新生活への適応

2008年、ベトナム国家大学ハノイ人文社会科学大学日本語専攻で学士号を取得した後、ハノイにある、日本へエンジニアを派遣する会社に1年間勤務しました。その後、結婚してホーチミンに移りました。最初の子供が約1歳半のとき、当時日本で人材の会社を経営していた義兄が、私にそこで働くように誘ってくれました。私は人材業界でのスキルと経験があるので、もし来日すれば、フルタイムの社員として義兄の仕事を手伝うことができるからです。夫は日本語が話せなかったのですが、義兄の会社に入れば、日本語を必要としない業務をしたり、車で労働者の送迎をしたりして、週28時間働くことができます。ベトナムでの夫婦の仕事と生活は比較的安定していますが、私たちの家族は日本に行くことにしました。


来日後、私は日本語のコミュニケーションに特に問題はなかったですし、義兄のサポートもあり、家族はす​​ぐに日本の生活に慣れることができました。唯一の問題は、子供たちを保育園に預けることでした。私たちがそれを解決するのに半年近くかかりました。日本の保育園への入園は本来4月からなのですが、私たちはそれよりも早く来日したため、保育園に申し込んでから子供が実際に入園できるまで時間がかかったのです。子供は当時まだ3歳にもなっておらず、病気になりがちであったため、働いている夫が迎えに行く必要がある場合もありました。私の仕事は外国人労働者や企業と会って話をする必要があるため、かなり遠くの地方まで行くこともよくありました。基本的に私は夜7時か8時くらいにならないと帰宅できませんでした。夫も子供の世話をしながら、家事をしっかりこなしてくれましたが、それでも家族の中で妻と母親の役割を置き換えることはできません。私が遠方の顧客に会いに行っているときに息子が病気だという電話が園からかかってくると、夫が迎えに行ってくれると知っていても落ち着けませんでした。


仕事に関しては、私が働き始めた当初はかなりの困難に直面しました。ベトナムの大学を卒業したとき、日本語はすでにN2レベルでしたが、実際の日本人との仕事の経験はほとんどなく、最初は外国人を雇用している顧客と外国人労働者の対立に対応するのにかなり苦労していました。たとえば、ベトナム人は何か悪いことをすると謝罪ではなく笑う癖がありますが、工場の日本人マネージャーにはそれが理解できません。他にも、ベトナム人は始業時間時間ギリギリに職場に着く傾向がありますし、日本語の説明を聞いて理解できないことがあっても「わからない」と言うと仕事ができないと非難されるのではないかと恐れ、とりあえずうなずいて終わることがあります。このような問題に遭遇するたびに、私は双方と会って話し合い、原因とその問題を解決する方法を見つけ、今後にいかすようにしています、そのようにして、来日して半年後、すべてが徐々に軌道に乗りはじめました。


新しい家族


 しばらく仕事が順調に進んだ頃、妊娠して2人目の子供の出産を控えました。帝王切開の日が決まっていたため、他の一般的な母親のように6週間前に産休を取らず、手術する2週間前まで働きました。妊娠8ヶ月以上経ったときでも、地方に出張して仕事をしていたので、顧客の担当はとても気を遣ってくれました。たとえば、私が溶接の会社で通訳をすることになったとき、どうしても必要なときだけ私は現場に行きました。そして、赤ちゃんに影響を与えないように溶接の現場からなるべく離れられるよう配慮してくれました。


妊娠している間は疲れがありましたが、職場の皆さんはそのことを把握していたので、仕事自体は順調に進みました。2人目の子供が生まれ、1日8時間フルタイムで働きながら2人の子供の世話をすることが必要になってから、育児と仕事を両立する難しさを理解しました。


すべてをできるだけ順調に進ませるため、私たち夫婦はお互いに家事を割り当て、翌日の食事と子供たちの学用品を準備するために遅くまで起きる必要もあることを理解しました。

その後、1人目の子供が1年生に成長したとき、送迎する必要はなくなりましたが、そのとき私は学校のPTAの広報に配属されました。私たちのグループは毎月記事を書いたり、学校の活動の写真を撮ったり、学校が主催するお祭りの販売に参加したりする必要がありました。仕事はそれほど多くはありませんが、月に1回午後8時に全員が集まって仕事の割り当てについて話し合う必要がありました。私は仕事のため遅く帰宅するので、この時間帯は私料理をし、子供を風呂に入れ、次の日の準備をするので最も忙しかったですが、フルタイムを言い訳にすることができません。私のようにフルタイムで働くお母さんにとって、PTAの活動に参加するのは大変でしたが、他の日本人のお母さんと知り合い、活動をする良い機会でもありました。また、日本の教育における学校と家庭とのつながりを実感しました。


