくれたおかげで今の自分があります。たとえ進みたかった道の扉が閉ざされたとしても、新しい扉が開かれます。落ち込まずに新しい扉が開かれることを信じて努力し、扉が開かれたらその道を全力で突き進むのです。

目標に向けて計画を立てる

 ハノイ大学合格後、すぐに直面した問題はどうやって大学の学費を稼ぐかでした。家が裕福ではなかったので、小さい頃はいつも友人がうらやましいと思っていました。家に食べ物がなかった時、父は白いご飯に砂糖か塩をかけて食べ、おかずは子どもたちに譲ってくれました。母も、周りから女の子に勉強させてもすぐに家に入るから仕方ないと言われても、ちゃんと私たちを学校へいかせてくれました。大きくなった今、父や母の背中や幼い時からの気持ちがあるからこそ、頑張って乗り越えたい、負けたくないという気持ちにつながっています。

 もし大きな問題にぶつかったとしても、こんな理由があるからできないと決めつけずに、解決するためには何をしたらいいのか、何が必要なのかを考えるようになりました。お金が足りないから大学へ行けないと考えるのではなく、大学の学費を払うためにどうやってお金を稼ぐかを考えて行動に移しました。幸いなことには、ちょうど私が入学したその年、大学では日本語をすでに勉強している人も初めて勉強する人も同じクラスえで、日本語の授業は『みんなの日本語』の第1課から始まりました。私はすでにその範囲を勉強済みだったので、あまり日本語の勉強に時間を使わなくても試験は問題ありませんでした。なので、他の時間は学費や生活費を稼ぐためにアルバイトをしていました。私がやっていたアルバイトは、日本語センターでの受付やアドバイザー、家庭教師、そして洋服屋の手伝いなど、いろいろやりました。

 だんだん日本語が上手になってくると、受付だけでなく先生としても生徒に教えるようになりました。そして一つの日本語センターだけでなく、いくつものセンターで教えていたので、さまざまな経験を積むことができました。最初教えていたクラスはN5クラスでしたが、大学4年生の時にはN2クラスをまで受け持つことになりました。教えることにも慣れてくると、留学生の書類翻訳や面接の通訳、いろいろなところのツアーガイド、展示会の通訳のアルバイトもしました。アルバイトのおかげで、大学2年生の終わりには、父や母から仕送りしてもらわずに生活費も学費も支払えるようになりました。いろいろな分野で経験を積めたことは私にとって大きな糧になりました。

 2016年、妹が私立大学に入学したのをきっかけに、家族はハノイに引っ越してきました。久しぶりに家族4人で住めることになり、大学1、2年生の時よりも落ち着いて勉強に集中できるようになりました。そして大学卒業時には、優秀な成績を取ることができました。ほかにも日本語能力N1、簿記3級も取得することができました。

 日本ではアルバイトをする留学生が多いですが、週28時間という制限があります。ここ数年、日本政府は留学生のアルバイト時間を厳しくチェックしていて、時間を大幅に超えると帰国させられてしまいます。もし、4年前私が無事に日本へ留学できたら、きっと今私も他の多くの留学生と同じように大変な状況に置かれるでしょう。家族からの仕送りは期待できないので、28時間以内のアルバイトでは絶対生活費と学費が足りないです。一方で、より多くのお金を稼ぐためにオーバーワークしてしまうと、今度はいつも帰国させられてしまうことへの不安にかられます。10年前、従姉のように日本へ留学しに行くことはお金をたくさん稼げる選択肢だったかもしれませんが、今はもう状況が変わってしまいました。

 4年前、留学のビザは不許可となり、日本へ行く夢が破れてしまいましたが、むしろ運が良かったのかもしれません。回り道になってしまいましたが、日本へ行く確実な道も生まれました。

大きな目標に向かって

 日本語を勉強したからには、日本へ行きたいとずっと思っていました。言葉はあくまで世界に一歩踏み入れるツールであって、専門ではありません。私は日本語を上達させて、日本語で仕事をしたいと考えていました。大学3年生の時から日本での仕事を探し始めましたが、そう簡単には見つかりません。時間をかけて求人を探したり、人材紹介の求人内容を見て、興味がある会社には履歴書を送ったり、メールで問い合わせたりとチャンスをとにかく掴もうとしていました。そして一生懸命仕事を探していた努力が報われ、ある会社の総合職から内定をいただきました。

