日本へ行く夢

2014年にハイズン医療大学を卒業後、ベトナムの医療機関で働かずに日本で働けるチャンスを探していました。当時のベトナムでは、これから技能実習「介護」が始まるというニュースが盛んになっていて、民間の送り出し機関の間では技能実習生介護養成プログラムがブームとなりました。日本に行けるチャンスだと思い、ある民間の送り出し機関のプログラムに参加し、勉強を始めました。しかしそのプログラムに参加してまもなく、ベトナムの労働省から民間会社が勝手に技能実習の人材を確保することを禁止するといった通達が出たため、そのプログラムは中止になってしまいました。せっかくの日本へ行けるチャンスがなくなり、私は故郷のハイズンに戻り、仕事を探し始めることにしました。

故郷に戻り、ある小さな民間企業に入社しました。最初はその会社の作業員として入社しましたが、私が医療の大学を卒業していて専門知識があることがわかると、会社から会社の医務室で働かないかという提案がありました。この仕事は今よりも少し給料が高く、仕事内容も大変というわけでもなく、専門知識が生かせる仕事なので引き受けることにしました。しかし仕事初めてから間もなく、目が赤くなり、目の粘膜の病気にかかってしまいました。2週間程度安静にしていれば治る病気ですが、会社からは周りの作業員に病気が感染したら大変だという理由で、そのまま会社を辞めてほしいと言われました。今思えば、安静にしていれば完治する病気なので周りに迷惑はかけることはなく、会社は理不尽なことを言っているとわかりますが、この当時の私はまだ社会経験がなく、自分のせいで周りにいる多くの作業員たちに病気がうつってしまったら申し訳ないと思い、退職しました。

退職後、次の仕事はどうしようかと悩んでいるときに、以前、民間の送り出し機関で技能実習のプログラムに一緒に参加していた友人からEPAプログラムのことを教えてもらいました。EPAとは経済連携協定のことで、日本はこのEPAに基づき、インドネシアやフィリピン、ベトナムの3カ国から看護師・介護福祉士候補者の受け入れと支援事業を行っています。最初、このEPAプログラムのことを知りませんでした。日本へ行くための渡航費や仲介手数料もかからず、何でも無料と都合のいいことばかりで、正直、騙されているのではないかと不安がありました。しかし、よくよく調べてみると、これは政府が行っているプログラムで、EPAプログラムの試験に合格すればEPA介護福祉士候補者として費用がかからずに日本へ行けるプログラムだとわかりました。ベトナムでは2014年から始まり、当時は3年目、だんだん認知度も高まり、4~5人に1人合格する競争倍率でした。合格できるかわかりませんでしたが、日本へ行くチャンスだと思い、チャンレンジした結果、晴れて合格することができました。日本へ行く夢への第一歩となりました。

実は、このEPAプログラムの試験に合格したらからすぐに日本へ行けるというわけではありません。この試験だけでなく、日本語能力試験N3にも合格しなければ日本へ行くことはできないのです。N3に合格するために、ハノイで日本語を勉強する合宿が始まりました。私は日本語を全く勉強したことがなかったので、ゼロからのスタートでしたが、この合宿の間、政府から月3万円の手当てがあったので仕事をしなくても生活することができ、勉強に集中することができました。

まったく知識のない私にとって、日本語の勉強はとても大変でした。1つの課に出てきた新しい語いを覚えるために一晩中勉強しないといけないぐらい最初は大変で、苦労しました。私と同じく合宿している人たちはみんなとても勤勉で、毎日、夜12時、1時まで勉強したと思うと、朝4時か5時には起きて勉強していました。周りの人たちの頑張りに圧倒され、みんなに置いて行かれるのではないかという焦りや不安の中、一生懸命頑張って勉強していました。そして勉強の努力が報われ、2015年にN3に合格し、日本へ行く準備ができました。

来日してから最初の日々

来日したらすぐに介護施設に配属されるのではなく、2か月間、ホテルで合宿研修を行い、介護のスキルや知識の勉強をしました。その研修では、高齢者の方とのコミュニケーションの取り方や食事の介助、部屋の掃除、ベッドメイキングなど、いろいろと学びました。まだ仕事をしていませんが、毎日、1200円の生活費がもらえました。天候も恵まれ、このホテルの近くには海やショッピングモールもあり、日本はなんて素晴らしいところなんだ、天国のようだと思っていました。

