ファム・  ベト  ・アン

PHAM   VIET   AN

Profile & Message

2012年 ホーチミン市人文社会科学大学地理・観光学部卒業

2013年4月   来日し、メロス言語学院に入学

2014年8月 ゲアン省日本留学のサポート事務所を設立

2015年 日本語学校卒業、日本の広告代理店に入社

2017年   ホーチミン市にある日本語センター”Hajime Nippon”を運営しながら、日本の人材会社へ入社

それぞれの時期に目標を立てて、達成するための方法を考えることが大切です。今の自分に甘えると、将来は損することになります。外国語を勉強することも留学することも起業することも、情熱だけでは成功しません。何をやるにしても合理的な計画を立てることが大切です。そして信頼できるパートナーを見つけることで、はるか先まで突き進むことができるのです。

始まりはいつも大変なことばかり

2012年の大学生最後の夏休み、まだ進路もはっきり決まっていない時に、日本で技能実習生として働いている兄から日本へ留学して勉強することはどうかというアドバイスがもらいました。私はこのとき英語を勉強していて、ベトナム語でも英語でもない新しい言語の国へ留学することは全く考えたことがなかったので、話半分で聞き流していました。しかし、次第に兄からの話に興味を持つようになり、インターネットで日本留学について調べてみました。日本への留学する方法はいろいろあり、日本政府による外国人留学生対象のプログラムもあることも知り、以前よりも日本留学への興味関心が高まってきました。そこで私は、日本への留学を支援する会社や留学センターへ連絡し、留学に必要な書類やわからないことを聞き、日本留学という新しいことにチャレンジしてみようと決めました。


日本留学のための手続を留学センターへ任せると手数料が高いです。私は留学にかける費用を節約するために、日本へ留学して戻って来た人たちによる留学サポートグループに相談しました。このグループは、留学にどんな書類が必要なのか教えてくれ、費用は無料です。しかし、その反面、留学に必要な申請手続きはすべて自分でしなければなりませんでした。結果として、自分ですべて手続きをしたので費用をかけずに申請することができました。その後、ホーチミン市にある有名な日本語センターで日本語を勉強し、2013年4月に来日することになりました。

私の家族は決して経済的にとてもゆとりのある家庭ではなく、一般的な家庭です。私が大学生の時、父と母の仕事が順調ではない時期があり、兄が家計を支えるために技能実習生として日本で働き始めました。私が留学するときも、家族が周りから留学の費用を借りて私を留学させてくれました。私はこの状況を知っているので、来日して最初のときだけは兄を頼りますが、一日も早く自立して生活しなければいけないと思っていました。

日本への留学を決めたときは、その後の進路や将来のことは何一つ決めていませんでした。しかし、たった1つだけ決めていたことがあります。それは、たとえどんなにお金に困ったとしても、アルバイトでお金を稼ぐことに執着せずに、日本語学校の2年間はしっかり日本語を勉強するということです。お金がなければ節約すればいいのです。日本語を習得すれば将来は明るいので、日本語の勉強を最優先しようと考えていました。

東京のど真ん中、古いアパートの一室で、、、

スーツケースひとつを転がして訪れた、東京中心部にある家賃月2万円の古いアパートの一室が、私が初めて住んだ日本の家でした。その部屋はスーツケースひとつ広げると、あとは私がやっと寝られるくらい狭い部屋でした。毎日どこからかわからない異臭が部屋をたちこめていて、とても快適な部屋だとは言えませんでした。そして同じアパートに住む人たちのほとんどが不法滞在者や低所得者ばかりだと知り、このアパートは生活するのに最低限のことだけはできる場所なのだと思いました。

実は入学予定の日本語学校には学生寮がありました。その寮の家賃は3か月で12万円もかかり、とても払える額ではありませんでした。そこで友達に相談したところ、その友達の先輩から学生寮の半額ぐらいの安いアパートを紹介してもらいました。アパートの内装については一切知らず、ドキドキしながらその先輩の案内で空港からアパートへ向かったのですが、そのアパートを見てひどく驚き、唖然としました。どうしてこんなアパート…と思いましたが、安いから仕方ないと思い直し、すぐに部屋を掃除しました。

  