3人の育児と仕事の両立


 2番目の子供が約4歳になり、あまり病気にならなくなったとき、私は家族をよりにぎやかにするために3番目の子供を産むことにしました。

2番目の子供を産む際に帝王切開をしていたこともあり、3番目の子供もあまり抵抗を感じずに帝王切開で産むことにしました。当時、両方の祖父母の健康状態が悪かったうえ、私たち夫婦は2人の子供の世話をした経験があったので、祖父母に助けを求めずに、3人の子供の世話をすることにしました。入院した最初の週はうまくいきましたが、私が退院し、生まれ​​たばかりの子供の世話をし、2人の幼児を送迎する必要もあったため、本当に大変でした。


退院した数日後、手術した部分は痛みましたが、家に大人は私1人だったので、3番目の子供の食事やおむつの世話をし、ほかの二人の子供の送迎もしていました。6か月間がんばりましたが、職場に復帰すると、とても一人ではできないと思うので結局祖母にお願いして、職場に戻る準備をしました。幸いなことに、3か月間、祖母に助けてもらえました。その後、3番目の子供は2番目の子供と同じ保育園に入り、最初の子供も放課後自分で家に帰ることに慣れたので、私たちの家族の生活は徐々にまた落ち着きを取り戻しました。私は仕事に戻り、毎日夫と一緒に働きながら、3人の子供の世話をしました。

仕事に戻った後、お客様である多くの地元企業にもまた通いましたが、7年間日本で働いた後も、日本語が上手くいかないことに気づきました。これらの会社の高齢者の日本の経営者と話をしていると、現地の言葉を使っているせいか、まだよくわからないことがあります。長く日本に住むことにしたのですが、日本語をずっとそのままにしておくのは良くないので、N1の証明書を取得することを目標に、もっと日本語を勉強しようと決心しています。


6回のJLPT N1への挑戦と2回の医療通訳試験への挑戦


 さて、私は日本に7年間住んでおり、職場では日本語をよく使ってますが、JLPTのN1の試験で使われる語彙や読解の内容は非常に特殊なので、試験に合格するためにはかなり時間をかけて勉強する必要があるとかんがえました。仕事から帰ってきて、子供たちの食事、入浴の世話をし、寝かしつけた後、私は毎日夜遅くまでN1に関する勉強をしました。私の仕事は顧客に会うために長い電車に乗らなければならないことが多かったので、この電車で過ごす時間を利用してニュースを聞いたり、語彙を学んだり、過去問を解いたりしていました。


仕事をしながら、3人の小さな子供たちの世話をし、毎日そのように試験勉強の時間を調整しようとしましたが、N1に合格するまでに結局6回の試験を受ける必要がありました。2017年7月から2019年12月までのほぼ3年間、私は半年ごとに試験を受けましたが、その後再び失敗しました。しかし、私は負けずぎらいなので、決めた目標を達成せずにあきらめることがどうしても許せませんでした。私にとって、N1の試験を受験する過程は、履歴書に書くための証明書をもう1つ増やすだけの勉強ではなく、自分自身に対する妥協の気持ちを克服することでもありました。


N1を取得した後、私は医療分野の日本語に興味を持ち始めました。私の仕事の関係上、ベトナム人労働者を病院やクリニックに連れて行って診察を受けさせ、関連する保険の手続きを指導したり、説明したりしなければならないことがよくありました。毎回、さまざまな症状、病気の名前、検査に関連する多くの言葉に触れる機会があったので、興味を持ち、この分野についてもっと知りたいと思いました。当時、私が参加した在日ベトナム人のFacebookグループで、2020年10月にベトナム語での医療通訳専門技能認定試験が開催されるとの情報があったので、申込をすることにし、試験の開催をサポートする会社から資料をもらいました。解剖学からさまざまな病気や症状の名前まで、初めて膨大な量の医学的知識に触れ、わくわくし、そして緊張しました。試験前の2か月間、子供たちが寝た後や、通勤の時等、N1試験に向けて勉強をした時と同じように、医療通訳の勉強を続けました。2ヶ月間の努力の結果、この試験の2級に相当するスコアで、一次試験に合格しました。


