グエン ティ キム

アン

Profile & Message

2001          ベトナムのハノイ農業大学と東京農業大学間の奨学金で東京農業大学へ入学

2005年         大学を卒業し、同大学院の修士課程へ進学

2007年         大学院を卒業し、日本のIT企業へ就職 

2011年         第一子(長女)出産

2015年         第二子(長男)出産

2018年         10年勤務していたIT k偉業を退社

2019年         週3回、東京の銀行でアルバイトとして勤務

道はたくさんあってどの道に進んでもいい。でも自分にとって幸せな道を選んで進んでほしい。自分のために時間を使うことや思い切って新しい道を選択することは今の自分の習慣や考えを変えないといけないので大変かもしれません。でも、私は少しだけでも自分のことを考える時間を持ち、自分の幸せの道へ進んで行ってほしいと願っています。

初めての日本、たくさんの学び

18年前、ハノイ農業大学の2年生の時、東京農業大学とハノイ農業大学間の交換制度を利用して奨学生として東京農業大学へ入学しました。2001年当時、日本で暮らしているベトナム人は少なく、みんな住んでいる地域はバラバラでした。SNSももちろん今のように発達していたわけではないので、ベトナム人のコミュニティもあまりありませんでした。なので、日本での暮らしの情報や買い物、アルバイト探しもすべて自分で調べないとならず、苦労することも多かったです。


私の周りの友人たちは、私と同じように奨学金をもらっている学生たちが多かったので、アルバイトはほとんどしていませんでした。でも日本のことをもっと深く知りたい、いろいろな経験をしたいと思ったので、1年生の終わりに新宿にある職業紹介の機関へ行き、アルバイトを探しました。見つけたアルバイトはケーキを箱に入れるアルバイトなど、手足を使う作業ばかりでした。アルバイトした場所には私と同じように外国人のアルバイトも日本人のアルバイトもいましたが、ただ黙々と仕事をこなし、会話はほとんどありませんでした。これらのアルバイトをして分かったことは、働いた分お金をもらうことはできます。しかし、日本語を使わないので日本語の能力は伸びず、知識も経験も何も得ることができないと気が付き、辞めました。


次にしたアルバイトは大学の近くのクリーニング屋でした。店長は親切で優しい人で、「つまらない仕事でも丁寧に行えば、いつか自分の役に立つときが来るよ」と私に教えてくれました。店長のこの言葉がとても心に響き、日本に来て最初に覚えた大切な心得です。

私の仕事はお客様から預かった洋服にタグをつけたり、洗濯が終わった洋服がきれいか確認したりする仕事でした。手が空いたときはお客様の前に出て、洋服を預かったり、おしゃべりをしたりもしました。仕事のやり方決まっていて、難しくありません。それでも店長の言葉を胸に、ミスがないように気をつけながら仕事をしていました。その後、違うアルバイトもしましたが、いつもこの店長の言葉を思い出して頑張っていました。

日本で就職する決意と挑戦

順風満帆な学生生活を送っていましたが、卒業時期が近づいてくるにつれて次の進路を決める時期にさしかかってきました。当時、日本にいる他のベトナム人の先輩たちの多くは大学院の博士課程へ進学するか、もしくはベトナムに帰国するかのどちらかだったので、日本で日本人学生と同じように就活する人はほとんどおらず、今回も自分一人で日本の就活について調べて、就活に臨みました。


日本での就活はベトナムと違います。SPIを受けたり、リクナビやマイナビなどの就活サイトを使ったり、いろいろなセミナーや説明会に参加したりと母国と違う部分が多くて大変でした。それでも私は日本で就職して生活していくことに決めていたので、日本人には負けたくない、外国人だからできないと思われたくないと思い、積極的にチャレンジしました。その頑張りが報われ、数か月後には3社のIT企業から内定をいただきました。私はITの勉強をしていたので、将来のこともよくよく考えて、ベトナムに進出予定のIT企業の内定を承諾することにしました。


今振り返ると、そのIT企業へ入社したばかりの新人の頃が一番楽しくて、とても思い出に残っています。たくさんの日本人の同僚と友達になり、いろいろな勉強会へ行き、プロジェクトも小さいものから大きいものまで、いろいろと参加させてもらいました。初めて開発のチームに参加したとき、毎日新しいことを学ぶことができ、刺激が多かったです。また、日本人の約束は守ることや時間通りに物事を進めること、お金にははっきりすること、お互いに助け合うことなど、良い部分を学ぶこともできました。新人の頃にいろいろなことを学ばせていただけて良かったと思います。