掃除を終え、夕食にベトナムから持ってきたインスタントラーメンを食べていると涙があふれてきました。来日前、日本での生活は楽ではないぞと覚悟して来ましたが、これほど大変だとは思っていませんでした。けれどもこれからは絶対に泣かないと心に決め、その夜は、翌日の日本語学校の入学式後にクラス分け試験があるので、日本語の復習に取りかかりました。

学校の学生寮に住めば、先輩から日本の生活のサポートがあります。しかし、私は学生寮に住んでいなかったので先輩たちからのサポートを受けることができず、自分で電車の乗り方や在留カードの手続き方法などを調べなければなりませんでした。どうしたらわからないときは英語やまだ覚えたての簡単な日本語を使って、頑張って周りの人に聞きました。「はじまりはいつも大変だけども、しばらく頑張れば物事は軌道に乗っていく」と考えて落ち込まずに前向きに頑張っていきました。

日本での生活も日本語学校での勉強も落ち着いた1か月後、私はアルバイトを探し始めました。この時、ベトナム人コミュニティの “Tokyo Baito” というFacebookグループを利用しました。私が利用した3年前は、この “Tokyo Baito”は作られたばかりで、良いアルバイト情報がたくさんあり、私もそこからアルバイトを見つけました。

初めてしたアルバイトはある会社の問い合わせ窓口でした。その仕事はあまり忙しくはありませんでしたが、一秒の遅刻も許されない会社だったので、学校が終わってからすぐに電車に乗ってアルバイト先へ行きました。このアルバイトは電話対応の仕事だったので、仕事は忙しくありません。そしてこの仕事は、時間があるときは日本語の勉強をすることができたので、私は日本語能力がほかの人よりも格段に速いスピードで伸びていきました。

その会社で一定期間働いた後、あるとき先輩から野菜を加工する工場でのアルバイトを紹介してもらいました。そこで働き始めると、従業員の中で最も日本語の理解力が高かったのが私だったようで、基本の仕事以外にも外国人労働者への通訳の仕事も任されるようになりました。

私は進学するつもりはなく、2年間で日本語を身につけようと考えていました。そのため、6か月ごとにレストランのホールやコンビニ、通訳などアルバイトを変え、いろいろな仕事を経験しながら、日本語も身につけて行きました。

起業にチャレンジ

真面目にアルバイトをしていた私を見た先輩が、留学生へアルバイトを紹介する仕事をしないかと誘ってくれました。そのアルバイトでは、留学生のサポートとして100名以上の後輩たちにアルバイトの紹介をしました。日本への留学する人たちの中には、日本について何も知らずに来日した人や、自分の専門がはっきりわからず、就職もできないで学校を辞めてしまう人、不法滞在になってしまう人もいます。私はこれから日本へ留学する後輩たちのために何かできないか考えるようになりました。

私には留学申請の書類を自分で作った経験があり、また、来日した留学生へアルバイトを紹介した経験もあるので、ベトナムの故郷、ゲアン省に日本へ留学する学生たちのための留学サポート事務所を開設しようと考えました。事務所の開設のため、姉に名義だけ取ってもらい、私は日本でのアルバイトをしながら、姉の協力の下、日本留学サポート事務所の運営も行っていました。日本語学校での勉強とアルバイト、そして事務所の運営で忙しい毎日でした。


卒業まであと半年となった時、先生たちから卒業後の進路はどうするのかと聞かれましたが、私はまだ何も決めていませんでした。進学はしないと考えていたので、残る選択肢は、就職するか帰国するかの2択でした。そして2014年12月、卒業間近になって私は就職することに決めました。就職を決めた理由としては、日本語がまだ上手ではなく、働いた経験も貯金もないので、このまま帰国したら何もできないままで中途半端になると思ったからです。当時、留学生向けの就職サポートのセンターなどは今よりもっと少ないので、就職活動をしていましたが、結局、就職活動は上手くいきませんでした。

