ヴ・テュ・ハー

VU THU HA

Profile & Message

2003年 貿易大学 対外経済・中国語専攻 卒業

2003年 ハノイ商業局に勤務

2005年   来日して、APUの修士課程に入学

2006年   APU 卒業 

2010年       医療設備に関わる日本の商社で貿易実務を担当(パート)

2013年  夫と二人で起業 

            HSC JAPAN貿易会社(日本法人)を設立

私のように夫に連れ立って来日して、家で子供の面倒を見ながら自分のキャリアに悩んでいるお母さんが日本全国にはたくさんいるかと思います。育児などいろいろ大変だと思いますが、少しでも余裕があれば日本語の勉強や、大学などで専門を勉強することに投資してください。最初は少し大変かもしれませんが、体験したことや、頑張って身につけた日本語や知識が、日本にいても帰国してもそのうちきっと役に立つと思います。しっかり準備しておく人にはチャンスが絶対に訪れるはずです。

夫に連れだって来日

2005年、25歳の時に初めて日本に来ました。外資系企業や民間企業、ベトナムの行政機関に勤務した経験がありましたが、来日することにしました。

新聞に掲載されていた日本政府による長崎県での石炭鉱業事業の通訳募集の求人広告を見て夫(当時はまだ結婚していませんでした)が応募したことがきっかけでした。夫は2004年後半から日本で仕事を始めていました。

一緒に日本に行こうと誘われた時、迷わず彼についていくことを決めました。結婚はまだ考えていませんでしたので、夫の配偶者として日本へ行くことはできず、留学生として日本へ行くしか方法がありませんでした。そして、彼の勤務先である長崎とも近く、全ての講義が英語で行われている立命館アジア太平洋大学(APU)へ留学するために、英語の勉強に力を入れました。いつも頭の中は、英語の勉強や、日本のこと、APUのことで一杯でした。母国の大学では中国を勉強していたので、日本語は全く分かりませんでしたが、2005年3月末にAPUの修士課程(英語コース)に進学するため、来日しました。

来日当初の生活

学費の一部や生活費は親と夫に支払ってもらい大学生活を過ごしました。学内は留学生が多く英語での会話が殆どだったことと、母国の大学で4年間勉強した中国語を忘れないためにも、絶対に日本語は覚えないと考えていました。

夫は長崎県で働いていましたが、たまに大分県で勉強している私のところへ来てくれました。私は連休があれば夫のところへ行き、一緒に釣りをしたり、ドラマを見たりしていました。一度、体調を崩して病院へ行った時に、先生の話していることが分かりませんでしたが、夫に電話をかけて通訳してもらうなど、日本語が分からなくても日本での生活を楽しんでいました。 

当時夫が住んでいたのは軍艦島のような島で、以前は炭鉱産業で栄えていたそうですが、やがて炭鉱産業が中止され、多くの住民も島を出てしまい、猫と無人アパートしか残っていませんでした。夫の仕事は給料が高く、お金を使うところもありませんでしたし、家賃や食事代まで支払ってもらえていたので、経済的な問題は何一つありませんでしたが、そこでの生活は退屈でした。夫は毎日16時に仕事が終わり、16時5分に家に着いた後、二人で釣りに行ったり、ベトナム人同士で集まったりして一日が終わります。これといった悩みもなく、島での生活は本当に楽でしたが、ある時大事なことに二人は気付きました。

もし、この島にずっと住み続けると、この小さな島のことしか知らず、日本の色々なところへ行ったり、新しい体験をせずに過ごすことになり、自分の人生もつまらなくなってしまうのではないか思うようになりました。そして、私の卒業をきっかけに、夫が政府機関での仕事を辞めて、福岡にある商社に転職することになりました。そこで、二人で福岡に引っ越して新しい生活をおくることにしました。

