ファム コック トアン

PHAM QUOC THOAN

Profile & Message

2007      就労ビザで来日し、大阪のプレス機械の会社で設計エンジニアとして勤務

2008年          浜松の機械塗装会社へ転職し、機械オペレーターとして勤務

2009年          名古屋国際日本語学校へ入学し、日本語を一から勉強し直す

2011年          名城大学の経営学部へ入学

2012年          ベトナム進出を支援しているコンサルティング会社でパートタイム勤務

2013年          結婚し、翌年第1子誕生

2015年          名城大学を卒業し、パートタイムから正社員で勤務し始める

2017年          第2子誕生

2019年          取締役に就任

自分自身を振り返ると、日本での仕事を退職して日本語学校へ入学することが大きなターニングポイントになったと思います。勉強するのに遅すぎることはありません。海外にいるときには何よりもその国の言葉を覚えることが大切です。言葉がわかれば必要な情報を自分で調べることができるので、その国の文化もよりわかるようになります。そして、同僚や近所の人たち、子どもの先生やお友達とも話したり交流したりできるので、より一層暮らしが楽しくなります。

方向性に戸惑う日々

2007年にダナンにある自動車機械技術短期大学卒業後、大阪のプレス機械の会社から内定をもらい、就労ビザで来日しました。その時は大学を卒業したばかりで、専門的な技術の知識や経験もなく、日本に行けることがただ嬉しくて、雇用契約の内容もよく読まず、また、業務内容も会社の環境や職場の雰囲気も聞いたり調べたりせずに日本へ来てしまいました。

当時ベトナムにいたときは、日本語がわからなくても英語がわかれば大丈夫だろうと安易に考えていましたが、来日して入社したら、日本がわからないということでとても苦労しました。ベトナムでは6か月間、日本語の勉強をしました。しかし、私の日本語能力では会社の人たちとコミュニケーションが取れず、何を言っているのかまったくわかりませんでした。ある日、お互いにうまくコミュニケーションが取れなかったせいで、同僚から殴られてしまいました。ちょうどこの時、自分の仕事内容も満足いかずにもやもやしていた時だったので、殴られたことをきっかけに会社を辞めることにしました。


自分一人で日本語もよくわからず、周りには友達や相談できる人もいなかったので、ベトナムに戻ろうかとも考えていました。しかしベトナムにいる父と母のことを思い出すと、期待して私を日本へ送り出してくれたので「ベトナムへ戻る」という選択肢はなくなり、ここで諦めずにもう少し頑張ってみようと思いました。


その当時、派遣会社や人材紹介会社は今のように多くはありませんでした。私の日本語能力も十分ではなく、貯金を切り崩して生活をしていました。就職活動はとても辛く、大変でした。同じ時期に、ベトナムで日本語を一緒に勉強していた友人も転職活動をしていたので、私たち2人でなるべくお金を節約しようと、友人の家に泊めてもらい、会う人会う人に仕事を紹介してほしいと伝えていました。また、いろいろな派遣会社を調べて、電話をかけました。私の日本語は未熟ですが、一生懸命電話話をしました。面接のときには、節約のために、公園に前泊したこともあります。しかし、なかなか仕事は見つからず、貯金は減っていくばかりでした。そのような日々が続いた3か月後、ついに浜松にある機械塗装の会社から内定をもらうことができました。


この浜松の塗装会社の仕事は夜勤があるので給料は良いのですが、毎日の仕事は単調で、働いている人たちもブラジル人やペルー人などが多く、日本語をあまり使わない職場でした。この仕事が決まった時は貯金がなく、転職活動で疲れ切っていたので、この新しい仕事の内容や職場の環境などについて、よくよく確かめませんでした。ある日、ふと自分の将来を考えたとき、この仕事をずっと続けていては先が見えないと思い、またベトナムに戻るか、それとも日本で頑張り続けるか悩み始めました。


ちょうど同じ時期に、yahooのチャットアプリで今の奥さんとなる女性と出会いました。彼女は当時、大分県にあるAPU大学(立命館アジア太平洋大学)の4年生で、日本語も英語も上手でした。私の周りには日本語能力が未熟な人が多かったので、初めて日本語が上手な人に出会い、日本語能力が高い人にはこれほど多くのチャンスがあるのかと驚きました。日本語レベルの差で将来の差が決まるのだと実感しました。


日本に来てからの2年間を振り返って、ベトナムで機械系の短期大学を卒業しましたが、コツコツ行うエンジニアの仕事よりも、人とコミュニケーションを取るような営業などの仕事の方が好きだと気が付きました。なので、思い切って日本語の勉強からやり直すことに決めました。

勉強することに遅すぎることはない

私は日本語を基礎から勉強したことがなかったので、日本語学校で基礎から日本語を勉強して、その後、大学へ進学して新しい専門分野を学ぼうと思っていました。しかし、日本語学校で勉強し直そうと思ったものの、日本語学校と大学に通うと6年間もかかります。また、私は当時25歳で、若くもありませんでした。進学のことを父と母に相談したところ、父が強く応援してくれました。父は私に「勉強したいなら進学した方がいい、お金がないなら援助する」と言ってくれ、この父の言葉が心強く、私は日本語学校へ入学する気持ちが固まりました。25歳、ゼロからのスタートでした。


日本語学校で勉強するという気持ちが固まったものの、入学できる学校を探すのも一苦労でした。いろいろな日本語学校へ連絡しましたが、私のように就労ビザで働いていた人が仕事を辞めて、留学生として勉強し直す人はほとんどいなかったので、なかなか良い返事をもらえませんでした。何回電話をかけたか覚えていないぐらい連絡しました。そしてついに、名古屋国際日本語学校から良い返事をいただくことができ、留学生として勉強できることになりました。日本に来て2年後、やっと日本語の基礎の「あいうえお」から勉強できることになりました。