この2か月間の研修が終わり、私は東京のある介護施設へ配属されました。来日前に私は東京で働きたいと希望を出していたので、東京の介護施設とのマッチングで決まりました。私が東京を希望した理由は、せっかく日本に行くなら、賑やかで日本らしい都会で生活したいと思ったからです。介護施設で働くことになりましたが、最初は自分で仕事を行うことはほとんどなく、先輩の後ろについて行動し、先輩の仕事を観察する毎日でした。実際に自分で仕事をしていないので体力的には大変ではありませんでしたが、みんな忙しいのに、自分はただ仕事を観察しているだけで何もせずに給料をもらっている申し訳なさがありました。

入社して最初の課題は日本語でした。とくにカタカナの言葉が苦手でした。介護の仕事ではカタカナの言葉も多く、勉強してもすぐに思い出せないことがたくさんありました。何回も調べたり、先輩に教えてもらったりしながら少しずつ覚えていきました。

そして入社して2か月が経ち、ようやく一人で仕事をする日が来ました。一人で仕事をするのも大変なことの連続でした。先輩と一緒のときは先輩がフォローしてくれるという安心感がありましたが、自分一人なので頑張って対応しなければなりません。その日の交代の時にミーティングで引継ぎを行いますが、専門用語がたくさん飛び交い、Aさんはあの薬を使っているなど、その場で聞いても薬の名前など覚えきれませんでした。先輩が一緒なら先輩が丁寧に教えてくれますが、今は自分しかいません。そしてこの引継ぎのミーティングの時に一つ一つ質問するのも迷惑になってしまうので、入居者さんの情報が入っているケースで確認したり、引継ぎ後に他の職員の人に質問したりして、わからないことを確認していました。

入社したばかりの頃、今でも記憶に残っているある事件があります。ある日、朝、私が1人しかいない時間帯に看護師さんから介護施設に電話がかかってきました。ある入居者さんが今日の午後、眼科往診があるという要件の電話でした。この当時、私は日本語能力がN3だったので「眼科往診」という言葉や話の内容がわからず、しかも今まで電話を受けたことがなかったので、対応の仕方すらわからずにあたふたしていました。焦ってしまった私は、ただ相手の言葉に「はい、はい」としか答えることができず、もう一度内容を聞こうとしたところ、相手も私が「はい」と答えているので理解したのだと思い、電話は切れてしまったのです。結局、相手の名前も話の内容もわからないまま終わってしまい、私はとても困ってしまいました。そのあと、他の職員の人が来たので事情を話し、再度電話をしてくれたので何とかなりました。幸いにも、ある入居者さんを午後、眼科往診に連れてきてほしいということで、すぐに対応しなければならないことではなかったのでよかったですが、これがすぐに対応しないといけない用件だったら大変なことになっていたと反省しました。次はこのようなことがないように電話の対応の仕方を勉強し、先輩がいるときには積極的に電話にでて、電話に慣れていきました。

電話の対応の時もそうでしたが、仕事で細かいミスをしてしまったことも多くあります。例えば、入居者さんの部屋にポータブルのトイレを持って行かないといけないのに忘れてしまったり、転落防止のためにベッドの周りの柵をしっかりしめないといけないのにしめていなかったり、タオルを持って行き忘れたりなど、細かいミスがたくさんありました。先輩から一つ一つ注意される度に、なぜ毎回自分はこんなこともできないのかと責め、自分はダメだ、先輩も私のことを嫌いに違いないと思い込み、落ち込んでいました。しかし落ち込んでばかりでは解決には至らないので、ミスの原因は何かと考えました。自分の行動を振り返ってみると、それまではこれをやろうと思いついたらやっていて、確認が十分ではないからだと気がつきました。その後、毎回、仕事をする度に確認し、帰るときにも確認し、確認作業を徹底しました。すると毎回の確認作業が習慣となり、ミスが少なくなりました。これは私が自分自身で一番成長したことだと思っています。今でも何かやるときには、何度も確認してミスをしないように心がけています。

落ち込んだ時期を乗り越えて新しい目標に向かう

介護施設で仕事を始めた当初はミスが多かったり、トラブルもありましたが、今では仕事にも慣れ、順調です。それでも実は3年目、4年目のときに、仕事のことや自分の家族のこと、そして自分自身のことでさまざまなトラブルに見舞われ、挫折しそうになりました。

