大学時代の貴重な体験

 2008年、母国の貿易大学1年生のとき、日本の文部科学省の国費外国人留学生制度(MEXT)に合格し、奨学金をいただいて2009年の春に来日しました。最初の1年間は日本語学校で勉強し、その後は横浜国立大学へ進学しました。なぜ横浜国立大学を選んだのかというと、東京からも近く、外国人留学生のための活動も盛んでいろいろな人と交流できそうだと思ったので横浜国立大学に決めました。


 大学に入学後、先輩からVYSAという在日ベトナム学生青年協会の活動に参加しないかと誘われました。このVYSAは、いろいろな企業がスポンサーになり、活動を支えてくれています。そしてVYSAにはさまざまなグループがあり、仕事もそれぞれ異なっています。私は、主にスポンサー企業の新規開拓や既存のスポンサー企業へのフォローを行う渉外のグループに入りました。もともと企業の担当者に会ったり、企業との交流に興味があったのでこのグループを選び、先輩とともに会社の担当者を訪問したり、電話したりしました。まだ大学1年生で日本語もあまり上手ではなかったので、企業の担当者と電話で話すときは毎回緊張していました。日本語でしっかり相手と話すことができるように事前に話す内容をメモして、話し方も練習して電話していました。


 VYSAは年間通してたくさんの活動があります。多くの企業は単発ではなく、年間のスポンサーになってくれているので、定期的に企業の担当者に会って活動の報告をしました。私は新人なので先輩と一緒に行き、既存の企業のフォローが多かったです。毎回先輩と同行するたびに、ビジネスで使う日本語や企業との話し方、話の展開の仕方など勉強になることばかりでした。先輩は、企業とのメール連絡もCCに私を入れてくれたので、ビジネスメールの書き方も勉強になりました。2年生になり仕事にも慣れてくると、イベントの企画運営を任されるようになりました。イベントの運営の仕方やコーディネートは昨年の経験がとても役に立ち、成功させることができました。仕事にも慣れ、活動も楽しくなってきていましたが、すべてが順調だったというわけではありませんでした。


 スポンサーになってくれる企業は、私たちVYSAの活動に期待し、企業にとってもメリットがあると考え、スポンサーになってくれています。しかし時々、企業の期待に応えられないときもあり、お叱りを受けることもありました。また私自身、「自分は学生のボランティア」という気持ちで企業と接していたので、企業の求める成果を上げるプロではありませんでした。このことを何度か指摘され、最初はボランティアで何がいけないのかと思っていましたが、次第に企業の求めるものに応えなければいけないと自分自身の考えを改めていきました。


 大学3年生の中旬から、会社説明会への参加や面接、試験などで忙しくなってきたのでVYSAの活動を引退し、就活に専念することにしました。VYSAの活動を通して、企業とのやり取りやチームでイベントの企画・運営の能力が身につき、これは就活のときにとても役に立ちました。


 私の第一志望の企業は日本のある大手電機メーカーでした。父が鉄道の会社で働いていて、子どものころから汽車や電車をよく見ていました。その影響から電車の交通インフラに興味を持つようになり、鉄道事業で有名な日本の大手電機メーカーで働きたいと思っていたのです。またちょうど就活のタイミングで、第一志望の会社がホーチミン市のメトロのプロジェクトに関わっていました。私はこの会社に入社したら、鉄道の仕事もでき、自分のVYSAで培った営業スキルも生かすことができ、そしてベトナムのプロジェクトにも関わることができるチャンスもあると思い、自分の熱意を面接で伝え、晴れて内定をいただきました。


営業職としての第一歩


 私が入社した企業はモノづくりの会社なので、実際に商品を作っている現場を大切にしています。入社してからの2か月間は本社で研修し、その後、半年間はいろいろな工場を2か月ごとに研修でまわりました。2か月間は同じ工場ですが、その中にもさまざまな部署があります。1週間ごとに部署を変えてさまざまな仕事を経験しました。


