頑張った就職への道のり

18歳で高校を卒業後、私は私費留学生して来日し、日本語学校に2年間通いました。その後、東京国際大学の商学部に入学しました。卒業後は日本で働きたいと思っていたので、多くの大学生は就職活動を3年生のときから開始しますが、私は2年生のときから情報を集め始め、3年生になる少し前の3月末には就職活動のスタートを切れるようにしました。


就活では、なるべく多くの会社にエントリーし、面接の経験をたくさん積みたいと考えていたので、ほとんどの外国人向けの就活サイトに登録しました。また学校のジョブフェアはもちろん、学校以外のリクナビやマイナビ、ハローワーク、VYSA(在日ベトナム学生青年協会)などが開催するジョブフェアにも参加しました。私は当時、日本語能力はN2で、大学も国公立大学ではなく私立大学の学生だったので、他の国公立大学の学生やN1を持っている学生に比べると気後れしてしまい、大手企業へのチャレンジは勇気が出ないときもありました。しかし、1%しか通過する可能性がなかったとしても思い切って大手企業にもエントリーしました。


大手企業の説明会では、やはり中国人留学生しか見当たらなかったり、国公立大の学生しかおらず、私立大で外国人留学生は自分一人だけというときもありました。このような環境でしたが、まずは説明会に参加して、周りの人たちがどうやって先輩へ質問するのかだけでも吸収して帰ろうとたくさん場数を踏みました。


私は私費留学生なので就活しながらもアルバイトをして学費や生活費を稼がないといけませんでした。次第に就活とアルバイトのバランスを取ることも難しくなっていき、どうするか考えた結果、まずは就活に集中することに決め、アルバイトは週2、3回に減らしました。寝ても覚めても頭の中は「就活」のことばかりで、面接を受ける夢を見るほどでした。


就活をしていく中で、自分の将来の目標や仕事を選ぶ軸に合っていて、入社したいと思った会社がありました。その会社は少し遠い所にあり、面接会場に行くまで3回も乗換が必要でしたが、私はどうしてもその会社で働きたいと思い、選考を受けていました。しかし重要な面接の日に風邪を引いて熱が出てしまったのです。なぜこんな重要な日に限って体調を崩してしまうのか…履歴書を書きながら泣いていたときのことを今でも覚えています。その会社だけでなく、何回も面接をし、今回も通過したと手ごたえがあったにも関わらず不合格で内定をもらえないという苦しい日々が続きました。


なかなか思うようにいかず苦しく悔しい思いもした就活でしたが、ようやく3社から内定をいただくことができ、今までの努力が報われたように感じました。そしていろいろと考えた結果、人材業界の会社で営業職として入社することに決めました。


予想できない出来事

 一生懸命就活を頑張ったおかげでようやく内定を手に入れ、さあこれからどんなキャリアパスを描こうかと期待に胸を膨らませて会社に入社しました。私はすでに結婚しており、主人も他社で新卒1年目でした。


入社して数か月後、妊娠していることに気がつきました。まだ自分自身、入社したばかりで子どものことなどまったく考えたことがなく、心の準備もなかったのでとてもショックでした。これから頑張っていこうと思っていた矢先、道が途中で途絶えてしまったように感じました。私はまだ入社して間もなく、今会社を育休で休んだとしても経験がないので仕事に復帰できないかもしれない。入社したばかりの新人が「妊娠しました」と伝えることで、周りのみなさんに迷惑をかけてしまうかもしれない。このような不安や悩みが大きくなり、毎週毎週落ち込み泣いていました。しかしいつまでも泣いていても事態は良くならず、周りのみなさんに迷惑をかけるのは仕方ないと思い直し、ならば産休に入るまでは他の同期に負けないぐらい精一杯、自分ができる範囲で頑張ることにしました。


同期は1日20件~30件テレアポしていました。私に残された時間は短かったので、同期の倍はテレアポする気持ちで、1日40~50件テレアポしました。また妊娠8か月のときも、まだ体調も問題なく動けるときはお客様のところへ直接訪問していました。私の頑張っている姿勢を上司や同僚が見てくれていたので、みなさん私が働きやすいようにいろいろと配慮してくれました。私は産休に入るまで1年も働いていないため、大きな成果は残せていませんが、仕事に対する情熱は動機にも負けないようにし、悔いが残らないように一生懸命仕事に打ち込んできました。会社のみなさんも私に対して文句があってもおかしくないと思いましたが、一言も文句なく、とても快く接してくれました。