ある日、仕事でとても大きな事故を起こしてしまいました。施設でいつも私によくしてくれる仲のいいおばあさんがいました。このおばあさんをお風呂に連れて行くときにいつも車いすに乗ってもらうのですが、この車いすがベッドのわきに完全に止まる前に乗ってしまい、おばあさんは床に尻もちをついてしまいました。そしてなんとお尻の大転子部が破れ、緊急手術、そして2週間の入院となってしまいました。おばあさんもご家族の方も私を責めることはありませんでしたが、なぜあんなにも毎日仲良く話してくれ、ご家族にも私のことを紹介してくれるおばあさんを傷つけてしまったのかととても申し訳ない気持ちがいっぱいで、自分自身を責めていました。毎日、仕事が終わったら病院へお見舞いに行きましたが、自分の起こしてしまったミスは許せませんでした。

またこの頃、ベトナムにいる父も病気になり、入院しなければならないという連絡がありました。そして、自分自身のことですが、日本語能力試験N1の試験も不合格でした。N1は何度も受験し、今回はとくに手ごたえを感じていたので合格の自信があったにもかかわらず、合格点に20点も足らず、不合格でした。仕事でも大きな事故を起こしてしまい、父も病気で入院し、私も試験に不合格となってしまったと負の連鎖でした。私はいつも明るく、積極的にみんなに声をかけていましたが、この時期は気持ちは落ち込み、憂鬱な毎日でした。仕事も心を込めてすることができず、誰とも話したくない、できれば仕事も行きたくないと思っていました。職場の人たちも私のことを心配し、メンタルケアの相談にも乗ってくれましたが、あまり改善はできませんでした。

しばらくこのような状況が続きましたが、おばあさんが退院して元気になったと聞き、ようやく少し気持ちが晴れてきました。しかし、このままではまた自分のせいで周りに迷惑をかけてしまうと思ったので、気持ちを切り替えるためにも日本語能力試験N1に合格することと、介護福祉士の国家試験に受かることを目標にして、頑張ることに決めました。2019年の最後の半年間はN1の勉強と介護福祉士の勉強に時間をかけました。夜勤がない日は友人といっしょにオンラインで勉強したりし、夜勤の時も仕事の合間を縫って勉強していました。そして半年間の努力が実り、N1と介護福祉士の試験に合格しました。自分で立てた目標を達成することができ、本当の意味で私の憂鬱な気持ちは晴れ、仕事も軌道に乗り始めました。今は通常の介護の仕事以外にも、後輩たちへの教育や仕事の指導も行い、充実した毎日を送っています。

メッセージ

「介護」の仕事と聞くと、すごく辛く、夜勤があるので健康によくない、そして高齢者のお世話はとても大変だという偏見を持っている人もいるかもしれません。私個人としては、この仕事は大変な面もありますが、様々な経験を積むこともでき、そしてこの先何年も続けられる仕事だと思っています。たしかに夜勤の時に眠れない入居者さんに呼ばれたり、初めはおむつ替えなどの慣れない仕事が多くて大変に感じることもありますが、慣れてしまえばそれほど大変ではなく、仕事はその時間内で終わります。また、この介護の仕事は毎日同僚や入居者さんと話したり、記録を細かくつけたりするので、日本語がとても上達します。日本語を勉強したい人には理想的な環境です。それだけでなく、今年、初めてもう一つの良い点を見つけました。このコロナ禍で仕事に影響を受けている人も多いと聞きましたが、介護の業界は影響が少なかったのです。私の給料もアップしましたし、仕事も安定しています。

日本はいいことばかりではなく、グレーなこともたくさんあると言っている人がいます。介護の仕事は大変だと言われる業界の一つですが、私は5年間、日本で介護の仕事をしていて、自分の仕事や生活に満足しています。日本での生活がグレーなのか、ピンクなのかはその人の考え方次第だと思います。日本へ働きに行きたいと考えているなら、日本語の勉強をしっかりして、日本の文化や知識をあらかじめ学んで準備してください。そして大変なことがあっても乗り越えようという気持ちを持つことが大切です。ただ単にお金を稼ぐために日本へ行くという人は、日本の生活がグレーにしか見えないかもしれませんが、自分がどうしたいのか、どうなりたいのか、そのためには何を準備したらいいのかを考えて行動できれば、日本での生活も仕事も楽しく、明るく感じます。

東京、202012