ホー トゥ

Profile & Message

2009          中学校2年生の時に来日

2011          高校に入学し、神奈川県の若者交流事業「オルタボイス」の副会長になる

2014         「世界の友達」の設立(外国の文化を日本人へ紹介し、文化をつなぐ学生団体)

2018          日本の小売、サービスなどを手がける大手企業から内定をもらう

2019          技能実習生の送り出し機関へ転職し、営業部長として勤務中          

海外で生活していると、その国ごとに特有の考え方や働き方はあり、時には課題として立ちはだかることがあります。その考え方はおかしい、どうしてそんな働き方をするのかと文句を言ったり、自分のことをわかってもらえないと周りのせいにしたりすることは良くないです。考え方や働き方などを変えることはできないのです。ならば、新しいことに飛び込んで、「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように自分自身を変えて、その国の考え方や働き方、文化、人を理解するように心がけることが大切なのです。そして、相手にも自分たちの文化や考え方などを理解してもらえるような機会を作ることができれば、お互いにとってさらに良くなっていくと思います

自分の殻を破る決心がついた

母が日本の企業へ転職し、日本での生活を始めたことをきっかけに、私も中学校2年生の時に来日しました。一足先に母は日本へ行き、その間、私は父とともにベトナムで暮らしていました。その頃は周りにたくさんの友達がいて、学校の勉強も楽しく成績も優秀で、とても楽しい毎日でした。私の日本行きが決まった時、母に久しぶりに会えることの嬉しさやワクワクした気持ちもありましたが、その一方で、初めての日本での生活への不安、日本のことも日本語も何一つわからず大丈夫だろうかといった心配も大きくありました。


中学校の2年生の夏に私は日本の地に足を踏み入れました。まだこのときはひらがなとカタカナを少しだけしか覚えておらず、日本語能力はゼロと等しかったのですが、日本人と同じ中学校に入学することになりました。新しい土地で新しい生活がスタートしたのです。


振り返ってみると、中学校時代は私の中ではとても辛く大変な時期でした。まだ日本語がほとんどわからなかったので、誰にも声をかけることができませんでした。声をかけてくれる人もいましたが怖くて逃げていました。時には、頑張って日本語で話してみようとしたのですが、わからない言葉も多く、私の言葉の数も少なかったので、会話が続かずにだんだん気まずい雰囲気になっていきました。徐々に話しかけてくれる人も私と話そうとしてくれる人はいなくなりました。目の前にはとてつもなく高い「日本語」の壁が立ちはだかっていました。


日本語がわからず、誰とも話すことができない私は、学校へ行き、朝の1限目から6限目までずっと自分の席に座って、黒板に書いてある文字をひたすらノートに書き写す毎日にでした。本当は話したいけど何を言っているのかわからない。わからないから話せないのです。まわりからも私は日本語がまだ上手ではないし、誰とも話したくない子なのだと思われていたので、私に話しかけてくれる人はほとんどいませんでした。それに加え、学校の不良の生徒にも目をつけられ、いじめに遭うこともありました。独りぼっちで辛く大変な日々でした。

 

ベトナムにいたときは友達も多く、勉強も好きで、楽しい毎日でした。しかし、日本での生活では、誰も助けてくれる人はおらず、辛い日々でした。だんだんと心細さや孤独感が募っていき、ベトナムに今すぐにでも帰りたいと思うことが何度もありました。しかし、よく考えてみると、これからもずっと日本で暮らしていかなくてはいけないのです。今の状況を良くさせるためには、日本語をもっと勉強して早く上達させ、言葉の壁を乗り越えるしかありません。ベトナムに逃げ帰ることはできない、だったら頑張るしかないと気が付きました。