私はこの経験を通じて学んだことがあります。それは、人生には思わぬ出来事が突如起こり、あらかじめ決めていた予定が崩れたり、どうしても順調にいかなかったりするときがあります。そのときに落ち込んだり、自分を責めたりしても事態は解決しません。どうやったら前を向いて進むことができるのか考えて頑張り続けていれば、周りも自分のことを理解し、助けてくれます。私も思いがけない妊娠でしたが、自分が前を向いて頑張ったからこそ周りも助けてくれたのだと思います。それが一番大きな学びでした。


ケーキ作りとの縁

 2019年12月、臨月になったので産休に入り出産しました。主人は仕事に忙しく、ベトナムにいる両親も日本に来ることはできないので、私がベトナムに一時帰国することになりました。2020年に入り、ちょうどコロナウイルスの感染が広がっていき、最初はすぐに日本に戻る予定でしたが、1年間ベトナムで過ごしました。2020年11月にようやく日本に戻り、家族3人で一緒に暮らせるようになりました。


私が産休に入るまでの勤続年数は1年未満だったので、産休の手当は会社からもらえましたが、育休の手当ては対象外でした。ベトナムにいる間は生活費の心配はありませんでしたが、日本に戻ってからの生活費は主人の稼ぎに頼るしかありません。また、まだ子どもを保育園に預けることができない時期だったのですぐに仕事に復帰することはできませんでした。何とか少しでも生活費の足しになればと思い、ケーキを作りオンラインで販売することを考えました。なぜケーキなのかと思った人もいると思いますので、ここで私とケーキ作りとの縁をお話しします。

私は決して料理がとても上手いというわけではありませんが、誕生日ケーキのデコレーションやケーキ作りにとても興味がありました。就活が本格的に始まる大学4年生になる前、私は1か月間ベトナムに帰国しました。その時、2週間、ケーキ作りのコースを受講しました。

来日して6年間、家族と離れて暮らしていますが、毎年、両親の誕生日には自分で誕生日ケーキのデコレーションを考えて、知り合いのケーキ屋にお願いして作って届けてもらっていました。誕生日ケーキは若者や家族がいないとあまりワクワクしないものです。年を取っていって子どもが家にいなければ誕生日は普段の日と大して変わらないで過ごしてしまいますが、もし子どもからケーキを送ってもらったら、せっかくだから写真でも撮ったり、ありがとうとメッセージを送ったり、オンライン上で一緒にケーキを食べたりする特別な日となり、大切な思い出になります。自分で誕生日ケーキのデコレーションができたら、世界にたった1つのオリジナル誕生日ケーキになるので毎年こだわっていました。デコレーションを考えるためにインターネットで調べていくうちに、このケーキはきれいだな、自分でもケーキを作ってみたいなと思うようになりました。

最初はYoutubeでケーキ作りの動画を見ながら作っていました。動画を見ることに夢中になりすぎて、気が付いたら朝の3時、4時だったというときもありました。しかし、Youtubeだけでは情報も限られているのでケーキ作りを本格的に勉強してみたいなと思っていたところ、ベトナムに一時帰国したときにケーキ作りコースがあったので受講したのです。実際に粉に触って自分でケーキを作ることが嬉しくて、大切な人や愛する人、友達にケーキを作ってあげられるのは素敵なことだなと思いました。私とケーキ作りの縁はここから始まったのです。

1か月間のベトナム滞在から日本に戻り、友達へケーキを作ってあげました。このとき、日本のベトナムコミュニティでは普通の甘いケーキではなく、 “bánh bông lan trứng muối” という普通のケーキのスポンジの上に塩漬けの卵と豚肉を使った甘くないケーキが流行っていました。私の友人もその甘くないケーキが大好きです。私も食べさせてもらったところ、この甘くないケーキもいいかもしれないと思いました。自分でも作ってみようと思い、インターネットで調べて作ってみたところ、南部の作り方だと南部の味、北部の作り方だと北部の味になることがわかったので2つを上手くアレンジしてオリジナルのケーキを作りました。

自分で作ったケーキがおいしくできたのでFacebookにアップしたところ、自分にも作ってほしいというコメントと注文が入ってきました。そのときから短期間でどんどんケーキの注文が増えていき、友達も私を応援してくれました。中には、茨城に住んでいる人がたまたま東京の友達の家に来て私のケーキを食べたら、ケーキがおいしかったので注文して茨城へ持って帰った人もいました。誕生日ケーキもいつものケーキと違うから飽きないというコメントもあり、今度は誕生日のデコレーションケーキをこの甘くないケーキで作ってほしいという依頼もありました。このように少しずつ友達や友達の知り合いからケーキの依頼が増えていき、子どもと一緒にベトナムへ帰国するまでケーキを作ってオンラインで販売することに力を入れるようになりました。

