大学院への道

 2014年の初め、あと1か月でベトナムの国民経済大学を卒業という時期にIELTSに向けて英語の勉強を始めました。この当時、今の夫が日本の文部科学省の奨学金(MEXT)をもらい、石川県の大学院の博士課程で留学生として勉強していたので、私も大学卒業後は日本に留学し、石川県の大学院へ進学したいと考えていました。日本語はまったく勉強していなかったので英語で受験するためにIELTSで良い点数を取ることが日本の大学への応募条件でした。なので、英語を一生懸命頑張って勉強しました。


 私は石川県にあり、英語で受講できるコースがある北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)の研究生コースへ申し込み、2014年10月に来日することが決まりました。この北陸先端科学技術大学院大学は外国人留学生が多かったので生活面などのサポートが充実していて、来日してから生活で困ったらすぐに相談することができ、不自由することはありませんでした。しかし勉強環境については課題がありました。

 私は英語コースで入学しました。大学の授業にも英語で受講できる授業があるものの、自分の研究テーマに必要な授業やゼミのほとんどが日本語でした。指導教員とのメールでのやり取りは英語でできましたが、会って話すときは日本語です。また、1学期の間に何回か英語でのプレゼンテーションのチャンスがありましたが、ほとんどの留学生は日本語が上手だったため、私が英語でプレゼンテーションしてもみんなあまり興味がない様子で、私のプレゼンテーションへのフィードバックや意見はほとんど返ってきませんでした。

 この当時、私は日本語があまりできず、ひらがなやカタカナしか文字はわからず、会話も簡単な挨拶しかわかりませんでした。そのような私にとってはこの勉強環境が本当に苦しくて、想像したものとまったく違っていました。結局大学にいたもののあまり先輩や先生に頼ることができず、ほぼ自分で一人で頑張らないといけない状況で、私はひどくストレスを感じて、帰国したいと思う時もありました。


 私が日本留学を決めた理由は、夫と同じ場所にいたいという理由もありますが、大学院でしっかり勉強したいという気持ちもありました。なので、大学院へ進学しないと意味がないと思っていました。そして半年間の研究生が終わった時に大学院へ進学できないなら、家族滞在に切り替えて日本に居続けるのはなく、ベトナムに帰国するという選択肢しか考えていませんでした。多くの人は進学できないなら家族滞在を選ぶと思いますが、私にはその気持ちは一切ありませんでした。この強い気持ちがあったからこそ、英語の授業が少なくてダメだと不満ばかり思うのではなく、自分で本を読んだり、資料を調べたりして勉強し、情報を集めていきました。その努力が報われ、来日してから5か月目、正式に大学院の修士課程に合格することができました。さらに学校から奨学金までいただけることになったのです。


さまざまな体験ができた学生生活

 私のもらった奨学金は文部科学省のものではなく学校の奨学金だったため、毎年前年度の成績で奨学金の継続が判断されます。2年生以降も奨学金をもらえないと大変だと思い、1年生の時は成績Aを維持するために勉強を一生懸命しました。日本語はわからないことが多いので英語で大学院の研究はしていましたが、私の英語能力は高いというわけではありません。IELTSで勉強した英単語や表現、日常会話ならば問題ありませんが、専門用語や研究で使う表現はとても難しかったです。結局、研究資料を自分で調べたり、本を読んだりして人の倍以上の努力が必要でした。大変な1年目でしたが、頑張ったおかげでこの1年目で必要な単位がすべて取れました。また、研究データもベトナムに一時帰国した時にすべて準備することができたので、修士2年目は時間にゆとりが生まれました。


 私たち夫婦のこともお話しします。夫と同じ石川県に住んでいましたが、夫の家と私の家は25㎞も離れていました。私が来日してからの半年間はまだ結婚しておらず、週末にしか会えませんでした。夫の指導教授からもまだ結婚していないので泊まってはいけないと言われ、私たちはお互い片道1時間半、往復3時間かけて日帰りで会っていました。

