初めての歩み

 高校生の時から、卒業後は新しい国で生活して、新しい文化を体験したいと思っていたので海外へ留学することを考えていました。留学先はアメリカとニュージーランドにしようと考え、いくつかの奨学金プログラムに申し込みました。奨学金に合格しましたが、学費の70%しか免除にならず、残りの学費30%と生活費などは自己負担になることがわかりました。せっかく合格しましたが、経済的な余裕があるわけではなかったのでこの奨学金を諦め、ドンズー日本語学校の留学プログラムで日本へ私費留学生として行くことに決めました。

 最初は日本への留学は考えていませんでしたが、私の知り合い人の中で3人、このドンズー日本語学校のプログラムで日本の大学へ進学していることを知りました。私も彼らと同じように日本の大学へ進学したいと思い始め、父も母も応援してくれたので日本への留学を決めました。

ホーチミンにあるドンズー日本語学校に入学し、日本語を一生懸命勉強し、1年で日本語能力試験N3に合格することができました。そして2012年10月には広島県にある日本語学校へ留学することになり、私費留学生としての生活が始まりました。

当時、N3の日本語能力がありましたが、ベトナムでは日本人と接する場面がほとんどなく、日本語を使う機会はありませんでした。来日したとたん、日本語を使わないといけない場面ばかりでとても大変でした。同じ寮に住んでいる先輩から日本語を教えてもらいながら日本語を覚えて数か月後、やっと日本の生活にも慣れてきました。

 1年半、日本語学校に通いながら日本語を勉強していました。卒業後は大学へ進学することを考えていたので、どの大学に行くか悩みました。私立大学は学費が高く、合格しても通えないと思っていたので滑り止めにもせず、はじめから国立か公立大学だけを考えていました。私はメディアについて勉強したかったので、茨城大学と鹿児島大学の2校だけ受験しました。もし不合格だったら他に行くところがないというリスクはありましたが、むしろ頑張らなければならない状況だったので自分を奮い立たせることができたと思います。幸いにも先輩たちが受験に関する情報をくれたり、試験対策も協力してくれたりしました。日本語学校の先生たちも面接練習をしてくれたおかげで茨城大学と鹿児島大学の2校とも合格することができました。どちらの学校に進学するか悩みましたが、今いる広島から近い鹿児島大学ではなく、インターンシップ先や就職先が多い関東圏にある茨城大学へ進学することを決めました。

メディアに情熱を注ぐ学生時代

 茨城大学ではとても多くのことを経験し、充実していました。振り返ってみるとこの4年間、日本語能力だけでなく、様々な面で私自身とても成長できたと感じています。茨城大学での中でもとくに印象に残っていることが2つあります。1つ目はテレビ朝日プロダクションでの1か月間のインターンシップ、そして2つ目はテレビ番組の企画に関わるゼミです。

まず1つ目のテレビ朝日プロダクションでのインターンシップについてお話します。茨城大学のメディア文化メジャーという専攻では、大学が連携しているいくつかのテレビ局などの企業へインターンシップできるプログラムがあります。その中でもテレビ朝日のプログラムが一番人気で、応募者80名の中からたった10名しか選ばれません。私もこのプログラムに参加したかったので応募したところ、選考を通過して10名に入ることができ、東京のテレビ朝日でのインターンシップに参加するチャンスを手にしました。

 このインターンシップは1か月間です。最初の2週間はお昼の時間帯に放送されるある番組の現場でした。私の仕事はこの番組に出演する芸能人のリストをチェックして、駐車場や楽屋、席などに張る名前の紙を作ったり、張ったりする仕事でした。この番組は1回の収録で3回分撮影するので、人数が多いです。私はあまり日本の芸能人の名前を知らず、リストの名前も漢字だけでふりがながついていないので誰が誰だかわからず、追いつきませんでした。

このリストの仕事だけでも大変ですが、他にも番組が円滑に進むように台本を読んでおかないといけません。この番組の司会者は過去のことも話すので、日本の歴史や昔のことなどの知識がない私にとって話の内容がわからず、とても苦労しました。たった2週間でしたが、外国人がメディア業界で働くには言葉だけでなく、文化や歴史などたくさんの壁があることを実感しました。

