マイ・ティ・トゥイ・フォン
MAI THI THUY
PHUONG
Profile & Message
2009年 タイのアジア工科大学院において修士課程修了 当大学院のベトナム校で修士課程の学生管理担当者として働く
2012年3月 家族滞在で子どもと一緒に名古屋に来る
2016年10月 東京の赤門会日本語学校で日本語を勉強し始める
2017年12月 日本の和菓子について勉強し始める
2018年2月 BB会社で管理人事担当として働き始める
私はWalt Whitmanの“Keep your face always toward the sunshine – and shadows will fall behind you”という言葉がとても大好きです。人生は常に課題に直面し、悩みが多いものです。しかし、いつも前向きな態度で、しっかり目標を持って熱心に働いたら、きっと良いチャンスが巡ってきて、いくらかの困難も超えることができると信じています。
夫の留学を機に、生活は一変
26歳の時、タイのアジア工科大学院において環境専攻の修士を取得しました。この学校のアジア工科大学院ベトナムはホーチミンにもあり、私は卒業後にこの大学院で修士課程の学生管理として働いていました。このとき、私にはとても愛する夫と6か月の可愛い子どもがいて、仕事も家庭も安定していました。しかし、この平穏な生活も、どんどんステップアップするはずだった私のキャリアパスも、夫が日本の文部科学省(MEXT)の奨学金をもらい、日本へ留学することを決めた日から一変しました。
夫が日本へ留学した後、私一人で仕事をしながら6か月の娘の世話をすることは大変で、最初の4カ月間は私の両親がホーチミン市に来て世話をしてくれました。両親が帰った後に、私一人で娘の世話をしながら仕事を続けようとも思いましたが、その両立ができず、娘が10カ月のときに両親の家に預けることにしました。両親の家からホーチミン市にある自宅に一人で戻った最初の夜、母からの電話で娘がミルクを全部飲み切ったと聞き、安心した気持ち半分、娘に早く断乳させなければならない寂しさで涙が流れてきました。私は娘の近くにいてあげられなくて申し訳なく思い、心の中で「近くにいてあげられなくてごめんなさい。今は会えないけど、1日も早く家族3人一緒に暮らせるようにママ頑張るね。3人そろって家族だからね。」と自分に言い聞かせていました。この気持ちが大きなきっかけとなり、私は今の仕事を辞めて日本へ行くことに決めました。
名古屋での楽しかった生活
私は何年間も海外で生活した経験もあり、英語もできるので、来日する前までは大丈夫だろうと自信がありました。しかし、日本の空港に着いた瞬間、聞こえてくる日本語の難しさや、日本では英語がほとんど使われていない現状を目の当たりにし、自信もどこか吹き飛んでしまいました。日本での最初の生活ではよく油とみりんを間違えたり、塩と砂糖を間違えて買ってしまったり、そしてトイレの水を流すボタンだと思ったらアラームのボタンだったりと大変なことがたくさんありました。
その大変な状況にある私を見て、夫は私が何とか早く周りの生活に慣れるように名古屋大学の日本語ボランティアクラスに申し込んでくれました。ここで、多くの他の国の人とも出会え、また、料理教室や様々な伝統的なコミュニティの活動にも参加できたので、すぐに新しい環境に慣れていきました。
しかし、日本語の勉強はとても苦戦しました。私が日本語の授業を受けている間、娘を隣のクラスで預かってもらっていたのですが、娘は私と離れることが嫌で、授業中に何回も私が勉強しているクラスにハイハイで来てしまいました。娘はいつも私のそばについて離れず、私は集中して日本語を勉強することができませんでした。また帰宅後も娘の世話で忙しく、娘が眠ってからベトナムで引き継いだプロジェクトの翻訳の仕事もしなければならなかったので、ほとんど日本語の勉強をすることができませんでした。その結果、3か月経っても私の日本語能力はゼロのままでした。
日本語だけでなく、娘を保育園に入れることもなかなか大変でした。日本に来て最初に住んだ場所で娘を保育園に預けようとしましたが、2回とも断られてしまいました。そのため、名古屋大学のベトナム人の先輩たちのアドバイスを聞いて、違う区にある市営住宅地に引っ越すことにしました。そこは名古屋の片隅に位置し、若い人たちよりもお年寄りが多い場所で、子どもを保育園に預けやすい場所でした。しかし、子どもが少なくて入園しやすいと言っても、保育園は働くママが子どもを預ける場所なので、入園してから3か月以内に仕事を見つけないと保育園を辞めなければならないという規則が他の地区とも同じようにありました。