母も私の頑張りたい気持ちを応援してくれました。最初、日本語の本を読んで勉強していたのですが、それだけでは足りないと言われました。母のアドバイスは、日本のテレビをたくさん見ることでした。日本語の言葉や表現をインプットすることになるから日本語上達の近道だと教えてくれました。このテレビを見て学ぶ方法は学校で勉強するよりも私には合っていました。毎日、学校が終わったら家で宿題をし、それから1時間テレビを見ることに決めていました。最初は何を言っているのかわからないので、画面の字幕を見て、どんなことを言っているのかただ見て聞き流すだけでした。ところが半年が経ち、日本語が少しずつ分かるようになってきたのです。まだ日本語に自信がついたわけではありませんでしたが、半年前までの日本語がわからなくて周りから孤立し、自分自身の殻に閉じこもっている状態から、一歩勇気を出して同じ中学校の外国人の生徒たちに話しかけることができるようになるまで進歩したのです。   

自信を持てるようになる

中学校3年生になると高校進学のための高校受験をしなければなりません。日本の義務教育は中学校までなので、高校に入学するためには受験勉強しなければならないのです。周りの友達は外国人が多く、高校へは進学せずに就職する人が多かったのですが、私は母の影響から日本で生活するためには高校、大学へ進学する必要があると感じていました。その時、私の周りには日本人の友達はおらず、外国人の友達のほとんどが就職をするので、孤立無援で高校受験に立ち向かわないといけませんでした。私が高校へ進学する理由は他にもありました。この当時、私はいじめられていたり、日本人の同級生から差別的な目で見られたりしていました。なので、高校受験で同級生たちに負けたくない、見返したいという気持ちがあったのです。

同級生たちは高校受験のために学習塾へ行きますが、高い塾代で家計に負担をかけるわけにもいかないので、独学で受験勉強を始めました。毎日、放課後は学校に残り16時から19時まで一人で勉強していました。私は何が何でも高校へ進学したいと思っていたので、わからないところはすぐに先生へ質問し、受験勉強に励んでいました。この頃、日本語は少し上達しましたが、まだまだ上手ではありませんでした。

 

受験勉強の努力の甲斐があり、晴れて第一志望の高校に合格しました。中学校の時は自分自身のことで精一杯でしたが、受験勉強を通して日本語もかなり上達したので、高校に入学してからは積極的に様々な活動に参加し、友達もたくさんできました。

私が行っていた活動の一つに神奈川県の若者交流事業の「オルタボイス」というグループがあります。これは神奈川県のNPO法人が主催となり、外国にルーツがある生徒たちが学校の枠を超えてつながり、支え合う「輪」をつくろうとしているグループです。私はこのオルタボイスの副会長になり、他の学校の交流会に参加したり、教員対象の「外国人の中学生、高校生がどうやったら学校に慣れることができるのか」というセミナーで意見を述べたりもしました。この団体での活動を通して、自分はやればできるのだ、もっと自信を持ってもいいのだと前向きに考えられるようになり、かつてベトナムにいたときの友達が多く、学校の成績も優秀で、楽しく充実していた時の感覚が少しずつ蘇ってきました。

私は将来、チャンスがあればもっと日本人に在日外国人の文化や人を知ってもらえるような機会を創りたいと思いました。このような機会があれば、お互いの理解は深まり、外国人たちは生活しやすくなるはずです。漠然とではありますが、いつか日本人と外国人がお互いに手を取り、優しく暮らしやすい日本をつくりたいと思っていました。

大学時代、はじめて日本人と外国人との懸け橋になる

高校3年生になり、今度は大学受験が目の前に立ちはだかりました。私の志望校は横浜国立大学と桜美林大学で、第一希望の横浜国立大学には落ちてしまいました。一番行きたかった大学に落ちてしまったショックでひどく落ち込んでいる私に母がある言葉をかけてくれました。「自分がどうなるかなんて自分次第。整った環境が一番大切ではない。自分がやりたいことができて、楽しめる環境が一番あなたに合った場所です。」この母からの言葉のおかげで、落ち込んでいた私は未練がなくなり、桜美林大学で頑張ろうと思えました。


桜美林大学は外国人留学生数が多いのですが、外国人留学生が主体となったサークルや団体はほとんどありませんでした。だいたいはすでに活動しているサークルに加入するだけででした。入学してしばらくすると3人の日本人の友達ができました。彼らは外国の生活に興味がある人たちだったので、外国の文化などを伝えるような活動をしたいねと話をしていました。作りたいなら作ろうという話になり、私と友達3人で外国の文化や生活などを日本人学生たちへ伝える団体「世界の友達」を設立しました。