福岡での新生活

福岡に引っ越しした当所、一番ショックだったのは夫の仕事の変化でした。夫の給料は半分に減り、勤務時間は3倍に増えました。午前5~6時に家を出て、午後8~9時に帰宅する生活でした。そして、自分の就職活動もとても大変でした。APUを卒業したので、色々な会社に応募していれば、必ず自分に向いている会社が見つかると思っていましたが、そう簡単なことではありませんでした。福岡では英語が話せる日本人向けの求人しかなく、来日後の生活で一番行き詰まった時期でした。数年後に知人と再会した際、「当時、友達もいないし、仕事もないし、日本語も分からなかったのによく生活できましたね。ハーさんすごいですね。」と言われました。今でもその状況を思い出すと怖いです。

英語だけでは就職できないと分かったので、日本語を勉強することにしました。APU時代は親と夫に学費や生活費を払ってもらっていたので、今度は自分で働いて学費を稼ぐことを決心しました。家で日本語を自習しながら、アルバイトを探していましたが、平仮名の最初の文字は、インターネットの設定に来た日本人の作業員に教えてもらいました。

しばらくすると、アルバイトが見つかり、タオルの生産工場で働きました。午前中は学校で勉強をして、午後は2~3時間働いていましたが、勉強を始めてから3ヶ月経った時に妊娠し、つわりが酷くベッドから起き上がることもできなくなってしまいました。3ヶ月で体重が7kgも減ってしまい、学校も退学することにしました。学校の先生に退学する旨のメールを送った時には、涙が止まらなかったです。

出産後、赤ちゃんが生後4カ月頃になると生活は落ち着いてきましたが、仕事もなく、毎日子供の面倒をみる単調な日々が続き、憂鬱な気分になりました。子供が1歳になり、保育園に預けられるようになると、日本語を練習するためにアルバイトを再開しました。毎日、4時間アルバイトをしていましたが、とても単純な仕事で面白い仕事ではありませんでした。このアルバイトを1年間やりながら他の仕事を探して、もし見つからなければ、ベトナムに帰ろうと考えていました。夫は仕事が忙しく殆ど家にはおらず、子供の面倒や、アルバイト、日本語の勉強、就職活動など、私の人生で一番大変な時期だったと思います。

通勤やスーパーへ行く時、子供を迎えに行く時など、車を使う時間を費やして日本語試験の聴解問題やニュースをイヤホンで繰り返し聞いて日本語を勉強していました。また、新しい単語と文法を書いた小さい紙を常に携帯して、毎日昼ごはんを食べながらそれを見て、何か分からないことがあれば、アルバイト先の人たちに教えてもらい、夜は子供が寝てから漢字の練習をしました。病気に罹った子どもを抱きながら、日本語を勉強したこともあります。6ヶ月で日本語2級を取得することを目指していましたが、努力の甲斐あって達成できました。

母親としての就職活動

子供が2歳になると、病気に罹ることも少なくなったので、事務職の仕事を探すため履歴書を準備しました。資格もあり、日本語もできるようになったので、仕事は簡単に見つかるだろうと思っていましたが、書類選考や面接に落ちることが多く、本当に大変な日々でした。内定を貰えたこともありましたが、1日8時間の勤務条件だったため、仕方なく断りました。夜遅くまで子供を保育園に預けたくはありませんでした。

諦めないでもっと頑張れば、きっとチャンスが来る、就職できないのは自分の能力が足りないわけではない、私に合う仕事がなかっただけだ、もっと頑張ればきっと出来ると、思い続けていたら、ついにチャンスが来ました。ある会社でベトナム市場の担当として毎日4時間働きました。その仕事は、自分の経験や能力が発揮できて、会社にも貢献することができました。また、上司や同僚から、日本語や文化・習慣など色々なことを教えてもらいました。子供が病気に罹った時などは大変でしたが、その仕事が好きで、職場関係も良く、素敵な日々を過ごしました。

