ドー フー ソン

Profile & Message

2003          貿易大学を卒業する

2004~2006年     JICAの石炭産業の人材育成プロジェクトに参加し、通訳コーディネートとして長崎で働く

2006~2013年      九州で2番目に大きな小売業界の会社で働く

2013~現在       HSC JAPANという会社を起業し、今年から福岡にあるベトナム人協会の会長に就任する

「日本とベトナムとの懸け橋になる」という思いは、人それぞれ違うと思いますが、「架け橋になりたい」という上辺の言葉だけでなく、どのように行動するのかが何よりも大切だと思っています。私たちは日本に住んでいるので、進んだ知識や技術を取り入れてベトナムに還元し、そしていつかベトナムの価値「ベトナムブランド」が世界に認められるようになってほしいと願っています。世界に「ベトナムブランド」を届けたいです。

日本との縁

1998年に高校を卒業した当時、私は貿易大学を受験したいと考えていました。この当時、貿易大学はとても人気があったので倍率は高く、合格するには高得点を取らなければならない学校でした。私の親戚は建築業界で働いている人が多く、父と姉は建築大学の先生だったので、周りからは同じ建築の道を歩んでほしいと言われていたのですが、私はもともとチャレンジ精神が強く、他の人の敷いたレールには乗りたくないと考えていたので、周りの期待通りの道ではなく、思い切って貿易大学の国際経済学部の入学試験を受けることに決めました。そして幸いにも、貿易大学国際経済学部に合格することができました。


私は理系なので、外国語の選択で英語か日本語かを選ぶことができました。当時18歳の私はあまり深く考えずに、英語は文系の人たちと勝負しても勝ち目がないので、みんなとスタートラインが同じの日本語を選択することにしました。


今振り返ってみても、当時、周りの期待に反して貿易大学を選んだことも、日本語を選んだことも後悔していません。むしろその選択のおかげで今日、私は日本で自分の会社を持つことができ、勉強してきた日本語や貿易の知識を使った仕事ができているのです。もしあの当時、自分の気持ちを曲げていたら、経営の仕事をしたいのに建築の仕事しかできないと不満を持ちながら生活することになっていたかもしれません。他の人が敷いたレールだと文句や不満が出ますが、自分自身で決めたことなので文句も不満もありません。とても良かったと思っています。

日本への道

大学生の時、交換留学生として4カ月間日本でホームステイをするチャンスがありました。 そのときは、大阪の田中さんという家族にお世話になりました。みなさんとても親切な方たちで、日本語はもちろん、日本の文化や生活、日本人の考え方も教えてもらいました。日本料理や生活習慣など、慣れない部分もありましたが、この4カ月間の日本でのホームステイでいろいろなつながりが生まれ、私は日本のことが好きになっていきました。とくに18、19歳という多感な時期に学校で教わる机上の日本語ではなく、実際に日本で生活して「生きた日本語」を得ることができたことが大きな財産になりました。4ヶ月の交換留学でいろいろな経験ができ、私はいつかまた日本へ戻りたいと強く思いました。


帰国して大学を卒業した後は、日本語を使うツアーガイドや単発の翻訳の仕事やプロジェクトなど、いろいろな仕事を経験しました。当時、日本語を勉強した学生は少なかったので周りと比べて給料は高く、仕事にも困りませんでした。

 

ある日、新聞でJICAの日本語通訳の求人を見つけました。それは日本へ行き、ベトナム石炭産業の幹部に日本の技術教育を行うプロジェクトでした。偶然にも給料も条件も良かったので応募したところ、採用されたので、迷わず日本へ行くことに決めました。

日本でのスタートは池島から

私がプロジェクトで行った場所は長崎にある小さな島の池島というところでした。池島は長崎出身の日本人でも知らない人も多くいるほど小さな島です。石炭産業が盛んだった頃、池島と周りにあるたくさんの小さな島は炭鉱の島として有名でした。その後、日本の石炭産業が衰退していき、政府は池島の炭鉱を閉じてしまったので、池島の住人は全員出て行きました。 マンションはありますが誰も住んでいない廃墟と化し、野良猫しかいないような寂しい場所でした。


JICAのプロジェクトなので待遇は良く、寮も食事もありました。週末になると給料以外に週末手当という名目でお小遣いももらえました。仕事は大変ではなく、16時には終わりました。給料や待遇もよく、仕事も辛くないのですが、ただ、とても寂しい場所だったのです。