最初大変だったことは、私たちは日本人学生たちへ外国の文化を伝えたいのですが、伝える場がなかったことです。どうやって私たちの「世界の友達」を知ってもらったらいいのか、このころは宣伝の仕方もPR方法もわかる人はだれ一人いませんでした。わからないまま手探り状態ではありましたが、それぞれの役割を分担してそれぞれが頑張って活動していました。私の役割は企画・内容構成の担当でした。他の3人はWordやPower Pointでポスターを作ったり、ポスター掲載の許可を取ったり、会場を借りたりと一人一人、とても大変で大切な仕事を行っていました。


最初のプレゼンテーションの時は、準備万端、気合十分で臨みましたが、5人しか見に来てくれませんでした。がっかりしたものの、どんなことでも最初が大変なのです。大変なこともたくさんありましたが、継続して活動していくことが大切です。みんなはどんな内容に興味があるのか、いつの時間帯なら参加しやすいのか、いつも試行錯誤していました。例えば、文化も私の母国ベトナムだけでなく、他の文化を紹介したり、お昼を食べながら気軽に参加できるように昼休みの時間帯に開催してみたりと、テーマ・内容、時間帯を工夫していきながら、みんなの交流の場として活動を1年間、続けました。


活動から1年が経ち、私は2年生になりました。「世界の友達」の形もできてきたので、先生たちも活動を認めてくれるようになりました。4月には新入生オリエンテーションが開かれ、サークルや団体の活動紹介の場があります。そこで私たちはそのオリエンテーションの場で「世界の友達」を紹介できないか先生と交渉したところ、5分間の時間をもらうことができました。このオリエンテーションが私たちの活動を広げるきっかけとなり、オリエンテーション後には新しく10人の日本人学生がコアメンバーとして一緒に活動に参加したいと手を挙げてくれました。


最初はわずか4人しかいなかった「世界の友達」が、今では人数が増え、活動の輪がだんだん広がってきました。外国人の学生が日本人に文化を伝えるだけでなく、日本人学生が日本の文化を外国人留学生へ伝える。様々な活動を行っていくうちに、私が卒業時にはついに100名の学生たちがメンバーとなり、文化の紹介も東南アジアからヨーロッパ、アジアまで広がっていきました。「世界の友達」設立当初の目的である「日本人と外国人との交流の場をつくる」を達成することができました。大学生活の中でこの「世界の友達」の活動は、一番夢中になって頑張った活動です。

自分が本当にやりたい道へ進む

大学3年生になり、ゼミと就活で忙しくなってきたので「世界の友達」を引退しました。活動自体はあまり参加できませんでしたが、活動を見守っていました。この活動を通して、自分への自信や他の人の意見を聞き入れる力、仕事の分担など、多くのことを学ぶことができました。この力は就活のグループディスカッションでも上手く周りの人たちの意見を引き出し、まとめるといった部分で役に立ちました。また、エントリーシートでも自己アピールの部分で活動のことを書くこともできました。

  

私の専攻は金融だったので、最初は証券会社やインターネットバンクなどの金融関係の仕事を探して、エントリーしていました。高校から大学まで日本で日本人と同じ学校へ通い勉強していたので、就活も「外国人留学生」枠ではありません。マイナビやリクナビなどの就活情報サイトから企業にエントリーし、説明会参加、書類選考、面接といった日本人と同じ選考ステップでした。私は70社の企業へエントリーし、その中の10社ぐらいの面接を受けました。


就職活動が4か月経つ頃には、ある地方の銀行から内定をいただくことができました。内定をいただいて嬉しい、ほっとしたと思う反面、何だかもやもやした気持ちもありました。自分の専攻である金融の知識を生かして働きたいけれども、「ベトナム」である自分のアイデンティティを生かせる仕事もしたい。この気持ちがずっと残っていたので、ベトナム人であることを生かせる仕事を探すために就職活動は続けました。


