フォン ミン ホアン

Profile & Message

2003年          ハノイ工科大学の電気学部に入学

2008年4月         VCI日本語センターで日本語を勉強し始める

2008年7月         ハノイ工科大学の電気学部を卒業      

2009年4月         VCI日本語コースを修了

2009年~2011年      日経企業に入社し電気エンジニアとして働く

2011年~2017年      来日し、日本の会社で電気設計の仕事をする

2017年8月         不動産会社を設立し、不動産事業と工業用の電気補助設備の輸出事業を行う

これから日本の会社へ入社する後輩たちへ伝えたいことがあります。日本で暮らすのであれば、些細な考え方や習慣の違いを認め、少しずつ自分の今までの考え方ややり方を改めていくことで本当の意味で日本人の働き方を体得できるのです。過剰に自分の能力をアピールしてしまう人もいるかもしれませんが、ありのままの姿で大丈夫です。わからないことはわからないと聞くことができる素直さ、周りの人の行動や考え方を観察できる力、そして自分を変えることができる柔軟さが大切なのです。日常や仕事の中の小さなことでも学びはあります。日々の学びが積み重なって、自分自身の成長につながるのです。

日本へ行く夢をあきらめない

高校3年生のとき、これからどの大学を受験するか、何を勉強しようか考えていました。私は当時、理科が好きだったので、兄からはハノイ工科大学を勧められました。私はいつか経営やビジネスに関する仕事をしたいとも思いましたが、18歳の私の将来はまだ漠然としたものだったので、兄に勧められるままハノイ工科大学の電気学部を受験し、晴れて入学となりました。

大学に入学してからは勉強や試験で忙しい4年間でした。大学5年生となり、将来の進路について考え始める時期になりました。卒業後はフリーランスとしてプロジェクトごとに仕事をもらって働くか、それともどこかの会社に正社員として入社し、電気エンジニアとして手に職付けるかなど、いろいろと自問自答する日々でした。もちろん私は新卒で実務経験がなく、英語も少ししかできないので、あまり高い給料はもらえないことはわかっていました。仕事の選択肢はありますが、決まったルーティンの仕事で満足できるのか、もう少し広い世界にチャレンジしたほうがいいのかと思い悩んでいました。


将来はどうしようかと悩んでいたある日、工科大学のある先輩の話を聞きました。その先輩はベトナムで日本語を1年間した後に日本企業での働くチャンスを手に入れたのです。日本へ行くことができ、尚且つ給料はベトナムに比べたら圧倒的に高くなったそうです。私も以前、日本などの先進国で働きたいと夢見たことがありましたが、どうやったら外国で働くことができるのかわからなかったので、その夢を叶えることはできませんでした。しかし、先輩の話を聞いて、日本で働くチャンスはすぐ近くにあるのだとワクワクしてきて、必ず日本で働こうと決めました。


日本で働く夢を叶えるために、まずはVCIという日本語センターで日本語の勉強をし始めました。私は日本人とベトナム人の先生から日本語を教わり、勉強にのめりこんでいきました。日本語の勉強が進んでいくと、早く日本の企業の面接を受けたいという気持ちが湧いてきて、面接の機会が待ち遠しかったです。


しかし、自分の思い通りに物事は進まないものです。日本語センターで勉強し始めて1年が経ち、ちょうど受講していた日本語のコース修了頃にリーマンショックが起こりました。世界中がリーマンショックの影響を受け、日本も例外ではありませんでした。今までベトナム国内で日本企業の採用活動は活発だったのですが、リーマンショック後は日本企業からの求人数が大幅に減り、とくに電気エンジニアを採用する企業はほとんどありませんでした。私はこの1年間、日本で働くことを目標に日本語の勉強を一生懸命していたのに、あと一歩のところでチャンスが目の前から消えてしまったのです。とてもショックで落ち込みました。このまま家で面接のチャンスを待ち続けるべきなのか、そもそも果たしてチャンスが巡ってくるのか、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。