 最後の2週間は別の音楽番組を担当しました。私の仕事は、外国人へ日本の歌についての街頭インタビューをする仕事でした。道行く外国人に突然インタビューをするのですが、皆が皆、日本語が話せるわけではないので、英語でインタビューするときもありました。時々、私が英語のインタビューを担当するときもあり、役に立てていると感じました。また、外国人である私がインタビューすると比較的心を開いて答えてくれやすいので良かったと思いました。

この1か月間のインターンシップを終えて知識とスキルも身に付きましたが、それよりも外国人がメディア業界で働くためにぶつかる壁や外国人だからこそのメリットを知ることができたことが大きな収穫でした。

 次に2つ目のゼミについてです。私の専攻の先生たちはテレビ番組制作と深く関わっている先生もいて、その中でもとくにいろいろな番組に関わっている先生がいました。その先生のゼミは活動や面白く、イベントも盛んであると有名なゼミで、2年生でも選考に通過したら参加できます。私もこの先生のゼミに参加したかったので、2年生の時に応募し、参加できることになりました。

 ゼミに参加する前は面白そうなゼミだなとしか思っていませんでした。たしかに活動が活発で面白いのですが、毎週、ゼミの課題として1200字のレポートの提出やゼミが運営するイベントの手伝いもあり、すべて全力で頑張らなければならない忙しい毎日になりました。先生から出されるゼミ課題も求められるものが高く、企画書や台本も生半可なものでは先生から指摘されてしまいます。また、宿題は先生から直接添削されるのではなく、ゼミで発表して学生同士で意見を出し合ってフィードバックをもらうという方法でした。私は外国人で、尚且つ大学2年生なので、まだ日本語でこれだけ多くの字数のレポートを書くことも慣れていなくて、決してゼミ生と同じレベルとは言えませんでした。しかし、外国人だから宿題もこのレベルで仕方がないと思われないように、みんなの前で発表するためにしっかり調べたり、先生から勧めてもらった本は全て読みました。他にもいろいろな本を読んだり、テレビニュースを毎日見たり、日本語の語いや表現、文章の書き方など一生懸命勉強しました。

 このゼミに参加していた時はとても大変で忙しかったのですが、自分の日本語能力が飛躍的に伸び、情報収集の仕方や発表もこのゼミを通して身に付きました。今の自分があるのは、この先生のゼミでの経験があるからだと思っています。

落ちたところから立ち直る

 大学4年生になり、就職活動の時期が近づいてきました。私はメディアを専門に勉強していたのでテレビに関わる仕事をしたいと思い、大きなテレビの制作会社4社に応募しました。この4社は倍率も高く、選考も多かったので、事前の準備などに時間がかかり、他社を応募する余裕がありませんでした。

 この4社は選考が多く、長期戦だったので、このまま通過していくのだろうかと不安に思い始めました。友達に選考が多くて内定をもらえるか不安だと漏らしたところ、みんな大丈夫だよと明るく励ましてくれました。選考が順調に進んでいくにつれ、私もこのまま内定がもらえるかもしれないと期待するようになり、4社すべての会社から最終選考に呼ばれました。

最終選考を終え、どこかしらからかは内定をもらえる可能性が高いと期待に胸を膨らまして結果を待ちました。そして2017年の5月、なんと4社すべての会社から不採用の通知が届きました。まさかすべての会社から不採用となるとは思わず、私はこの4社に全力を注いで準備し、選考に臨んでいたので他の企業は1社も受けていません。全滅してしまったショックがとても大きく、何もできなくなって部屋に引きこもりました。

 お腹が空いたらネットで注文し、一歩も外に出ない生活が2か月続きました。ショックで落ち込み、悲しく、本当は誰かに相談したかったのですが、周りから大丈夫、もう一度やり直したら内定をもらえるよと言われるのも辛いので、誰にも打ち明けることができませんでした。

2か月後のある晴れた日、急にコカ・コーラを飲みたくなり外に出ました。外に一歩出たら、なんて外は平和なんだと思いました。道を歩いている人みんなが笑っているのです。一人一人大なり小なり悩みがあるのにも関わらず、平和に生きているように見えます。周りの人たちを見て、ふと自分はここまで落ち込む必要はあるのかと思い、くよくよしていた気持ちを吹っ切ることができました。そして就活をやり直すことに決めました。