大学4年生の7月、ベトナムに一時帰国する前にある大手小売り・サービス業界の会社の求人を目にし、ベトナムにも支店があることを知りました。この会社に入社したら、ベトナム人である私はベトナム担当になり、ベトナムに関係する仕事ができるだろうと考えていました。そして内定もいただきました。このとき私の手元には、地方の銀行からの内定とこの新しい会社からの内定の2つがありました。とても悩みましたが、私は日本とベトナムの架け橋になりたかったので、大手小売り、サービスの会社へ入社することに決めました。


 晴れて4月に入社し、最初の勤務先は新潟支店でした。まだ入社してまだ間もないころでしたが、何だか自分と会社の方向性が異なるのではと思い始めました。私は、自分がベトナム人なので、ベトナム支店に関係している仕事を任せるために選ばれたと思っていたのですが、実際にはそのような仕事はありませんでした。人事担当者に聞いてみたところ、日本人の社員と同じように、数年は普通の社員としていろいろな経験を積み、チャンスがあればリーダーとしてベトナムに行くことができるかもしれないと言われました。応募時から「ベトナム」の担当者としてベトナムに関係のある仕事をしたかったので、次第に仕事に対するモチベーションは下がっていきました。ベトナムに関する仕事がしたいと思っていたある日、技能実習生の送り出し機関から声をかけてもらいました。私は8カ月間しか働いていませんでしたが、この仕事は日本とベトナムとのつながりがあり、営業部長のポストが空いていると言われたので、チャンスだと思い、思い切って転職しました。そして送り出し機関の駐在事務所の営業部長として働き始めたのです。


みなさんの中には、技能実習生の制度や仕事内容に偏見を持っている人もいると思います。日本の企業側の中には、実際には人手が足らず、採用にも困っているにも関わらず、「雇ってやっている」という偉そうな態度をとるところもあります。その一方で、ベトナムにはお金を払ってでも日本へ行って技能実習生として働きたいという気持ちの人も多くいます。日本側とベトナム側との間に大きなギャップがあり、お互いがwin-winの関係ではないのです。

また、日本の企業とベトナム側の担当者と営業担当者が受け入れ先の企業に説明していないので、入社後にトラブルが起きやすい現状があります。事前に営業担当がしっかり説明していれば防げると思いますが、今日、営業担当者の多くは技能実習生経験者で、日本のことをよく理解せずに売り込むだけ売り込んでいるので、信頼関係も十分構築できていないと思われます。私は、日本側とベトナム側の信頼関係をもっと強くしたいと思っています。そのためにはまず、日本とベトナムの双方のことを知って、理解することが大切です。私はベトナムで生まれ育ち、中学校2年生から日本で暮らしているので、日本とベトナムの双方のことを理解しているつもりです。まだまだ何ができるか試行錯誤の日々ですが、少しでも今の環境が改善され、お互いにwin-winの関係を築くことができるように努力しています。

メッセージ

日本に来てから10年が経ちました。来日当初の中学校2年生の時は自分の殻に閉じこもっていましたが、徐々に日本語能力も上達し、周りの人たちとのかかわりも持てるようになり、今では日本とベトナムの架け橋になるような仕事を行うまでになりました。時には課題に直面し、途中で何度も諦めたいと思うときがありましたが、母と兄がいつもそばで励ましてくれたので、諦めずに頑張ることができ、今の私があるのです。


私が好きな言葉があります。それは、「過去と他人は変えることができないけれども、未来と自分は変えることができる」という言葉です。その国ごとに特有の考え方や働き方はあり、時には課題として立ちはだかることがあります。その考え方はおかしい、どうしてそんな働き方をするのかと文句を言ったり、自分のことをわかってもらえないと周りのせいにしたりすることは良くないことです。考え方や働き方などを変えることはできないのです。ならば、新しいことに飛び込んで、「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように自分自身を変えて、その国の考え方や働き方、文化、人を理解するように心がけることが大切なのです。そして、相手にも自分たちの文化や考え方などを理解してもらえるような機会を作ることができれば、お互いにとってさらに良くなっていくと思います。


東京、20197