今後はどうしたらいいのかとずっと考えていましたが、このままではいけないと気持ちを切り替えました。次にチャンスが巡ってきたときに日本で働くチャンスを掴むことができるように、仕事の経験を積みながら日本語の勉強も続けることにしました。そしてベトナムの日系企業へ入社し、電気エンジニアとして仕事を始めました。頑張ろうと意気揚々に仕事を始めましたが、ここでの仕事は工場での作業ばかりでした。日本人社員もいますが、話すことができる時間は1日10分程度で、挨拶ぐらいしか言葉を交わしません。せっかく頑張って勉強した日本語も上達させることはできず、むしろ忘れていきました。


2年間続けて働いているうちに、少しずつ景気が良くなっていき、日本からの求人も出てきました。そして、VCI日本語センターから日本企業の面接会のお知らせを受け取った時、舞い上がるほど嬉しかったです。ようやく夢を叶えるチャンスが来たのです。その面接会で日本へ行くチャンスを手にするために、よく使う日本語の言葉や文章を一生懸命復習しました。その努力のおかげで、埼玉県川越市にある電気の会社に合格し、2011年4月に来日しました。やっと夢が叶った瞬間でした。

仕事を通して新しい学びを得る

東日本大震災直後の2011年4月に来日し、埼玉の電気の会社に入社しました。この会社は自動化機械をつくっている会社で、私はPLC設計の担当となりました。私はベトナムで1年間日本語を勉強していて、工科大学やベトナムの会社で電気に関する知識や技術は身に付けているので自信満々だったのですが、入社後、その自信は打ち砕かれました。この会社では、ベトナムの会社での仕事のやり方や手順と全く異なり、2年間のベトナムでの経験はほとんど生かすことができませんでした。入社して最初の6か月間は、工場で電気の配線をつなぐ仕事や本を読んで専門用語を勉強することと、ベトナム人社員の先輩から指示された仕事をすることがほとんどでした。少しずつ、少しずつ仕事を通して言葉や知識、仕事のやり方や手順を覚えていきました。


入社してからの2年間は先輩からOJTで仕事を教えてもらっていました。その間、何回か自分勝手なやり方をして上司から怒られてやり直しを命じられたこともあります。その仕事はベトナムの会社でやったことがあったので、今の会社の指示や手順を確認しないで自分でやってしまったのです。会社のやり方に従わずに自分勝手に仕事をすると作業の無駄が発生し、周りの人に迷惑をかけてしまうことになるのだと失敗をしながら学び、会社のやり方や手順を守ることの大切さを身に染みて感じました。


仕事の業務だけでなく、文化や生活面でもベトナムと日本では違っていることが多くあったので、周りの人を観察しながら自分のやり方や考え方を直していきました。たとえば、ベトナム人はハンカチを持つ習慣があまりないので、私も最初はハンカチを持っていませんでした。ある時、会社で上司が手を洗った後、濡れた手のままドアノブを触ると水が付いて、次にドアノブに触る人が嫌な思いをしてしまうからハンカチを持った方がいいとく教えてくれました。上司にそう言われて初めて、私はほとんどの日本人がハンカチを持つ意味に気づき、それ以降は持つようになりました。ベトナムと日本では文化や習慣が違うので、自分では大したことではないと思っていることでも、他の人に不快な思いをさせてしまうかもしれません。そしていつか人間関係や仕事で大きなトラブルを引き起こしてしまうかもしれません。私はもっと日本社会に溶け込みたいと思っていたので、周りの人たちに私の行動で直したほうが良いことがあれば遠慮なく指摘してほしいとお願いし、様々なことを教えてもらいました。

ターニングポイント

だんだん仕事にも生活にも慣れてくると、今度は自分のネットワークを広げたいと思い始め、週末に様々な活動に参加しました。ある時、私のいる川越で異文化フェスティバルが開催されていたので参加したところ、主催者ブースで「ボランティア募集中」という文字が目に飛び込んできました。面白そうだと思い、ボランティアに申し込みました。


このフェスティバルを主催している組織は、外国人が好きで、外国人と交流したい人たちが多くいます。活動内容としては、さまざまな外国の文化を紹介して、その国のことを日本人に知ってもらい、外国人も日本人も共生できる環境をつくることを目的としています。活動メンバーは40、50代の人たちが多く、私のような若者は珍しかったようで、みんなから可愛がってもらいました。