そういう背景があったので、今回日本に戻った後も、生活費のプチ稼ぎとしてケーキのオンライン販売を再開しようかなと思っていました。そして、今回ケーキの注文は友達やその友達の知り合いだけでなく、新規のお客様からもありました。とてもたくさんの注文をいただいたので、私は毎日朝の3時、4時まで起きてケーキを作っていました。しかし私一人の手では回らなくなってきたので、主人も仕事から帰宅して手伝ってくれました。2人で頑張っても朝の3時、4時までかかるときもありました。

 子どもは普段、私にべったりくっついていて、寝ても私が離れるとすぐに起きてしまいます。子どもを寝かしつけてからケーキを作りたいのですが、なかなか寝てくれなかったり、寝かしつけてもまた起きてしまったりするので、時間が足りないときは私と主人がケーキを作っている近くで遊ばせているときもありました。

ケーキが完成したら、翌日に届けないといけません。近くの人なら電車に乗って最寄り駅でケーキを渡しました。遠方の人は郵送しないといけないので、子どもをおんぶやベビーカーに乗せて郵便局まで行って郵送の手配をしました。時々、子どもが熱を出したり、私も体調が良くなかったり、雨で子どもを連れて行くのは大変な時もありましたが、「誕生日ケーキ」として注文しているのでこちらの都合で送るのを遅くすることはできません。雨のときは子どもに「ごめんね」と言いながら届けに出かけました。

辛い退職の決断

ケーキの注文を受け始めてから数か月後、ようやく保育園に入園することができました。そして仕事にも復帰することができました。これでようやく大変な壁を乗り越えたと思いましたが、さらに大変な日々が待ち受けていたのです。

私と子どもがベトナムに帰国している間、主人は違う会社に転職し、転職先の近くに引っ越しました。前の家から私の会社までは近かったので通勤時間もそれほどかからなかったのですが、新しい家から会社までは片道2時間、往復4時間もかかります。そして時短制度もないため、フルタイム勤務で働いていました。たとえ17時に退社しても、家に着くのは19時です。子どもはまだ入園したばかりで環境に慣れていないため泣いてしまったり、ご飯を一日中食べてくれなかったりしました。また急に熱を出して保育園からお迎えに来てくださいという連絡も何回もあり、その度に上司に早退のお願いをしていました。

コロナ禍でしたが、私は営業なので直接お客さんと会わないと仕事になりません。在宅勤務が難しいので、保育園へ子供を迎えに行くために2時間かけて戻るストレスや、保育園から呼ばれるたびに早退しなければならない申し訳なさが溜まっていきました。主人も協力してくれますが、同じく営業職で夜遅くまで働いていて、私もストレスの限界でした。どっちが子どもを迎えに行くのか、何回も夫婦喧嘩になりました。自分たちの周りの人たちも協力してくれましたが、それでも限界はありました。

よく考えたら、私たちの周りには手伝ってくれる親戚はおらず、お父さん、お母さんがいつも忙しくて子どもと遊んであげる時間もないのは子どもにとって良くないと思いました。私は心が痛みましたが、自分の仕事を辞めて子どもとの時間に使おうと思いました。次は何をするかまだ決めていませんでしたが、子どもがもう少し大きくなったら熱も出なくなるし、時間も上手く調整できるので、落ち着いて次の仕事を探そうと思い、思い切って退職しました。

最終出勤日はとても泣きました。上司も同僚もとても協力してくれて、私をいつも励ましてくれたのに、私は何一つお返しができませんでした。会社に貢献できていないうちに1年間産休や育休で休みをいただき、これから頑張ろうと思って仕事に復帰しましたがこの結果になりました。しかし、今回は子どものために選択した道です。一つの扉は閉じましたが、新しく次の扉が開くだろうと自分に言い聞かせて、次の道に進むことにしました。

幸いにもオンラインケーキの注文販売で少し貯金ができていたので、次はどうしようかと夫婦で話し合う中で、オンラインではなく、お店を開くのはどうだろうかという話になりました。自分たちでお店を開くのは簡単ではありません。しかし、日本にいるなら誰かのために働くだけでなく、自分たちの会社やお店を持つのも一つだなと思いました。日本で自分たちしかできないことを成し遂げるチャンスですし、若いので失敗しても良い経験になります。なので、2人で話し合い、お店を立ち上げることにしました。