この時期、私はある広告代理店を通じて銀行で通訳のアルバイトをしていました。そこでの働きぶりを見た銀行の担当者の方から卒業後も担当してほしいというお話がありました。しかし、銀行としては、仕事量が十分あるわけではないので正社員として雇用することは難しいと言われてしまいました。けれども、広告代理店の方で正社員として雇用し、銀行で働くことはどうかと掛け合ってくれ、広告代理店の担当者が社長との面接を設定してくれました。社長との面接の前に、その担当者が私に、今の通訳の仕事だけでは仕事量が少ないので、他にできる仕事を考えてプレゼンテーションしてほしいというお話がありました。私はこれが最後のチャンスだと思い、自分の経験から何ができるのか考えて、「日本への留学生を対象とした留学前と留学後のサポートを一貫して行うサービス」という新しいサービスをプレゼンテーションしました。プレゼンテーション後、社長から良い評価をいただき、内定をいただくことができました。幸いにも、銀行でのアルバイトでみなさんから信頼されていたこと、そして最後のチャンスだと思って頑張って準備したことが良かったのだと思います。

日本語学校を卒業し、その広告代理店に入社後も私はベトナムにある留学サポート事務所の運営を続けていました。この事務所はただ単純に自分が起業した会社という意味合いだけではなく、この当時、日本への留学事情はあまり良くなかったので、故郷の人たちをサポートしたい、これから留学に来る人たちの役に立ちたいと思って創ったものでもあるので、自分の貯金を切り崩してでも続けたいと考えていました。しかし、日本での仕事が忙しくなってきたため、事務所の運営との両立が難しくなり、一人ではカバーできなくなってきました。また、日本とベトナムとで距離がかなり離れているので、姉と連携してすぐに状況を把握することができず、トラブルも生じてきました。このまま事務所を継続しても状況は悪くなっていく一方だと思い、残念でしたが、事務所は閉じることにしました。最初は何とか頑張ってきましたが、物事には限界がありました。

 

結果として、この時は残念なものとなってしまいましたが、いずれまた起業する機会があれば、今回の経験はとても良い経験になると前向きに考えました。そして、私が今回の経験で分かったことが3つあります。それは、起業するためには情熱だけでは成功しないこと、自分と同じ気持ちを持った信頼できるパートナーが必要であること、そして経営管理の知識がないといけないことの3つです。私はこの経験を生かして再び起業したいと思ったので、日本での仕事を続けました。

新しいパートナー

日本での仕事を続けながら、英語をもう一度勉強し直すなど、入社1年目はとにかく頑張りました。この時期、会社で扱っているベトナム市場が拡大していたこともあり、私の仕事の業績が伸び、仕事の面で高い評価をいただいていました。しかし、私には起業する夢がずっとありました。そのため、働きながら仕事のパートナーはいないか探していました。

2017年5月、友人を通じてベトナムのホーチミン市にある小さな日本語教室を運営している女性と出会いました。その人は日本語教育をしており、私は日本留学に必要な手続きや留学の経験があります。私たちはお互いの経験や強みを生かして “Hajime Nippon” という日日本語センターをホーチミン市に設立しました。設立後、私は勤めていた広告代理店を退職し、転職するまでの3か月間は日本語センターの運営に力を注ぎました。


設立してしばらくして、私たちの日本語センターが初めて取引させていただいた相手は銀行でした。そして、その相手先は以前、私が勤めていた銀行でした。その銀行での働く姿勢や築き上げた人脈が功を奏し、初めての契約を結ぶことができました。この契約を機に、私たちの日本語センターは軌道に乗り始め、様々な人脈を生かして、他の会社から輸出入のコンサルティング契約をいただいたり、ベトナムにある日系企業のから従業員向けの日本語教育の委託契約をいただいたりと順調に進み始めました。

日本語センターが上手く軌道に乗ってきた時期に、私は日本のある人材会社に入社しました。その会社で私は、日本での人脈をさらに広げたいと考えていました。人材会社で働きながら、日本語センターの仕事も同時に行い、そして人材会社と日本語センターとの間にも良い関係を築くことができました。

日本語センター設立当初は、時々大変なことがありましたが、経営管理についての本を読んで勉強したり、日本語センターのスタッフたちと定期的に会議をしたりと、これまでの経験を生かして取り組んできたので、今は順調に事業が進んでいます。今では、日本での仕事とベトナムでの日本語センターの仕事とで毎日がとても忙しいですが、自分のやりたいことができているので、とても充実しています。

メッセージ

それぞれの時期に目標を立てて、達成するための方法を考えることが大切です。今の自分に甘えると、将来は損することになります。外国語を勉強することも留学することも起業することも、情熱だけでは成功しません。何をやるにしても合理的な計画を立てることが大切です。そして信頼できるパートナーを見つけることで、はるか先まで突き進むことができるのです。

日本、2018年9月