 内定をいただいた会社は、病院や介護施設を運営している大きな会社でした。内定をいただき、日本で働けることが決まったので、あとは卒業を待つのみとほっと安心していました。そして少しでもいろいろな経験を積もうと、ハノイの日系企業でインターンシップを始めました。インターンシップでは、書類作成や翻訳、イベントの企画運営、日本人社長の通訳などの仕事をしていました。その他にも日本語センターの先生のアルバイトもしていて、いろいろな経験を積みました。

 あるとき、日本語センターの上司から、新しい日本語センターを作るので、よかったらそのセンターのマネージャーにならないかというオファーをいただきました。ちょうど同じころ、内定をいただいた日本の会社から、勤務地が私の希望とは違う場所になると言われました。いろいろ交渉したのですが、私の希望は叶わないことがわかったので内定を辞退しました。これで卒業後に日本で就職する予定も消えてしまったので、私は日本語センターのマネージャーのオファーを受けることにしました。

 このマネージャーの仕事は、失敗経験の1つです。私はマネージャーとして新しい日本語センターを運営すると大きな夢を見ていたのですが、私にはまだその能力がありませんでした。マネージャーと言っても私は大学卒業したばかりの新人で、経験や実績がありません。部下として一緒に働いてくれる人たちにとっても、いきなり若い私がマネージャーで戸惑い、不満の声が上がりました。私の性格上、小さい時から自分で何もかも頑張ってきて、自分としての考えを持っているので、相手の意見を聞き入れることができず、自分の意見を押し通そうとしてしまうことが多々ありました。そのことから相手とのコミュニケーションがうまく取れず、短期間で日本語センターの仕事を退職しました。このから、自分にはまだまだ至らないところがあるということを知り、直していこうと思いました。

日本の企業へ就職する

 日本語センターのマネージャーを辞め、再び日本で就職する道を探し始めました。そして、大手携帯会社の販売スタッフとして内定をいただき、晴れて来日しました。来日後、2週間の研修を受け、携帯ショップの店舗販売の仕事を始めました。お客様の99%は日本人で、日本語で対応しなければなりません。大学でビジネス日本語を勉強したけれども、実際に使うとなると全然大変です。

 最初の1か月間は日本語の勉強や仕事の勉強など、覚えることが多く大変でした。日本語でお客様を対応することもストレスが多く、辛い日々でした。ただ、幸いなことに2か月が経ち、勉強したことが実践で活かせたりすると少しずつできることが増えて自信が付いてきました。ビジネス日本語も上達していきました。今の仕事ができるようになったので、他の仕事も任せてもらえるようになり、さらに自信が付きました。

 大学生の時は目標を達成することはあまり大変だと感じませんでしたが、仕事をしていくと目標を達成させることは簡単ではないと気が付きました。収入、待遇、職場環境もそうですが、働いてから初めて自分に合うのか、合わないのかがわかるのです。1年間働き、次に新しい会社へ転職しました。

 この会社は日本語学校3校を運営しており、特定技能の紹介や不動産事業も展開している会社です。私は日本語学校のビザ書類の作成、留学生たちの生活サポート、特定技能セミナーの運営や人事など、様々な経験を積むことができました。私はこの会社で働く中で、ビジネス日本語の中でもビジネス文章を書けることが大切だと感じました。前職の携帯ショップではお客様とのコミュニケーションがほとんどだったので会話力が大切でしたが、今回は資料を作ったりメールを書いたりすることが大半なので、ビジネス文章の書き方を勉強しました。