 4社の制作会社に落ちたことで、私は日本のテレビ業界には合わないということがわかりました。大学でメディアについて勉強し、インターンシップではテレビ番組の現場も経験しましたが、日本の俳優や女優、タレントなどの芸能には興味がなかったのです。最終選考では、私が芸能に興味がないことを見透かされて落とされたのかもしれない、ならばテレビではなく別の業界で自分の専門知識を生かせる仕事をしようと思い立ち、メディアや企画などの仕事ができる会社へ応募しました。この会社の中に今働いている会社もあります。

 就活を再開し、いくつもの会社から内定をいただきました。そして最終的には、今働いている大手人材サービス企業に入社することに決めました。この会社に決めた理由はいくつかあります。まず、他社の選考もたくさん受ける中で、この会社は少し違っていました。ほとんどの会社は合否の結果だけの通知でしたが、この会社は最初の面接から最終面接まで1人の人事担当者がついて、選考の合否だけでなく、必ずフィードバックもしてくれました。これはとてもありがたかったです。他にも、面接の質問も、人事担当者の質問の仕方が上手いのか、一般的な就活の質問ではなく、自分自身の考えが整理できるような質問を投げかけてくれました。そして何よりこの会社に入社することの決め手となったのは先輩社員たちの存在です。入社前に話す機会があったのでいろいろな先輩と話したところ、どの先輩と話をしてもみんな就活の軸をしっかり持っていて、エネルギッシュでした。この会社に入社したら先輩たちのようになることができ、自分自身を成長させる環境があると思い、この会社で働くことに決めました。

営業は怖くない

 入社後、最初に配属された部署は営業企画部でした。最初、この部署は「企画」という名前がついているので、ビデオやカメラの編集、コンテンツ作成や投稿など求人掲載サービスのための企画を行う部署で、私のメディアの専門知識を生かしてバリバリ働けると思っていましたが、実際は想像とは違いました。企画の仕事は2割、残り8割は営業の仕事だったのです。入社した当初の私は、営業がどんな仕事をするのか知りませんでした。唯一、ベトナムにいたときにシャンプーのサンプルを飛び込みで配っている人が営業職だったなぐらいで、仕事内容もよくわからず、仕事に対するイメージもあまり良いイメージを持てませんでした。入社して最初の研修では、30分で電話を30件かけるというテレアポの練習を繰り返ししました。毎日毎日のテレアポは怖く、入社1週間で辞めたいという気持ちが出てきました。

 テレアポだけでなく、ロールプレイの練習も行いました。その後しばらくして、先輩と現場に同行する機会をいただきました。このときは茨城で勤務していたので、東京よりも人は冷たくありませんでした。テレアポしてもきっぱりと断られることも少なく、飛び込みをしても少しは話を聞いてくれたので、少しずつ怖いという気持ちは小さくなっていきました。そして何となく営業の良さも感じるようになってきましたが、まだまだ怖い気持ちがあったので、先輩に営業が怖いと感じていると素直に打ち明けました。先輩からは、たまたま私が営業した時はお客様が欲しいタイミングではなかった、お客様の課題と提案内容がずれていたから響かなかったなど、お客様の立場に立って色々なアドバイスいただきました。そして断られても落ち込まずに、少しずつ改善していけばいいといったアドバイスもいただき、私も少しずつやってみようと思うようになりました。

 営業でアポイントがあるときは資料を事前に準備して、お客様のこともよく調べておき、ビジネスマナーや営業のマナーも守ることを心がけました。そして何より笑顔で話をすることを大切にチャレンジしていったら、話を聞いてくれることが増えてお客様に信頼されるようになってきました。そして、成約数も伸びて、怖いという気持ちも乗り越え、営業としての仕事ができるようになってきました。

 営業には2つのやり方があります。まずテレアポをして先にアポイントを取ってから訪問する方法と、もう一つは飛び込みで営業する方法です。個人的には飛び込みの方が合っているように感じます。テレアポは直接顔が見えないので外国人にとってデメリットが多くありますが、飛び込みはむしろメリットが大きいです。たとえば、外国人なのに日本語が上手、頑張って仕事をしているといった好印象を持たれるケースが多く、笑顔もメリットになります。なので、私は飛び込みの方が受け入れてくれるお客様が多いように感じ、合っていると思います。