 この会社の営業職は、1つの契約単価が大きく、高度な技術が使われている商品を扱っています。そして何より営業は現場と良好な関係を築くことが大切なのです。なぜなら、お客様から要望をいただいた際やトラブル時には、現場にお願いする機会が多いからです。現場のどの人に連絡したらいいのかがわからない、営業の私のことを知らないとなると仕事が上手く進みません。なので、現場の人たちと仲良くして、現場の担当者に私のことを知ってもらうこと、そしてお互いの関係を築くことが大切なのです。


 半年間の研修が終わり、私は本社の営業グループに配属となりました。営業として始まってからも大きな壁がいくつもありました。最初の壁は専門用語の略語です。仕事の関係上、専門用語は多いことはわかっていましたが、お客さん先やミーティング時など、みんな専門用語を略した言葉を使います。専門用語を覚えるだけでも精一杯なのに、それを略して使うので何について言っているのか話に追いつけませんでした。メモを取ったり、わからない部分を先輩に聞いたり、本や資料を調べるなどして一生懸命勉強し、何とかミーティングでよく使われる略語がわかるようになるまで2か月ぐらいかかりました。さらに、会社にはとてもたくさんの商品があります。その商品一つ一つのスペックや特徴、性能など、自分の担当している商品を覚えるのに1年間はかかりました。


 それだけでなく、ミーティングの議事録を取ることも大変でした。この会社はみんなで議事録をwordに書き込むのではなく、手書きです。議事録の担当者は手書きの議事録を取り、スキャンしてみんなに送るのです。最初、議事録の担当になったとき、略語が多く、何を言っているのかわからなかったですが、耳で聞いたことをそのままメモするしかありませんでした。あとで先輩に内容を確認して、間違っている部分は書き直して議事録を完成させるという日々が1年間でした。この壁は私だけでなく、新人なら誰しもが直面する壁です。


 略語や商品知識を覚えることや議事録は大変でしたが、営業の仕事においては私一人で営業するのではなく、10年先輩の社員の方の下についてサポートする役目だったので苦労を感じることはあまりありませんでした。私の具体的な仕事は、資料作成や訪問時の議事録作成、データ集めと入力、入金状況の確認、工場に発注などの事務的な仕事がほとんどでした。ほとんど裏方の仕事ではないかと思われるかもしれませんが、毎日この仕事をしていく中で、自分のグループではどんなプロジェクトが進められていて、どれくらいの金額規模か、どの段階なのかを把握することができるのでさまざまな知識を学ぶことができました。


限界を超えて

 

 入社1年目は先輩のサポート役だったのですが、2年目になったら、その先輩が別の部署に異動となり、先輩のプロジェクトすべてを私が引き継ぐことになりました。1年目のときにサポートとして間近でそのプロジェクトを見ていましたが、先輩から引き継いでから、先輩が抱えていた仕事がいかに多いのか、そして深い内容なのかを初めて知りました。


 また、今まで先輩に届いていたメールもすべて私に届きます。メールの内容でわからないことも多く、お客からその日に見積もりを欲しいといったリクエストや質問など、わからないことだらけでした。お客様から連絡が来たから現場にすぐ連絡しないといけない、見積もりも対応しないといけない、わからないことを確認しないといけないなど、やらなければならないことだらけで毎日仕事に追われ、半年間は毎日22時まで残業しても仕事が終わらない日々でした。いつも仕事に追われ、ストレスもプレッシャーものしかかってきました。今、その当時のことを振り返ってみると、2年目でまだ仕事の優先順位がわからないときだったので、10個のボールが来たらすべて打ち返さないといけないと思い、全力で対応して息切れしている状態だったなと思います。経験を積んでいけば、このボールは先、このボールは後回しというように優先順位をつけられるのですが、この当時は何も何でもすべてやらないと思い込んでいたのです。なので、毎週月曜日が来るともう仕事をしたくない、いっそ退職願いを出してしまおうかと思いつめるほどでした。ついにストレスが限界を超えて、電車の中で泣いてしまうときもありました。