どんなお店にしようか考え、最初は小さなケーキ屋さんにしようと思いました。良い物件がないか数か月探していると、良い物件が見つかりました。立地もよく、若者も多く、家賃も比較的安いです。しかし、広さもある良い物件だったので、単なるケーキ屋さんではもったいない気がしました。せっかくならケーキを食べたり、コーヒーを飲んだり、友達と交流できるカフェにすることにしました。

東京にはケーキを出すカフェはたくさんあります。きれいでおしゃれなお店もありふれていて、とても競争できると思いませんでした。ならば、ベトナムの雰囲気たっぷりのカフェはどうだろうかと思いました。私の知る限りベトナムの雰囲気を味わえるカフェはなかったので、誰もやっていないコンセプトのカフェにすることにしました。さらに考えて、古き良きハノイを思い出せるような懐かしい雰囲気のカフェにして、ベトナム人の若者が「おじいさんたちはこんな生活をしていたんだな」と感じられるようなゆったりした空間を作りたいと思いました。

コンセプトは固まりましたが、実際に空間を作り上げることが一苦労でした。40年、50年前に実際に使われていたものを内装や飾りとして使いたいと思っていたので、それを探すことが何よりも大変でした。昔っぽいものは比較的すぐに見つかるのですが、昔っぽいでは実際の古き良きハノイを味わうことができません。私は「実際に使われていたもの」にこだわり、探し続けていました。時間をかけて探していくうちに、ベトナムのグループで物を交換したり売ったりするグループを見つけました。そのグループ内で昔使われていたお湯を沸かした後につかう保温器や机、椅子、飾り窓などを手に入れました。その他にもベトナムにいる内装の人に相談したり、日本で施工してくれるチームにコンセプトや図面を見せて作ってもらったりして、徐々に自分が思い描くカフェになっていきました。

カフェの空間や内装を作っていくと同時に、私たちはメニューを考えたり、ドリンクの作り方もゼロから勉強しました。アルバイトを雇う前までは夫婦二人三脚でカフェを回していて、主人は仕事をやりながらも手伝ってくれていました。

子どもとの生活を崩さないように、子どもが寝た夜遅くから主人とカフェのこと、会社設立の手続き、ビザの申請方法などを何回も話し合いました。準備期間に3か月かかりましたが、お互い話し合い納得いくカフェがようやく完成し、年末の12月に“Smile Cake & Café”をオープンすることができました。お正月前でちょうどオープンのタイミングもよく、多くの若いベトナム人たちが来店し、写真を撮ってSNSにアップしてくれました。みなさんのおかげで今は空きテーブルがないぐらいお客さんが毎日来てくれます。

コロナ禍でみんなベトナムのお正月に帰ることができないけれども、このカフェにはベトナム人がたくさんいてホッとできる。東京はにぎやかな街で、みんなアルバイトや勉強、仕事で忙しい日々です。そんなときにこのカフェに来たら、ベトナムの昔の音楽がかかっている静かな空間でゆっくりすることができる。私はそんな空間にしたいと思い描いていましたが、私の想いはしっかりとみなさんに伝わったようです。

オープンから3か月経ち、夫婦で協力しながら運営しているカフェは軌道に乗ってきました。まだ3か月しか経っていませんがですが、これは一つの成功体験だと思っています。今後も引き続き多くの人にカフェを知っていただき、カフェは単なるビジネスではなく、ベトナムコミュニティの交流の場として多くの人に使っていただける場になれば嬉しいです。


メッセ―ジ


 人によって成功の概念は異なりますし、その人にとっても段階ごとに成功の概念は異なります。学生時代、私は良い会社に入社し、キャリアアップしていくことが成功だと思っていました。6年間も日本への留学をさせてくれた両親のためにも、キャリアアップすることが成功だと思っていました。しかし、思いもよらぬ出来事が起こり、思い描いていたキャリアアップができないとわかったとき、とても落ち込みました。

当初描いていた道とは全然違う方向へ進みましたが、ターニングポイントがあったからこそ、今の成功を味わうことができたのだと思います。今では自分たちのカフェを持ち、趣味のケーキ作りを楽しみながら収入を得ることができます。そして時間も柔軟に使えるので、子どもと関わる時間も十分に持つこともできています。以前の大変な経験があるからこそ、今の生活は成功だと思っています。

人生には思いがけないターニングポイントがあります。その結果、成功への道が途絶えたり、変わったりするかもしれませんが、どんな場面でも前を向いて積極的に頑張り続けていれば、新しい成功の概念が見つかります。どんな道であっても成功への道につながっているのです。



東京、2022年3