私はこの組織の活動に参加して良かったと思うことが2つあります。1つ目は、いろいろなイベントに参加したり、運営に携わったりしていくうちに企画の立て方や役割分担の仕方、運営など多くのスキルを学ぶことができました。2つ目に、イベントを通して様々な国籍の人や市役所の人、弁護士に会う機会が多くあり、自分のネットワークを広げることができました。また、外国人が日本の生活で何に困っているかも知ることができました。


6年目になると仕事もプライベートも順調で、会社では電気部門の責任者になりました。会社での仕事は一人で十分できるようになり、前よりも様々な仕事を任せてもらえるようになりました。重要な仕事を任せてもらえるようになると、仕事への責任も仕事量も増えていきました。その会社には2名のベトナム人技能実習生がいたので、自分に任せられた仕事だけでなく、その実習生たちへ作業の指導をすることや、電気の専門知識がない日本人社員へわかりやすく仕事の指示を出すことも私の仕事でした。仕事へのプレッシャーと忙しい日々で、時が目まぐるしく過ぎていきました。


私たちの仕事は、まずお客さまから機械の注文を受けます。注文通りに機械を設計、製造し、中間立ち合いのときにお客さまに注文の機械を見せるという順番に進んで行きます。この当時、一番記憶に残っている思い出があります。お客さまからいつものように注文を受け、機械を設計、製造したのですが、完成した機械が動かないのです。立ち合いの前日のことでした。翌日にはお客さまに見せないといけないので、36時間働き通してなんとか原因を突き止めて、機械が動くようになりました。一番大変だった出来事です。毎日毎日、仕事が多く、だんだん仕事と生活のバランスが崩れていき、明日も頑張ろうという気持ちも情熱もなくなっていきました。

このままではいけないと考え、将来どうしようかと考えだしたとき、昔、自分はビジネスを起こしたいと思っていたことを思い出しました。私は電気に関する知識や技術は習得しています。日本で長く暮らして、日本企業で働いているので文化や仕事の仕方もわかっています。そこで、自分を成長させるために新しい世界へチャレンジしようと決意し、2017年に今の埼玉の会社を退職し、起業することに決めました。

ターニングポイント

だんだん仕事にも生活にも慣れてくると、今度は自分のネットワークを広げたいと思い始め、週末に様々な活動に参加しました。ある時、私のいる川越で異文化フェスティバルが開催されていたので参加したところ、主催者ブースで「ボランティア募集中」という文字が目に飛び込んできました。面白そうだと思い、ボランティアに申し込みました。


このフェスティバルを主催している組織は、外国人が好きで、外国人と交流したい人たちが多くいます。活動内容としては、さまざまな外国の文化を紹介して、その国のことを日本人に知ってもらい、外国人も日本人も共生できる環境をつくることを目的としています。活動メンバーは40、50代の人たちが多く、私のような若者は珍しかったようで、みんなから可愛がってもらいました。


私はこの組織の活動に参加して良かったと思うことが2つあります。1つ目は、いろいろなイベントに参加したり、運営に携わったりしていくうちに企画の立て方や役割分担の仕方、運営など多くのスキルを学ぶことができました。2つ目に、イベントを通して様々な国籍の人や市役所の人、弁護士に会う機会が多くあり、自分のネットワークを広げることができました。また、外国人が日本の生活で何に困っているかも知ることができました。


6年目になると仕事もプライベートも順調で、会社では電気部門の責任者になりました。会社での仕事は一人で十分できるようになり、前よりも様々な仕事を任せてもらえるようになりました。重要な仕事を任せてもらえるようになると、仕事への責任も仕事量も増えていきました。その会社には2名のベトナム人技能実習生がいたので、自分に任せられた仕事だけでなく、その実習生たちへ作業の指導をすることや、電気の専門知識がない日本人社員へわかりやすく仕事の指示を出すことも私の仕事でした。仕事へのプレッシャーと忙しい日々で、時が目まぐるしく過ぎていきました。


私たちの仕事は、まずお客さまから機械の注文を受けます。注文通りに機械を設計、製造し、中間立ち合いのときにお客さまに注文の機械を見せるという順番に進んで行きます。この当時、一番記憶に残っている思い出があります。お客さまからいつものように注文を受け、機械を設計、製造したのですが、完成した機械が動かないのです。立ち合いの前日のことでした。翌日にはお客さまに見せないといけないので、36時間働き通してなんとか原因を突き止めて、機械が動くようになりました。一番大変だった出来事です。毎日毎日、仕事が多く、だんだん仕事と生活のバランスが崩れていき、明日も頑張ろうという気持ちも情熱もなくなっていきました。