 仕事量が多いだけではなく、仕事を依頼した相手の対応にもストレスを感じていました。ある時、お客から無理なオーダーが来て、社内の別のチームにお願いしたいのに進捗が悪く、納期に間に合わないときがありました。営業の私のせいではなく、スケジュールを守らない別のチームが悪いのに、結局お客さんへ謝るのは営業の私です。トラブルがあるたびに、「あなたが悪いから私が謝らないといけない」と社内の人に感情を抑えられずにぶつかっていました。


 一番思い出に残っているトラブルがあります。私が新卒の研修である現場で研修をしていた時に出会ったある工場の課長がいました。営業として仕事をその現場にお願いしたのにもかかわらず、納期のトラブルがあり、工場の課長と口論になりました。「なぜお願いしたのに納期を守ってくれないのか」と電話口で大声を出して課長を責め立て、感情を抑えきれずに電話を切ってしまいました。その課長は私よりも人生も仕事も経験がある人なので、私の態度を怒るのではなく、私の上司に新人の私のことが心配だと連絡してくれました。そして上司も私に、仕事では相手に期待を持ちすぎると期待に応えてくれないときに自分がガッカリしてしまうし、相手が期待に応えてくれないときは必ずあるので、相手に感情を入れすぎるのは良くないといったアドバイスをいただきました。また相手が期待に応えない場合どうしたらいいのか、問題が起きてからではなく、問題が起こる前に事前に対策を考え、いざ問題が起きても迅速に対応できるようにするリスク管理の考え方が大切だというアドバイスもいただきました。この上司のアドバイスで、私も今までの行動を振り返り、自分の計画通りにならないと感情的になりすぎて相手と口論になり、結局問題の解決にはならないと気が付きました。そしてほかの人から見たら私は営業のプロではなかったなと反省しました。これからは自分の感情を抑えるように心がけて、リスク管理を徹底しようと決意し、2年目の終わりには少しずつリスク管理ができるようになっていきました。 



最初の実績

 
 3年目になり営業の仕事にも慣れてきて、担当しているプロジェクトも順調に進んでいきました。ただ、今担当しているプロジェクトはすべて先輩から引き継いだものなので、私個人としての営業実績はまだありません。新規の顧客を獲得しないといけないと思っていたタイミングで、ちょうど新しい商品が市場に参入するという情報を得ました。その市場に参入するものの、既に他社がマーケットシェアの大半を占めていたので、会社としてどうシェアを拡大するかが課題でした。私はこのチャンスをつかもうと、新規開拓に力を入れ始めました。


 この市場にはキーパーソンと呼ばれる人がいました。プロジェクトを進めるためには、この人にアプローチしなければ、市場への参入もマーケットシェア拡大もできません。先輩たちもその人にアプローチしていましたが、なかなか手強い相手で、現場でも1人ぐらいしか話せる人がいないと噂されるような怖い存在の人でした。しかし、自分の目標を達成するためにはアプローチしないと始まらないと思い、積極的にアプローチしました。


 初めて訪問した際、その人からいろいろと厳しいご意見をいただきました。それでも負けずに2週間に1回は新しい情報やプロジェクトの情報などをお伝えしに訪問しました。まずは何度も訪れて私の存在をアピールし、私の顔と名前を覚えてもらうことが第一だと思い、嫌と言われても何かしら理由をつけて訪問していました。また、新しい電車が完成すると試行運転の会があります。昼間にはできないので、試行運転は通常夜間に行われます。夜間で遅い時間までかかるので男性社員が出席するのがほとんどですが、その人が試行運転の会に参加しそうだと思うときには私も必ず参加しました。ある試行運転の会のとき、その人がちょうど私を見つけて、「なぜ夜間なのに女性のあなたが来ているのか」と声をかけてくれました。私は「大事なプロジェクトだから出席したくて来たんです」と答え、その時から、その人との距離が一気に近づいたように感じました。