 この生活を半年続け、私が大学院の修士課程に入学する頃ぐらいに結婚しました。このまま遠方でお互い行き来するのも大変なので一緒に暮らそうという話になり、私が夫の家に引っ越しすることにしました。引っ越し後、私は学校まで遠くなりましたが、一緒に暮らせることが嬉しかったです。

 大学院への通学は、運転免許が取れるまでは毎回、自転車とバスで駅まで行き、電車で学校まで行っていました。石川県は冬になると大雪になるときがあり、駅まで自転車では行けないときがあります。また始発のバスに乗っても間に合わない時もあったので、雪がひどいときは前日から研究室に泊まりこんでいました。

 結婚して一緒に暮し始め、少し落ち着いてきた半年後の10月、夫はインターンシップでつくばにある会社へ行くことになりました。最初は研究のサポートで短期間で終わるインターンシップと聞いていたのですが、1年もの長い期間のインターンシップになりました。ようやく一緒になれたと思った矢先、また離れ離れになってしまいました。


 修士1年目で単位も取れ、研究テーマのデータもそろい、夫もつくばへ行ってしまったので、2年目はとても時間がありました。なので、お金を稼ぎながら日本語を勉強しようとアルバイトを始めました。最初のアルバイト先はベトナム人アルバイトが何名もいる餃子のお店でした。仕事はそんなに大変ではなく、餃子の具を皮に包むだけの簡単な仕事でした。日本語もほとんど話さないので私でもできる仕事だと思いました。アルバイトを始めてから、家に帰ると体調が悪くなることが多く、餃子の生の具の匂いでアレルギーを起こしていたようです。50時間頑張って包む仕事をしていましたが、さすがに我慢できなくなり、お店の人に別の仕事がないか聞いてみました。他の仕事には、注文を取る仕事しかないと言われ、私は注文を取る仕事をすることになりました。

 最初の3日間はずっと「いらっしゃいませ」と言う練習でした。その後は注文を取っていましたが、日本語が上手でないので、お客様の注文が厨房に伝わるように大きな声で繰り返すという日々でした。最初の1週間は恥ずかしい、辛いと感じていましたが、頑張って続けていくうちに1か月も経つと慣れてきて、上手く注文を通すことができるようになってきました。自分の日本語も上手くなったと感じるようになり、自信がついてきました。そして他のベトナム人スタッフへの日本語の通訳も頼まれるようになり、私が一番日本語が上手だと実感できるようになりました。このことがきっかけで、頑張れば日本語が上手くなるのではないかと思い始めました。


 そしてこのころ、妊娠しました。子育ての時間的なゆとりもあってちょうど良い時期でした。夫はつくばにいたので自分一人ぼっちで寂しい時もありましたが、連休の時などは会うことができました。そして2017年1月に子どもが生まれました。私の出産が近いということもあり、夫はインターンシップ先と学校にお願いし、生まれる少し前に石川に帰ってくることができ、出産にも立ち会うことができました。夫はそのまま大学院で博士課程を続け、私は2017年4月に大学院を卒業し、家族滞在の在留資格に切り替えました。正社員として働きたい気持ちもありましたが、今は子育てに専念して、子どもが大きくなってから正社員として働こうと考えていました。


静岡での新生活

 子どもが1歳になり、夫の博士課程も修了しました。夫は大手企業から内定をもらい、静岡支店に配属となったので家族で石川から静岡に引っ越しました。引っ越して少し落ち着いてからまずやったことは、アルバイト探しです。アルバイトを見つけないと子どもを保育園に預けることができないので、静岡で知り合ったばかりの人からアルバイトの情報をもらいました。