仕事をしていた時に蓄えた貯金は、学費の1年分ぐらいしかなかったので、2年目以降の学費や生活費はアルバイトをして稼ぐしかありませんでした。同じ学校の生徒たちはみんな先輩や知り合いからアルバイトを紹介されていました。しかし、私には先輩も知り合いもおらず、日本語も上手ではなかったので、アルバイト先を見つけることも苦労しました。毎日、駅やコンビニにおいてある無料のアルバイト情報冊子を見て電話をかけ続けました。電話しても断られること3か月。辛い日々でしたが、やっと豆腐工場でアルバイトが決まりました。


この豆腐工場でのアルバイトは大変でした。いつも室温が40度ととても暑かったです。しかし、毎日、日本人と話すことができたので、日本語少しずつ上達していきました。少し日本語が上達した時に、新しくイタリアンレストランの食器洗いのアルバイトも始めました。アルバイトのおかげで生活費も心配はなくなりました。アルバイト以外の時間はずっと日本語の勉強をしていました。日本語の勉強は、理解や習得が早い人と時間がかかる人がいます。私はどちらかというと時間がかかる方なので、人の倍勉強を頑張らなければならず、集中して日本語の勉強に取り組みました。そしてずっと頑張っていた勉強の努力が実り、名城大学と四日市大学に合格することができました。自分のやりたいことや性格を考えて、名城大学の経営学部に入学することにしました。

27歳で大学入学と将来の進路選択

大学2年生の時、アルバイトのし過ぎなのか、それとも単位を取るための勉強を頑張りすぎたのか、家で倒れてしまいました。幸いにも、寮の友人が救急車を呼んでくれたので助かったのですが、気が付いたときには自分に酸素マスクが当てられ、チューブにつながれていました。原因は肝のう胞の破裂で、3日間目を覚ましませんでした。この間、医者は学校通じて両親へ私の病状を伝えてくれていました。その時の様子は妻(当時はまだ結婚していなかった)が写真に撮っていて、その写真を見るたびに大変だった時期を思い出し、決して忘れられない思い出です。私には気が付いてくれた人がいて、すぐに病院へ運ばれたので本当に幸運でした。最近の留学生や実習生が過労で亡くなるニュースを見るたびに、自分自身のことを思い出し、外国の地で一人暮らしするときには、あまり無理せずに健康には気をつけないといけないとしみじみ感じています。


妻は大学院卒業後、東京の会社に就職しました。毎週末、私のいる浜松まで来て一緒に過ごしていました。そして私が大学3年生の時の2013年に妻と結婚しました。結婚後、妻は仕事を辞め、浜松に引っ越し一緒に暮らし始めました。2014年4月には長男が生まれて3人での生活になりましたが、経済的には豊かではありませんでした。


大学3年生の時に頑張って必要単位をすべて取ったので、4年生の時には授業がありませんでした。なので、先輩から紹介されたベトナム進出のコンサルティング会社で週5日、アルバイトをしていました。このアルバイトは日本企業とかかわるのでたくさん日本語を使います。また、大学で学んでいる法律や経営管理などの知識も必要となるので、とても面白かったです。


日本の大学4年生の場合、就職活動を行います。私も学生なので卒業後の進路を考えないといけない時期でした。いろいろな企業の給料や仕事内容などの情報を集めました。いろいろな企業を調べていくうちに、どうも自分には一般的な日本企業の就職活動と合っていないように感じました。理由は3つあります。1つ目に、私は卒業の時には30歳になります。新卒の年齢よりもはるかに上なので、新卒という枠では難しいと思いました。2つ目は、大手企業では新卒の給料は最初、月給20万円でした。私は結婚していて子どももいたので、月給20万円では生活ができません。そして3つ目に、多くの一般的な会社は安定していますが、スキルアップ・キャリアアップに時間がある程度かかり、すぐ活躍できるような場はあまり多くないと思いました。

一方、私がアルバイトで働いている会社をみると、会社の規模は小さかったのですが、活躍できる場やキャリアアップできるチャンスはたくさんありました。思い切って今のアルバイトの企業で正社員として入社することにしました。この会社はアルバイトの時から働いていたので、仕事のやり方もわかっていますし、自分自身、この仕事が好きでした。仕事上で大変なこと、困難な壁はもちろん避けられませんが、私は日本でさまざまな経験をしてきたので、どんなことがあっても乗り越えることができる自信がありました。仕事も順調で、会社も発展していき、現在はグループ会社になるまで成長しました。私は現在、コンサルティング部を担当しています。

メッセージ

今、自分自身を振り返ると、日本での仕事を退職して日本語学校へ入学することが大きなターニングポイントになったと思います。12年間日本に住んでいて、この日本での生活に慣れて活躍するためには技術力だけあっても、日本語ができないとダメだと実感しました。


私はもともと語学の習得に時間がかかる方ですが、良い仕事に就くためにとてもたくさん勉強したからこそ今の仕事ができるのです。後輩のみなさんたちもやればできます。勉強するのに遅すぎることはありません。海外にいるときには何よりもその国の言葉を覚えることが大切です。言葉がわかれば必要な情報を自分で調べることができ、その国の文化もよりわかるようになります。そして、同僚や近所の人たち、子どもの先生やお友達とも話したり交流したりできるので、より一層暮らしが楽しくなります。


コミュニティの中では、日本語ができないから仕事ができないのだという声もあるかもしれませんが、文句や不満を言う前に、自分には何ができるのか考えて行動しましょう。自分を変える道を探して、前向きに頑張ってください。

浜松、2019年3