 それからも頻繁に訪問し、その人も私が女性だからかもしれませんが少し優しく接してくれるようになり、徐々に心を開いてくれるようになりました。最初のころは冷たく対応されましたが、私の提案に対して本音でフィードバックしてくれたり、新しい情報や競合他社の情報も教えてくれたりするまでになりました。もちろん、その人はキーパーソンとして重要で厳しい方なので、注文があったらすぐに対応してほしいと社内の人たちにもお願いしました。


 そして市場に参入時は30%だったマーケットシェアでしたが、頑張って営業してきたおかげで、私が産休に入る前の3年間で52%まで拡大することができました。そして競合他社にも追いつきました。



産休から営業職へ復帰


 入社して6年目に子どもを出産し、初めて長期の休暇を取得しました。復帰時期は2020年6月、日本ではコロナウイルス蔓延で一番ひどい時期でした。私にとっては初めての子育てなので働きながら育児をするのがどれほど大変かわかりませんでした。またコロナの感染者が多い時期だったので保育園にも入園できなかったので、仕事の復帰をどうしようかと悩みました。産休前、私は国内市場の担当で出張が多くありました。出張が多いと子育ても大変なので、復帰したら別の部署で働くことも考え、先輩に相談しました。先輩に相談すると、広報はどうだろうかと言われました。広報は普段の仕事量もそれほど多くなく、子育てするママにはちょうどいいかもしれないとのことだったので、主人に広報の仕事にしようかと相談したところ、主人の意見は違いました。主人は、私は決まった仕事をこなすよりも刺激的な仕事の方が向いていて、もし別の仕事をしていても1年後には営業の仕事をしているよと言いました。だったら自分がやりたい仕事をした方がいいんじゃないか、もし子どもが熱を出したり体調が悪くなったりしても協力するからと私の背中を押してくれたので、私は営業の仕事に戻ることに決めました。


 2020年6月、時短ではなくフルタイムで営業の仕事に復帰しました。ちょうど幸いなことに、会社はコロナ禍で完全リモートワークになりました。なので、会社への移動時間もかからず、子どもが熱を出して保育園に預けられなくても自宅で在宅の私と主人とで看病しながら仕事をすることができます。また、出張の多い国内市場の担当ではなく、復帰後は海外のオーストラリアやヨーロッパ担当となりました。今はまだ海外へ行けないので出張もなく、電話やメールでやり取りでき、仕事も順調に進んでいます。


メッセージ


 営業はチャレンジも刺激も多い仕事です。仕事をする上では、さまざまなことを柔軟に対応するスキルやコミュニケーション能力も求めれ、自分の感情も上手くコントロールしなければいけません。またお客様からの要望に応えるためには、会社の他の部署の人たちの力も必要不可欠です。なので、社内でもいろいろな人と良い関係を築くことも大切だと思っています。


 私にとって営業という仕事は、自分の努力が目に見えて成果として現れる仕事だと思っています。お客様が私を信頼し契約を結んでくれ、その結果、会社の売り上げに貢献することができる。努力が報われる仕事だと私は実感しています。


 今の会社で営業職に就く前までは、私も他の外国人留学生たちと同じく「営業」の仕事に不安がありました。日本人のお客さんが外国人の私を見て信頼してくれるのか、完璧ではない日本語で大丈夫かといった不安がありました。でも、今まで6年間も営業の仕事をやってきました。長くはないですが、決して短くもない経験の中で分かったことがあります。それは、目標に向かって努力を惜しまずに頑張り続ければ、外国人でも営業の仕事はできます。チャレンジも課題もたくさんありますが、自分の成長につながるチャンスです。外国人だから外国人に関係のある仕事だけしかできないというのは思い込みで、頑張れば日本人と同じ仕事で、むしろ日本人よりも質の高い仕事もできるのです。自分に自信を持って頑張ってください。

東京、2021年6