 最初に紹介されたアルバイトは、魚をおろす仕事でした。せっかく紹介してもらったのですが、自分には合わないと思ってお断りしました。自分でもいろいろと情報を集めて、電話して面接も何度か受けましたが、日本語が上手ではなく、子連れだったので断られることが多かったです。そして探している中でやっと近所にあるラーメン屋さんに採用してもらえることになりました。このラーメン屋は石川でアルバイトしていた餃子のお店に似ていました。ここで頑張っていましたが、やはり自分の日本語能力が十分でなかったのか、短期間しか雇ってもらうことができませんでした。


 またアルバイトを探す日々に戻りました。探しているうちに幸いなことに、近くにあるガストで採用してもらえることになりました。石川に住んでいた時は周りの人たちも日本語が上手ではなかったので通訳を任され、自分は日本語が上手だと思っていましたが、ガストでのアルバイトで自分の日本語がいかにできないかを痛感しました。

 ガストのアルバイトは日本人が多く、周りの日本人アルバイトが話していても、何を言っているのかわかりませんでした。またお店で使っている言葉や文字もわかりませんでした。こんなにも日本語がわからないとは思わなかったのでとてもショックでした。さらにこんな私を見た日本人のアルバイトスタッフたちから、「日本語を読めないんだ」、「こんな文字もわからないのか」と言われ、傷つきました。大学院で修士課程まで進んだのに日本語ができない自分自身へのくやしさと恥ずかしさから、このままではダメだと一念発起し、日本語の勉強を始めることにしました。


 ガストでのアルバイトを始めてから少し経ち、5月中旬には子どもを保育園に預けることができるようになったので、7月にある日本語能力試験N3を受験することにしました。このとき、受験までの勉強期間は1ヵ月と少ししかありませんでした。日本語の勉強は独学では難しいだろうと思い、インターネットで見つけた日本語学校のN3オンライン対策コースに申し込みました。

 このオンライン対策コースは45分授業で計8回のマンツーマンのコースでした。たくさんの生徒がいるのではなく、マンツーマンなのでみっちり勉強できると思い、このコースに決めました。先生は毎回変わります。初回授業では受け身の文法を復習しましたが、私は受け身の文法がわかりませんでした。その先生から、「受け身もわからなくてN3に合格するつもりなのか」と言われ、ショックでした。自分の日本語能力が全然足りていないことに気付かされたので、もう一生懸命勉強するしかない、合格してみせると本気で勉強に取り組みました。そして1か月間、集中して勉強し、最後の8回目の授業の担当は、初回のときの先生でした。私はこの1ヵ月の勉強のおかげで、先生が驚くほど日本語が上達し、宿題も会話も最初のころと全然比べ物にならないぐらいできました。


 そして努力が報われ、7月の日本語能力試験N3にも晴れて合格しました。最初はN3は到底手が届かないものだと思っていたのですが、頑張れば手に入れることができました。このまま頑張ればN2合格も夢ではないと思い、その年の12月に受験を申し込みました。N2はN3のときよりも問題の難易度が高いので、オンラインではなく、どこかの日本語学校に通って勉強しようと思いました。

 そして自宅から20㎞離れた学校へ週3回、片道1時間かけて通って勉強する日々が始まりました。朝は子どもを保育園に預けて学校へ行き、日本語の授業が終わったら午後はガストのアルバイト、そして子どもを迎えに行き、帰宅したら家事をするといった忙しい日々でしたが、なんと12月の日本語能力試験N2にも合格することができました。日本の大学院も卒業し、日本語能力N2も合格したので、これで正社員として働けると思い、就職活動を開始しました。


人生のターニングポイント

 日本語能力N2があり、英語も得意、そして日本で大学院卒業といった条件がそろっているので、就職はなんとかなるだろうと思っていましたが、簡単にはいきませんでした。私の住んでいるところは求人自体が少なく、隣の市に行けばいくつか求人はありましたが、通勤時間が長く、子どもの保育園へお迎えの時間には間に合いません。夫も仕事が忙しく、残業が多いため、子どものことを任せることができなかったので、頑張って就職活動をしていましたが、なかなか条件が良いところはありませんでした。