その後、仕事は順調に進んでいき、入社4年目には長女を妊娠しました。その当時、私はシステムエンジニアとして、家から2時間離れたクライアントを抱えていました。周りの同僚は男性しかいなかったので、妊娠しながらの仕事をすることへの不安は誰にも相談できませんでした。しかしその一方で、クライアントのために仕事の納期は守らないといけませんでした。すごく忙しいときは終電で帰宅して、翌日6時には出勤する日もありました。毎日、妊娠の不安を感じながら仕事に追われる日々でした。

仕事と育児、家事に追われる日々

2011年に長女が生まれました。育児休暇を取り、子どもが1歳になるまでは育児に専念しました。その後1歳になったら保育園へ預け、時短勤務で仕事に復帰しました。4年間仕事をしていたので仕事に復帰することは難しくなかったのですが、出産前に比べると忙しさや大変さは段違いでした。

 

毎日、朝早く起きて家事をし、子どもを保育園に預けて9時から16時まで仕事、そして保育園へお迎えに行き、また家事と育児をする。時短勤務なので16時までに仕事を終わらせられるように集中して取り組み、朝から晩まで忙しかったです。それでもまだまだ頑張れると自分に言い聞かせて頑張っていました。今思い返すと、この当時は時間に追われ、ゆっくり自分のことを考える時間や将来はどうしようかと思いを馳せる時間もなく、いっぱいいっぱいの毎日でした。

 

そして当時、この会社は2歳までしか時短勤務制度は適用されませんでした。3歳になったら通常の9時から17時30分までの勤務時間に戻ります。家から会社までの通勤には1時間半もかかるので、家に着くころには19時を過ぎます。家に帰ってから慌ただしく親子でご飯を食べ、お風呂に入り寝る日々でした。

この忙しい毎日に耐え切れず、あるとき上司に直接相談しました。今のままでは仕事と育児の両立が大変であること、子どもが小さいうちはもっと一緒にいる時間をつくりたいことを伝え、できれば2歳までしか適応されない時短制度を延長してほしいという要望も伝えました。しかし、社内は男性社員が圧倒的に多く、その中でも結婚している人は少なかったです。また結婚して家庭を持っている人も、奥さんは専業主婦なので私の希望を理解してくれる人はあまり多くありませんでした。そのため、稟議が通るのにも時間がかかりました。かなり時間がかかりましたが、ついには私の願っていた時短制度の変更の稟議が通り、小学校卒業まで時短勤務ができることになりました。そのおかげで16時までの勤務に戻ることができました。


ちょうどこの時期、2人目を妊娠しました。当時、私は担当クライアントの開発チームのリーダーとして働いていたのですが、妊娠17週目の時に切迫流産しそうになってしまいました。急遽、病院の先生に診ていただいたところ、切迫流産だけでなく癒着胎盤であることもわかり緊急入院することになりました。それまでは何ともなく、少し疲れたなと思うぐらいで、むしろ1人目を妊娠しているときよりも元気だったので、急に危ないと言われてとても驚きました。私は入院することになったので、娘は遠く離れたベトナムの両親に預けることにもなりました。いつも一緒にいたので離れると寂しくなり、入院中は娘のために編物をしたりして過ごしていました。

人生の転換期

4か月間入院し、2人目を帝王切開で出産しました。今回も1歳になるまでは育児休暇の制度を利用し、その後は時短勤務で仕事に復帰しました。2人目なので、おじいちゃんとおばあちゃんの手を借りずに育児と家事をしていたのですが、仕事と家庭両立は難しかったです。しかも、この時期、ちょうど娘が小学校に上がる時期でした。よく日本でも言われるように小学校1年生になるタイミングで「1年生の壁」というものがあります。子どももそうですが、親も小学校からのプリントを確認したり、いっしょに勉強したり、PTAなど保護者の活動にも参加したりしないといけません。

今までの仕事に加え、新しいことが増えて私はパニックになってしまいました。これから子どもと一緒に歩んでいけるか心配になり、退職しないとやっていけないのではと思い悩み始めました。このことを上司に伝え、子どもとの時間を大切にしたいので退職も考えていると話したところ、10年も続けてくれているのでこのまま続けてほしいと上司から言われました。上司は私のために人事部と掛け合ってくれ、会社として在宅勤務制度を導入することになりました。会社は私のために新しい制度を作り、手厚いサポートを用意してくれたので、退職せずにこのまま在宅勤務の制度を利用して続けることに決めました。