アルバイトを探すために、周りにいる先輩や近所の人たちの力まで借りていましたが、私の日本語能力はまだ低かったので、なかなか仕事を見つけることができませんでした。仕事が見つからない間、何とか家計の助けになればと思い、ベトナムからの資料の翻訳や内職、ベトナム語や英語を日本人に教えるアルバイトをしていました。教師のアルバイトで最初に教えた生徒はベトナム人の奥さんがいる日本人の男性で、私はベトナム語を教えました。私は日本語ができず、彼は英語ができなかったので、お互いにgoogle翻訳を使ってコミュニケーションを取りました。1つの授業は1000円でしたが、最初に自分で稼いだお金だったのでとても嬉しかったです。しかし残念ながら、この仕事は子どもを保育園に入れるために区役所が求める在職証明書をもらえなかったので、アルバイト探しはまだまだ続けないといけませんでした。
期限があと1週間に迫った時、隣の家の人が自転車の組み立ての会社を紹介してくれました。仕事の内容や働く時間を知らないまま働くことに同意して、期限ギリギリのタイミングで証明書を出すことができました。しかし、この仕事はサドルに不良個所がないか確認して梱包するといったひどく単純な仕事だと入社してから初めて知りました。それに加え、平日週5日、毎日10時間も働かないといけません。私は家族滞在で在留しているので週28時間しか働くことができません。ここでずっと働くと28時間を超えることになってしまうので、2週間後、クリーニング屋でのアルバイトが決まったのを機に、この自転車の仕事を辞めました。
クリーニング屋の仕事は毎日、とても熱い機械のそばに立ち、火傷をする危険な仕事もありましたが、私はここで洗濯の仕方や仕事には細部まで注意することを学びました。今思い出したら、ここに住んでいた日々はすごく平穏で楽しかったです。私は一緒に働いている人と仲良くなって、毎日楽しく過ごし、時間のある時には畑で野菜を作ったり、山に登ってイチゴを取ったりしました。ベトナムにいたときより、時間があるので、刺繍をしたり、ベトナム料理を友達にふるまったりしました。この楽しく、充実した生活を思い出すと懐かしく感じます。ベトナムでもできないような本当に充実した日々でした。
東京で将来の目標が見つかる
来日当初は、夫が博士課程を卒業したらホーチミンに戻る予定でした。私はずっと帰国できる日を楽しみにしていて、家や学校、職場まで全部用意していました。しかし、夫は卒業後に東京の会社に就職が決まりました。夫から就職の知らせを聞いた時、夫と嬉しさを分かち合いたい半面、戸惑いの気持ちもたくさんありました。一生この国でキャリアのない主婦の生活をし続けるべきなのか、自分の家の住所のような簡単なことでも自分で書けない日本語レベルで、私はどうなってしまうのかなど、たくさんの不安がありました。しかし、自分が家族3人で一緒に暮らせるために日本に来たのだと思い出して、帰国できない寂しさを抑えながら、夫と一緒に名古屋から東京へ引っ越すことに決めました。
もう名古屋にいた時と違って、これからは長い間日本で生活することをなるので、私は日本語で困ることがないように本格的に日本語の勉強に取り組むことにしました。日本語のボランティアクラスで勉強するだけでは、あまり上達できないと以前から感じており、また、娘も東京の保育園に転園するためには、学校または職場からの在学・在職証明書が必要となります。そのため、毎月生活の負担が少し増えてしまいますが、将来の投資だと思い、私は赤門会日本語学校に通うことにしました。この赤門会日本語学校は授業の評判が良く、家からの距離も9キロ程度で近くでした。
日本語学校へ通っていた1年間は、雪が降っても、暑くても、毎日朝4時に起きて家族のお弁当を作り、子どもを学校へ連れて行き、そして日本語の勉強をしました。学校のクラスメイトは自分より一回りも若い人たちでしたが、先生たちは私の事情を分かってくれていたのでいろいろと気にかけてくれました。私は少しでも早く日本語を覚えられるように、毎日、どこへ行くにも歩きながら日本語の音声を聴いて勉強をしていました。このおかげで、卒業するまでに日本語能力N3以上の力が身に付きました。
日本語学校を卒業したとき、娘は小学校1年生になりました。私の仕事や勉強をする時間がそれほど長くなく、娘が学校から帰ってくる時間には家にいることができたので、娘を学童には預けませんでした。また、娘も周りに溶け込むことがあまり得意ではないので、一緒にいてあげたほうが良いと思いました。娘は学校が終わると昼の1時か2時くらいに帰ってくるので、娘と一緒に過ごせるようなアルバイトを探し、ハローワークで足立区の障害リハビリセンターの食堂で1年間の仕事を見つけました。
私は料理を作ることが好きなので、仕事を始める前はワクワクしていました。しかしワクワクした気持ちも長くは続きませんでした。同じ職場の人たちと考え方が合わず、先輩は私の仕事をいつもチェックし、計量するときに1グラム、2グラム間違えるだけで怒りました。ほかにもほこりが入ったらすべて破棄しなければならず、豆が1つ足りなければ見つかるまで探さないといけませんでした。仕事も大変でしたが、娘が病気にかかったら1週間休まなければならないので、私にとって仕事は大きなストレスでした。この仕事は1年間の契約だったので、9か月経った時、なぜこの仕事をしなければならないのか、私の努力はこれしか報われないのかと自問自答し、仕事を辞めるか、それとももう3か月頑張るかとても悩みました。