 就職活動が上手くいかないので、このままの生活でもいいかなと諦めかけていたときに思わぬところからチャンスが転がり込んできました。2019年5月のゴールデンウィークのときに、東京に行くついでに友人に会うことになりました。正社員として働くために就職活動をしていること、なかなか就活が上手くいかないことをたまたま話していたら、ちょうど友人は採用を担当していて、大企業への派遣社員を募集しているところでした。派遣の仕事に求められる条件は私にぴったりで、残業もなく、大きな責任も負う必要がなく、尚且つ給料や待遇が良いといった好条件でした。ただ、場所は静岡ではなく東京でした。この仕事をしたいけれども、夫と離れて暮らさないといけないのでどうしようかと悩みました。

 夫に子どもと私だけ東京へ引っ越し、仕事を始めたいと相談しました。今の生活も夫は平日忙しいため週末しか一緒に居られず、子どもの世話も家事もすべて私一人でやっていました。東京と静岡もそれほど離れていないので、会おうと思えばすぐに会えます。夫と相談した結果、夫も私が働きたいと思っていることは知っていたので、家族は離れてしまいますがOKを出してくれました。2019年4月、その派遣の会社から正式に内定をもらい、子どもと2人で東京へ引っ越しをし、夫は静岡に残り単身赴任という形で新生活が始まりました。


東京での新生活と家族がいっしょになるまでの道

 静岡に住んでいた頃、子どもは泣き虫でよく私にくっついていました。私も保育園以外では子どもから離れることができず、シャワーを浴びる少しの時間も子どもを一人にしておくことができませんでした。東京では子どもと私2人だけの生活になるので不安が大きかったです。私がシャワーを浴びている間に子どもが1人でバルコニーに行ってしまわないか、泣いてしまわないか不安で、慣れないうちはさっとシャワーで体を洗うぐらいで髪の毛までゆっくり洗っている時間はありませんでした。週末友達が自宅に来て子どもを見てくれて、ようやくゆっくりシャワーができるといった生活でした。


 だんだん東京での生活にも慣れ、子どもも私が忙しいことがわかり、一人で遊ぶことができるようになってきました。ご飯も静岡にいたときは私が面倒を見ないといけませんでしたが、自分で食べてくれるようになりました。少しずつ自立していく子どもの姿や成長に感動を覚えました。

 私自身もアルバイトとは違って正社員なので、テキパキ物事を進められるようになりました。頭を使って自分で考えて仕事をすることも楽しかったです。仕事はデスクワーク中心で、パソコンは大学院での研究で使っていたので問題ないと思っていましたが、大学院時代振りのパソコン操作だったので忘れていることもたくさんありました。たとえば、書類のスペルチェックしてほしいと依頼があったとき、私は目視で3回チェックしていました。パソコンの自動スペルチェックの機能があることも使ったこともあったのにも関わらず、人に言われるまで丸っきり忘れていました。他にもメールの返信方法など、基本的なパソコンスキルも長年使っていなかったので忘れていて、自分自身が社会と離れていたことを痛感しました。


 子どもを連れて東京へ引っ越した時は、ずっと東京に住み続けるとは考えておらず、ある程度経験を積んだら静岡へ戻り、就活しようと思っていました。東京に引っ越してから半年後、2020年になり、まさかのコロナウイルスの蔓延で就職や転職市場も一変しました。静岡に戻っても仕事がないため、戻る計画は一時保留となりました。自分自身の仕事は軌道に乗り、子どもも大きくなってきたので順風満帆な生活を送っていましたが、しばらくすると家族に大きなトラブルが襲い掛かり、家族は一緒にいたほうがいいと思った出来事がありました。