 在宅勤務の制度を始め、週に1、2回は在宅、他は出勤というサイクルで仕事を始めました。最初は会社に出勤しなくていいので、通勤時間が節約でき、空いた時間には家事もできるので良い制度だなと思っていました。ただ、在宅勤務は経験した人にしかわからないと思いますが、家でリラックスしているモードから仕事モードに切り替えて仕事をすることは大変なのです。会社では集中して仕事をする時間と休憩する時間を上手く使って仕事を勧めることができますが、家にいると仕事に疲れたから少し水を飲もうと思ったり、携帯を見たりして休憩しようと思っても、自分は仕事に集中できていないのではと罪悪感を覚えてしまうときがあるのです。せっかくの在宅勤務だったとしてもメリットを生かして仕事をすることが難しかったです。


また当時担当しているプロジェクトはベトナムに関係しているプロジェクトで、アメリカの製薬会社がクライアントでした。そのプロジェクトの合間には、新入社員の研修の手伝いもしていました。これらの仕事は成果が目に見えません。しかも手を抜けないプレッシャーもあったので、息苦しい毎日でした。これほどストレスが多い中、なかなか私が退職に踏み切れなかったのは、会社から必要とされていると自分自身に言い聞かせていたからです。それでもついに思い切って2018年11月に10年も勤めていたIT企業を退職することに決めました。

なぜ10年も勤めていた仕事を辞めたのか、みなさん疑問に思うと思います。毎日、仕事と家事、子ども世話など目まぐるしい忙しさで疲れてしまったからというのが正直な理由です。自分の時間がなく、時間や仕事に追われる味気ない生活から、もう少し楽しく、カラフルな生活を送りたいと思ったのです。子どもは親の背中を見て育ちます。子どもにとって元気いっぱいなお母さんでありたいので、会社を辞めて子どもとの時間を増やし、今までできなかったことに時間を費やすことにしました。


思い切って仕事を辞めてから、新しい勉強を始めたり、油絵やベリーダンスの教室に通ったりし始め、自分のために時間を使い、いろいろやりたいことを積極的に行いました。習っていた油絵はなんと展示会にも参加しました。さらに、ずっとネイルやヘアスタイルなどの美容の勉強をしたかったので、美容の専門学校の通信講座に申込み、3年間勉強してその講座を卒業しました。その他にも時間があるときは自分で収納ボックスやおもちゃ、花壇などをDIYで作ったり、家の壁紙を海外から輸入して模様替えをしたりと充実した日々を送っています。しかし、会社を辞めてやりたいことだけにやっていても社会と離れてしまいます。なので、週3回は東京の銀行でアルバイトとしてITの仕事もしています。

 

私には将来やりたいことが2つあります。1つ目は、趣味である“DIY”のホームページを作り、プロでなく普通のお母さんたちでもできるDIYをベトナム語で紹介したいです。2つ目は、日本にいるベトナム人のお母さんたちのための美容サロンを開きたいと思っています。昔IT企業で仕事をしていた時は考えられませんでしたが、自分のペースで仕事も生活ができる今は本当に楽しくて、どんどんやりたいことが出てきます。

メッセージ

今まで勤めていたIT企業を退職し、新しい道へ進んで1年が経ちました。会社を辞めたあとも毎日、いろいろな活動を行ったり、時にはDIYで服が汚れたりと相変わらず忙しい日々ですが、充実した日々です。

日本で暮らしていると、毎日、勉強や仕事、家事などで時間に追われるで、気が付いたらあっという間に時間が経ってしまいます。以前働いていた時は、忙しくて勉強する時間もなかなか取れず、10年間あっという間に時間が経ってしまいました。最近になってやっと新しい道へ進むことを決断する勇気が持つことができ、思い切った決断をしました。その結果、今では勉強する時間ができ、自分がやりたいことや趣味に時間を費やすこともできます。子どもと一緒にいる時間も増え、やりたいことをどんどんすることができます。


この年齢になり、今まで何年も続けてきて慣れた習慣を180度変えることは簡単ではありません。日本に住んでいるお母さんたちも私と同じように毎日の子育てと家事、仕事であっという間に時間が過ぎていると思います。誰もが本当はやりたいことや好きなことに時間を使いたいと思っていても、忙しいという理由で諦めてしまいます。みんな生活でチャンレンジしたいことも毎日の生活や仕事でいっぱいいっぱいの日々だと思いますが、でも疲れたと思ったら一度立ち止まってみてください。一度立ち止まって今までの自分を振り返り、自分にとって何が幸せなのか考えてみてはどうでしょうか。

父がかつて私に言っていました。「未知はたくさんあってどの道に進んでもいい。でも自分にとって幸せな道を選んで進んでほしい。」自分のために時間を使うことや思い切って新しい道を選択することは今の自分の習慣や考えを変えないといけないので大変かもしれません。でも、私は少しだけでも自分のことを考える時間を持ち、自分の幸せの道へ進んで行ってほしいと願っています。

東京、2019年11月