起業を決意

夫は大手小売業社に勤めていましたが、社内にベトナム人は夫一人しかいませんでした。日々の仕事も忙しく出張も多かったですが、仕事に励んだ分、役職も上がりました。しかし、このままずっと会社に勤めていてもつまらない、小さな会社でもいいから企業して自分なりに働けたら幸せだなと考えていました。6年間、会社に勤めていましたが、思い切って二人で起業することにしました。

起業するかしないか迷い、不安も沢山ありましたが、今決断をしないと40代になってからでは、決断がもっと難しくなると思いました。また、その時、子供は幼稚園に通っていましたが、これから子供が大きくなり中学校や高校に進学すれば、子育てのためのお金が今よりも必要になるので、子育てに必要なお金が一番少ない今がチャンスだと思いました。もし今やらないと、きっといつか年を取って振り返った時に「昔思い切って起業すればよかったなあ」と後悔するかもしれません。最悪、失敗してお金が全部なくなっても、また就職して一からやり直せばいいと考え、起業の企画に着手し始めました。そして、色々な準備をした後、末の娘の誕生月の2013年4月にHSC JAPANという会社が誕生しました。

夫が赤ちゃんのミルク代や生活費、住宅ローンのことを気にすることなく、起業に集中できるように、当面は私が仕事を続けることにしました。しばらくして、起業した会社が安定してきた時に、仕事を辞めて、家族経営の会社で働き始めました。新しい大変な時期が始まりました。いつ会社に出社しても良いですが、逆に仕事が終わるまでは会社に残らないといけません。病気の子供を病院に預けて会社へ行くことはありませんが、病気に罹った子供をの面倒を見ながら仕事をすることもありました。先輩もおらず、会社の営業や運営等はすべて自分たちで調べました。会社が小さくても、自社のブランドを生み出し、日本の法律に違反せずに上手く運営する為に、やるべきことや覚えることが沢山ありました。

現在は運営も軌道に乗り、夫が社長と警備員を兼任していた会社は、正社員3人、アルバイト3人、取締役会を含めて約10人の会社になり、今年は10億円の売上高を目指しています。小さな机1つから始まりましたが、事務所、倉庫、貨物トラック等の設備も充実し、さらに新しい事務所を建てるための準備もしています。

新しい目標

 HSC JAPANは専門商社の境界を越えて、昨年から、HSC AIRという航空券販売事業を開始しました。航空券販売事業を始めた理由は、ベトナム人留学生が安心して航空券を買える信頼のある販売先を目指し、その利益からベトナム人留学生を対象にした奨学金制度をつくるためです。HSC AIR航空券販売の利益は、在日ベトナム人留学生協会への寄付、困窮しているベトナム人の生活の改善、HSC Scholarshipの奨学金として利用する計画です。この奨学金は、日本全国にある日本語学校のベトナム人留学生を対象に年に2回(4月と10月)募集を行い、1回当たり3名に5万円/名を給付する予定です。今後の目標は、毎月に2名以上に3万~5万円を給付することです。日本ではベトナム人のみを対象とした奨学金があるかどうか分かりませんが、最初の奨学金制度になれれば嬉しいです。

活動は始まったばかりですが、ベトナム人留学生や実習生の生活、勉強、アルバイトにおける権利を保護することを目的に、在日ベトナム人に信頼される会社に成長・発展をしていくことを願っています。

メッセージ

私のように夫に連れ立って来日して、家で子供の面倒を見ながら自分のキャリアに悩んでいるお母さんが日本全国にはたくさんいるかと思います。育児などいろいろ大変だと思いますが、少しでも余裕があれば日本語の勉強や、大学などで専門を勉強することに投資してください。最初は少し大変かもしれませんが、体験したことや、頑張って身につけた日本語や知識が、日本にいても帰国してもそのうちきっと役に立つと思います。しっかり準備しておく人にはチャンスが絶対に訪れるはずです。

福岡、2016年9月