 あるとき、子どもがひどい風邪を引き、1週間、下痢や吐き気といった症状が続きました。子どもの看病のため仕事を休んでいたので、子どもが治って仕事に復帰できると思ったら、今度は私が体調を崩してしまいました。すでに1週間休んでいたので、これ以上休むことはできないと思い、何とか1日出勤して体調が悪いのを我慢して頑張りましたが、翌日は無理でした。子どもを保育園に行かせないとゆっくり休めないので、朝、子供を保育園に送って自宅に戻ってから体調がかなり悪くなり、急遽、救急車を呼び、気絶してしまいました。幸いにもドアのカギは開けていたので、救急車が到着してからすぐに病院へ運んでくれ意識は回復しましたが、このまま体調が午後になっても回復しなかったら子どものお迎えはどうしようかと自分のことよりも子どものことばかりが気がかりでした。結局、病院が夫に電話してくれたので、夫が仕事を早退して東京に来てくれたので子どものことは任せることができましたが、こんなことがまたあったら大変だと思いました。

 またしばらく経った2020年9月、今度は夫が2週間も高熱が続きました。ちょうど夫が体調を崩す前に東京に来ていたので、体調を崩して熱を出している間、私が看病することはできましたが、夫が治り仕事に復帰した二週間後、また再び体調を崩してしまい1ヶ月近くも入院してしまいました。この1年間で3回、子ども、自分、そして夫みんなが病気になり、大変な目に遭いました。家族バラバラだとこういった辛いときにすぐに対応できないと実感し、家族みんなで暮らしたほうがいいねと夫とも話をしていました。


 もう一つ、家族みんなで暮らそうと思った出来事があります。2年間、夫は静岡、私と子どもは東京で離ればなれに暮らしていました。週末になると夫が東京に来てくれるのですが、子どもも大きくなってくると、なぜ平日はお父さんがいないのか、早く金曜日になってほしいと口に出して言うようになりました。小さい頃はわからなかったと思いますが、少しずつ大きくなってくるとお父さんのいない寂しさ、ずっと一緒に居たい気持ちも芽生えてきました。私も病気だった時のこともあり、家族はやはり一緒にいたほうがいいと思い、夫が東京へ転勤にならなかったとしても、静岡に戻ろうと思っていました。


 2021年に入り、夫の静岡でのプロジェクトが終わり、東京本社への転勤が決まりました。夫はずっと会社に東京本社で働くことを打診していたようですが、その会社は単身赴任で働いている人も多かったので、なかなか意向は通りませんでした。しかし、この2年間、夫も頑張って単身赴任で働き、プロジェクトも無事に終わったので、東京本社への異動が通ったのです。ようやく家族3人、一緒に住むことができるようになりました。


メッセージ

 2年間、いろいろな回り道をしましたが、夫も好きな仕事を続けることができ、私も正社員として働き続けることができ、そして何よりも家族一緒に暮らせる日々がやってきました。

 私が日本にいる期間はまだそれほど長くないですが、いろいろな大変なことを乗り越えてやっとここまでたどり着きました。最初はチャレンジしなければならないことや壁にぶつかる度に、最自分には無理だと逃げ腰でしたが。しかしあるとき、自分自身で限界を決めるのではなく一歩踏み出してみたところ、自分にもできることがわかりました。

 多くの人から見ると、私が子どもと2人だけで東京へ行き、家族が離れ離れになるという選択をしたのは極端な選択だと思われるかもしれませんが、私も思い悩み、勇気を出して自分自身のセーフゾーンから一歩外へ踏み出しました。一歩踏み出せたからこそ、今の仕事も家庭も充実しているのだと思います。

 この “Voice of ASEAN SEMPAI” の記事を通じて、私と同じ状況に置かれたお母さんたちのモチベーションになったら嬉しいと思っています。とくに日本語の勉強中であったり、子育てと家事、正社員とのバランスに悩んでいたりするお母さんたちが、少しでも自分のセーフゾーンから一歩外に踏み出そうという気持ちを持ってくれたらとても嬉しいです。

東京、2021年4月