池島での暮らしが1年以上経ったある日、私はふと思いました。仕事も待遇も良いのですが、このままここでの生活を続けていたら、せっかく日本に来たのに新しいことを知ることができず、チャレンジする機会もないだろうと思ったのです。このままではダメだと思い、今のJICAのプロジェクトを辞め、新しい世界へ踏み出すことにしました。転職活動を始め、2社へ応募しました。1社は大阪にある人材紹介会社で、もう1社は福岡にある小売業を行っているグループ会社でした。両方の会社から内定をいただきましたが、私は今住んでいる長崎から近いという理由で福岡の会社に入社することを決めました。

福岡は第二のスタート地点

福岡へ引っ越し、小売業界の会社に入社しました。当時、この会社は九州地区の小売業界の中ではイオン九州の次に大きな会社でした。私はバイヤーとして仕事をしていたのですが、JICAのプロジェクトとは正反対でした。バイヤーの仕事はチャレンジが多く、とにかく忙しかったです。私はもともとチャレンジ精神が強く、いろいろな経験を積みたかったので、このバイヤーの仕事は性に合っていて、楽しくて仕方ありませんでした。


そしてあっという間に7年が経ちました。仕事内容も職場環境も何一つ文句はありませんでした。しかし30代になると、今までの20代のころに持っていた仕事への情熱や夢・目標に変化が生まれました。20代のころはお金を稼ぐことや日本語を使って仕事をすることへの優先順位が高く、がむしゃらに走ってきました。それが30歳を迎え、ずっと走り続けるのではなく、新しい夢を実現させたいと思い始め、自分の仕事に対する考え方が変わってきたのです。今の仕事や給料面にはまったく不満はないのです。けれども私は自分の考え方を見つめ直し、自分だけにしかできないことを実現させたいという気持ちが湧き上がってきました。会社の上司はいつも「夢は夢で終わらせない」といっていました。私の夢は、今の会社のような大きな船でなく、小さな船であっても、自分で行きたい方向へ進めることができる船をつくることです。したがって、この会社はとても安定していましたが、自分の会社を起こすことを決意し、退職しました。


長い準備の末、2013年の4月に輸出入などの貿易を事業として行う “HSC JAPAN” という日本法人を立ち上げました。最初はだれも教えてくれる人がいなかったので自分たちで何とか試行錯誤し、失敗しながらもようやく会社を軌道に乗せました。私の思い描いていた「会社を創る」という夢の一部を実現させることができました。そして若い時からずっと考えていた日本とベトナムとの懸け橋になるという夢も実現させることができました。   


今思い返すと6年前に前職の会社にいたときは、大きな安定した船に乗っていて、ベトナムと直接関係のある仕事に携わっていなかったので、ベトナムとのつながりは薄くなっていました。今の仕事はベトナムとのかかわりが強いので、つながりをとても感じることができます。新しい会社を立ち上げた当初は大きな不安がありましたが、私をそばで支えて励ましてくれる妻や子どもたち、家族のおかげでここまでくることができました。とても感謝しています。

メッセージ

ベトナムで日本語を勉強し始めたとき、履歴書の自己PRや自己紹介の欄にはいつも「日本とベトナムとの懸け橋になりたい」と書いていました。今は社長となったので履歴書に書くことはなくなりましたが、この夢はずっと胸に刻んでいます。


「日本とベトナムとの懸け橋になる」という思いは、人それぞれ違うと思います。私の考える架け橋とは、日本の安全で本物の商品をベトナムに届けることですが、他の人の場合、たとえばベトナムに進出したい企業の手伝いをすること、または、日本に住んでいるベトナム人が快適な生活を送ることができるようにサポートすることが架け橋なのかもしれません。たとえ、一人一人の「日本とベトナムとの架け橋」という思いが異なっていても、両国に対する愛情から端を始まっていることに変わりはありません。私は「架け橋になりたい」という上辺の言葉だけでなく、どのように行動するのかが何よりも大切だと思っています。私たちは日本に住んでいるので、進んだ知識や技術を取り入れてベトナムに還元し、そしていつかベトナムの価値「ベトナムブランド」が世界に認められるようになってほしいと願っています。世界に「ベトナムブランド」を届けたいです。


「架け橋」というものは夢でなく、実現できることなのです。自分でやりたいと思ったことはためらわず、一歩踏み出してみてください。行動を起こすことが大事なのです。



福岡、2019年10月