ちょうど同じ時期に、隣の家の人が子どもの世話をしてくれる人を探していたので、私はその子の世話をすることにしました。その子は優しい性格で、すぐに私になついてくれました。その子の両親は私が世話をしている姿から信頼してくれ、私にBB会社で清掃の仕事があと紹介してくれました。
BB会社での仕事は天職
私が隣の家の子どもの世話をしていた時、その両親がBB会社で清掃スタッフの仕事を紹介してくれました。株式会社BBとは、東京にある民宿を管理・運営するベトナムの会社です。私はそこのCEOの人と会い、面接を受けました。当初、清掃スタッフの仕事だと聞いていましたが、CEOの人は私に英語と日本語ができるのかと質問し、アルバイトの管理者を探していると話しました。実はCEOの人と会った時、私はBB会社やアプリのことを知りませんでした。家に帰って調べたところ、これはいいチャンスだと思い、リハビリセンターの仕事を辞めて、BB会社へ転職しました。
BB会社での仕事は、給料は高いですが、アルバイト管理者としてアルバイトと同じようにごみの分別や洗濯などの仕事も行っていたので大変でした。この仕事は一つ一つの仕事をしっかり行うこと、細かいことにも気を付けることが大切です。私は昔、クリーニング屋で仕事をしていたので、上司から仕事の指示を受けなくても仕事を進めることができ、周りの人から信頼してもらうまで時間がかかりませんでした。また専業主婦を7年間していたので、家の中のものが壊れたら修理し、洗濯物の汚れの落とし方やたたみ方、お金の節約方法も知っています。他にもタイ語、英語、日本語も少しわかるので、お客様とコミュニケーションを取ることもできます。
私は仕事をしながらお客様の満足につながるサービスとは何かを考え、お客様が帰るときに自分も外で待っていて挨拶をすることなど、いろいろと実践をしました。また、アルバイトの人たちが仕事のやり方がわかりやすいようにビデオも撮りました。
一緒に働いていてるうちに留学生のアルバイトの人たちからも信頼されるようになり、時折、仕事などの悩みを相談されました。その際には、私はその留学生の悩みを会社へ伝え、留学生と会社の両者の間に立ち、双方の意見を伝える橋渡しの役割もしました。このBB会社での仕事は周りの人たちからも信頼され、仕事環境にもストレスがなく良い環境でした。仕事面でも今まで自分が学んできた語学やパソコンのスキルも生かせるので、とても幸せです。
和菓子に恋をした
私は料理を作ることが好きなので、仕事をしながらMPKENのOne Day料理教室に参加し、好きなことを続けることができました。私が子どものころはタイビンに住んでいて、家族はベトナムの伝統的なお菓子を作る仕事をしていました。なので私は小さいころから、お菓子に使う粉や道具、オーブンなどが身近にあり、触れる機会が多くありました。今はもう、家族はお菓子を作る仕事を辞めてしまいましたが、祖父が心を込めて作ったお菓子の香りは今でも私の記憶に強く残っています。私は祖父を思い出すとお菓子を作りたくなり、和菓子の料理教室に参加します。料理教室に参加すると日本の伝統的な和菓子とベトナムの伝統的な和菓子は似ているところがあることあることや小さなお菓子が持つ意味合いも知ることができました。
私の知り合いには、日本の生け花を勉強して、ベトナムで生け花教室を開いている人がいます。1度、彼女と協力して、ベトナムで生け花と日本の和菓子のイベントを行いました。このイベントは好評だったので、私はさらに和菓子に興味を持ちました。私は自分で本を探して読んで、お金を使っていろいろな道具や材料を購入し、季節ごとに和菓子を作りました。今の仕事も好きですが、2、3年後はもっと本格的に日本の和菓子の作り方を勉強したいと思っています。また、日本の和菓子をベトナムへ紹介し、多くの人に知ってもらいたいと思います。そして逆にベトナムの伝統的なお菓子を日本人に紹介し、知ってもらいたいです。私の夢は実現できるかはわかりませんが、夢は自由です。
メッセージ
日本での生活も6年が経ち、クリーニングや食堂、清掃など、いろいろな仕事を体験してやっと自分がやりたいこと、好きなこと、能力に合っている仕事を見つけることができました。
私はWalt Whitmanの“Keep your face always toward the sunshine – and shadows
will fall behind you”という言葉がとても大好きです。人生は常に課題に直面し、悩みが多いものです。しかし、いつも前向きな態度で、しっかり目標を持って熱心に働いたら、きっと良いチャンスが巡ってきて、いくらかの困難も超えることができると信じています。
東京、2018年7月