他にも、ベトナムに帰ったときにインスタントコーヒーをたくさん買って、それを小分けに包んでお客さんにプレゼントしたこともあります。ちょっとした心遣いですが、みんな喜んでくれ、話を聞いてくれるお客様も増えました。外国人が営業というとデメリットも確かにありますが、デメリットを把握してなるべく少なくし、メリットを最大限生かすように心がけて仕事に打ち込んでいたら、いつの間にか営業の仕事が好きになりました。そしてなんと1年目の目標数値の120%を達成することができたのです。この会社の優秀な営業5%に入ることができ、そのお祝いとしてハワイ旅行をプレゼントしていただきました。このハワイの旅行が次のターニングポイントになりました。

新しいことへチャレンジ

 このハワイ旅行で初めて社長と1対1でゆっくり話す機会がありました。その頃、会社はベトナムの大手IT企業と共同のプロジェクトを立ち上げる話があり、社長から直々に私に新しい部署でやってみないかと声をかけていただきました。私は営業に慣れてきた頃でしたが、新しい仕事やITのことにも興味があったので、この新しいチャレンジを二つ返事で引き受けました。その後、ハワイから戻り、新しい部署へ異動となりました。

 新しい部署はITの業界で、自分にとって新しい分野でした。最初は苦労したり、悩んだりすることばかりで、とくに最初の1か月間はカルチャーショックばかりでした。社内のコミュニケーションはメールではなくSlackで、みんながミーティングで話している言葉も日本語なのに専門用語が飛び交うので何を言っているのかわかりませんでした。しかも周りは中途入社の経験者ばかりだったので、自分から見たらみんなは経験があり、すごい天才だと感じ、未経験である私は差を大きく感じていました。

 このカルチャーショックを乗り越えるために、ITの勉強をしようと思いました。まずITパスポートを取得することから始め、仕事でわからない言葉があったらメモをして調べたり、周りに聞いたりして、少しずつ知識を得て、周りとの距離を縮めようと頑張りました。もう一つ意識したことがあります。それはチームの仕事を他人事と思うのではなく、自分の仕事だと思うことです。みんなが忙しければ自分が率先してその仕事を引き受け、自分ができそうなことは何でも拾うようにしました。そうしたら、だんだん専門用語や仕事のことがわかるようになりました。そして新しい部署へ異動して3か月後、私は他の2人と共に主にお客様の対応を行うオペレーションチームになり、チームリーダーに抜擢されました。

 この新しい部署に異動してからチャレンジしたことがもう一つあります。この会社では「5年後の経営企画コンテスト」というコンテストが行われています。そこで、私もそのコンテストに応募してみました。私が提案した内容は「外国人のための求人サイト」です。今までも外国人向けの求人サイトはありますが、日本語の求人内容を翻訳するだけのものだったので、外国人と外国人を採用したい企業の目線で求人サイトを作り、マッチングできたらとずっと考えていたのです。

 このコンテストは役員の人たちにも自分のアイディアを伝える絶好のチャンスでした。応募者は1200人もいましたが、私は最終選考まで進み、最後の2名に入りました。最終選考では10名の執行役員の前で外国人のための求人サイトのアイディアを説明しましたが、結果、優秀することはできませんでした。優勝はで逃しましたが、役員の人たちに外国人労働者の実情や求めているものなどを伝えることができただけでも参加した意義がありました。もしかしたら近い将来、この会社で実現できるかもしれないと期待もしています。

メッセージ

 私のストーリーでは「外国人」というキーワードがとても多いと思います。私は来日してから今まで、大学で勉強しているときも会社で働いているときも一人の「外国人」ということを意識してきました。外国人だから日本人よりも下だと卑下するのではなく、また、日本人と同じレベルになることができないのは仕方がないと諦めてしまうのではなく、外国人だからこそ言葉や文化、知識に壁があるのだと知ることが大切なのです。そして、その壁を乗り越えるためにどうしたらいいのか考えて、日本語の勉強はもちろん、日本の文化や働き方を理解するために勉強し続けるといった努力が大切だと思っています。

 私たち外国人が言語や文化の壁を乗り越え、自分自身のメリットを生かすことができたら日本でもっと外国人の役割を生かせる場が増えると思います。日々の仕事や勉強で頑張っている外国人の姿をもっと知ってもらうためにも、みなさんいっしょに頑張りましょう。

東京、2020年10月