 私は2社の仕事を通して、本当にやりたいことが見つかりました。それは、多くのベトナム人にビジネス日本語の教育を提供することです。みんなビジネス日本語が難しくてストレスに感じています。自分の日本語の発音やアクセントが良くないと思ってしまうと話したくなくなります。私はビジネス日本語を勉強する際には、発音やアクセントを良くすることよりも、どのように話を展開するか、何を先に話すかなど、言葉の使い方を教えてあげることが大切だと考えています。会話の練習は後でも大丈夫です。日本語の発音がきれいですねと言われるよりも、話の展開の仕方を知ってもらえる方がいいと思います。話をどのように展開していくのかを練習するにはとても時間がかかります。私は7年間日本語を勉強し、日本の会社で働き、日本人の主人もいますが、日本語がペラペラだとは思っていません。まあまあ日本語が話せるかなと言われる程度です。でも、自分なりに日本語を頑張れば自信もつき、日本語力も高まると思います。

新しいチャレンジをする

 2019年6月、主人にプロポーズされ、結婚しました。主人はベトナムにある日本語センターでオンラインの日本語コースのプロデュースを担当していました。ビジネス日本語をベトナム人に届けたいという私の夢を伝えたところ、主人からはベトナムに帰国してビジネス日本語のオンラインコースを行うのはどうだろうかと提案してくれました。周りからは、せっかく日本での仕事が順調なのにベトナムに戻るなんてもったいないと言われました。私も日本での生活を続けたい気持ちもあり、帰国するか留まるか、とても悩みました。そしてベトナムに帰国後も、今まで通り家族の面倒をみることができるのか、妹の大学の学費の援助を続けられるか、家族への仕送りができるのかなど、悩みの種は尽きませんでした。父も母も定職ではなかったので、働かないとお金は手に入れられません。保険にも入っていなかったので病気になると高額な医療費がかかってしまうので、経済的な不安があります。

 不安ばかりが大きくなってしまいますが、日本の時よりもベトナムの給料は減るかもしれませんし、大変なことも起こるかもしれません。でも頑張ればいろいろと道は開けます。また、主人の姿も私の背中を押してくれました。主人は早稲田大学の政治経済学部を卒業しましたが、日本語教育に興味があったので大手企業への就職のチャンスを諦めて、日本語のプロデュースに専念していました。主人の働いている姿がいつも熱心で幸せそうでした。なので、私もある程度の貯金はできたので、思い切ってベトナムに帰国してビジネス日本語のオンラインコースのビジネスにチャレンジしました。

 ベトナムに戻って約1年間、ビジネス日本語のオンラインコースのための動画を撮影したりすると準備をし、2020年4月についにコースをリリースできました。今ではコースの受講者数が900名を超え、大盛況です。参加してくれている人たちからも満足という声をいただき、私たちはとても嬉しいです。これからは参加者の反応を見ながら内容改善していき、もっと良いものにしていこうと思っています。そして、他にも “ビジネス日本語マスター” というFacebookグループで無料コンテンツを配信しています。このFacebookグループは設立して3か月ですが、活発に活動しています。今後、ビジネス日本語も、今、日本語能力試験として世界でも認知度の高いJLPTと同じように認知度が高まると思います。勉強の目的は単純で、日本の会社で使える日本語を身につけることです。ビジネス日本語が身につけば日本での仕事も生活も楽しくなります。

メッセージ

 私の人生は光り輝くスター人生ではありません。みんなと同じような人生で、いつも前向きに物事を捉えて生きています。何かを選択する時には目標を掲げてから計画を立て、実行していました。小さな目標から大きな目標まで、そして到達可能な目標から到達が難しい目標まで同じです。私が目標を設定する時は、周りの人たちから意見をもらうようにしています。意見をもらうことでより真剣に取り組めるからです。そしてその意見に流されるのではなく、自分自身の考えもしっかり持つことも大切です。

 やりたければやる。間違ったらやり直す。転んだら立ち上がる。自分にとっては失敗も成功も人生の中で貴重な経験の一つです。みんなどんな状況に置かれていても何かしらのチャンスがあるはずです。自分だけ辛く酷い状況でダメだと思わずに、夢を持って、その夢のための計画を立ててください。困難なことがあってもあきらめずに、遠回りになっても別の道があるはずです。一つ乗り越えられると物事はだんだん良い方向へ転がり、自分自身も良くなります。自分の人生、自信を持って頑張ってください。

ハノイ、2020年6月