二次試験は口頭試験であり、受験者は2人の試験官が病気について医師と患者の役割を演じる中、通訳・翻訳をします。筆記試験のときはかなり緊張していましたが、口頭試験を受けたときは、これまでにベトナム人の友人を病院に連れて行っていたので、比較的自信がありました。ところが、試験室に入ったとき、スマホがない状態で、辞書も使えず、今まで聞いたことのない病気の名前がでてきたので、かなり戸惑いました。誤訳し、多くの単語を拾えなかったです。二次試験は不合格でした。


期待通りの結果が得られなかったのでとてもがっかりしましたが、自分の能力を振り返り、特に試験準備や日本語学習への決意と努力を考え直す良い機会でもありました。この医療通訳の検定は二次試験で不合格になっても、次の試験は一次試験を免除され、再度二次試験から受験することができますが、私はその権利を放棄し、一次試験から受けなおすことにしました。今回の目標は一次試験で1級レベルのスコアをとり、二次試験でも1級を取得することにしました。そうすれば、私は1級の紙の医療通訳証明書とカード(資格証明書)が与えられます。これは多くの主要な病院で認められている証明書であり、病院によっては1級の証明書を持っている人だけに通訳を任せているところもあります。


前回の試験の経験から、配布された資料だけで勉強すると、85点以上(1級に達するレベル)を取得するのに十分ではないとわかったので、それに加えて、今回はYoutubeの病気に関する映像や、日本の看護師が国家試験の準備に使う無料のアプリなどを使い、関連性の高い情報を積極的に調べました。

私が通勤時に電車に乗る時間は約1時間から1.5時間で、その時間勉強することはもちろん、子供が寝た後の夜遅くにも勉強しました。以前のように暗記するだけではなく、より体系的に学ぶことを意識しました。例えば、循環器系について学ぶとき、私は最初に心臓の構造について学び、それらがどのように機能するかを調べました。次に、症状、病気の名前、およびそれらに関連する検査について勉強しました。この結果、次の試験で1次試験のスコアは1級レベルになりました。


今回は2次の試験に備えて、メモの取り方やキーワードのキャッチをする方法を見直し、試験仲間とグループを組んで毎日Zoomで一緒に練習しました。未知の言葉に出くわしたときの素早い反応が鍛えられるだけでなく、試験の雰囲気に徐々に慣れて、本試験日を迎えても不安にならないようになりました。そして、この2次試験のために毎日午前1時から2時まで1か月練習したため、二次試験でも1級に十分なスコアを取得し、正式に証明書を取得しました。


キャリアのターニングポイント


医療通訳資格の試験の勉強をしているうちに、私のこの分野への情熱はますます強くなりました。医療通訳関連の仕事をもっとやりたい、もっと練習したい、何よりも頑張って仕事したいというように考えました。そして、今の会社で守られているのではなく、自分の力で仕事したくなり、転職を決意しました。


当初は夫や家族も非常に転職に反対していましたが、次第に夫はあまり反対しなくなり、自分で決めることができました。義兄の会社を辞めた後、インターネットで関連する仕事を探し、幸い、ある病院で介護スタッフとして働くベトナム人技能実習生(介護)のサポート要員として働く仕事を見つけることができました。この仕事は、技能実習生の翻訳や彼らの生活のサポートのほか、病院での医師、看護師とのやり取りをしたりする点では、私の以前の仕事に近いです。しかし、以前の仕事は、ベトナム人労働者がけがをしたり、病気になった時だけ、病院に同伴して通訳をしていました。今は、常に病院内で、来院してくるベトナム人の患者に対して、医師、看護師の通訳をしております。そのため、試験勉強で学んだ知識はとても役に立ってます。

私は転職して1年以上になりますが、先はまだまだ長く、乗り越えるべき多くの困難がまだあると考えてます。たとえば、労働時間は以前ほどフレキシブルではないです。しかし、自分の決めた道を歩むことができ、毎日新しい知識を学び、活かせることができるので、とても嬉しいです。


メッセ―ジ


 子育てしながらJLPT N1に合格し、医療通訳の資格をとったことに関して、私の周りの方は驚き、何がそのモチベーションとなったか不思議に思われました。私のように1日8時間以上勤務しながら子育てをしていても、目標を明確にし、それを達成しようと強く思えば必ず一日のうち空いている時間を見つけることができます。受験勉強や知らないことを学ぶことは、自己成長に繋がりますし、仕事のチャンスが広がります。皆さんも是非トライしてみてください。


大阪、2022年5月