このままではいけないと考え、将来どうしようかと考えだしたとき、昔、自分はビジネスを起こしたいと思っていたことを思い出しました。私は電気に関する知識や技術は習得しています。日本で長く暮らして、日本企業で働いているので文化や仕事の仕方もわかっています。そこで、自分を成長させるために新しい世界へチャレンジしようと決意し、2017年に今の埼玉の会社を退職し、起業することに決めました。

新しい世界へチャレンジ

私が新しい会社でやりたいと考えていた事業は、外国人へ不動産を紹介する事業です。この事業についての専門知識も経験もない門外漢ですが、日本に来てボランティアでいろいろな外国人と話していく中で「不動産」の仕事に大きな意味があると感じていました。日本に来たばかりの外国人は家を探すことにとても苦労します。外国人への信用や生活習慣の違い、言語の壁などで日本の不動産会社が貸してくれないケースは多くあります。そこで私は6年間日本で生活した経験とボランティアでできた市役所の方や弁護士の方々とのつながりがあるので、みんなを助けたいと気持ちで不動産の会社を起こすことに決めたのです。


新しいビジネスにチャレンジすることにワクワクしていましたが、今のまま知識が無い状態で事業を行うことは無謀だと考え、退職後の3か月間、友人から紹介してもらった不動産会社で不動産に関する知識やノウハウを勉強させてもらいました。そして自分で実際にお客さんへ不動産の営業をし、成約につながったらその不動産会社から歩合制で報酬をもらうようになり、不動産営業の実務経験も積んでいきました。埼玉の電気の会社では固定給をもらい、従業員として安定した暮らしを送っていましたが、実際に自分で会社を経営するとなると、物件を探したり、採用活動をしたり、収支を気にしたりと新しく直面することが多くありました。この当時は若く、まだ結婚もしていなかったので自分のビジネスにすべてを注ぐことができました。

友人から紹介してもらった不動産会社のおかげで、専門知識やノウハウは少し身に付けました。不動産の会社は設立して事業を開始していましたが、まだまだ利益になるにはほど遠かったです。そんな時、兄からベトナムのある会社が日本の工業用の電気補助設備を輸入したいそうだが、どこか輸出できる会社がないかと聞かれました。私は埼玉の電気会社で働いていたとき、他の様々な会社とやり取りもしていてたので、そのネットワークを使ってベトナムの会社へ工業用の電気補助設備を輸出する事業も不動産事業と並行して始めました。少しずつではありますが、べトナムにも日本にも契約を結んでくれる企業が増えていき、利益も出せるようになっていました。しかしその一方で、不動産事業はなかなか軌道に乗りません。輸出入事業の利益を不動産事業へまわして会社を維持していました。


不動産事業はなかなか軌道に乗りませんでした。設立当初、不動産会社はいたるところにあるのでお客さまはなかなか私の会社を信用してくれませんでした。私が紹介した物件を違う不動産会社に尋ねてその会社で契約してしまうということも多くありました。悔しい思いをたくさんしましたが、会社を信用してもらえるようになるまで仕方がないと歯を食いしばって頑張っていました。


不動産事業を軌道に乗せるためには、他の不動産会社、とくに大手不動産会社ではなく私たちの会社を選んでもらう必要があります。そのために様々な工夫していました。例えば、日本に来たばかりのお客さまのために電気・ガス・水道の手続きを代行したり、近隣の病院やスーパーマーケットを案内したりします。また、ベトナム語で役所への転入転出手続きやごみ分別の仕方を説明したり、クロネコヤマトやレストランなどのアルバイト紹介をしたりもしました。困っている外国人の役に立ち、なおかつ日本の会社では真似できないサービスを提供していました。試行錯誤すること2年、ようやくお客さまたちが会社を信頼してくれるようになり、今では不動産事業も輸出入事業と同じくらい安定してきました。新しいチャレンジはこれからまだたくさんあります。私は自分の好きなことをビジネスとして行い、毎日が充実しています。これからもみなさまの役に立つサービスを展開していきたいと考えています。

メッセージ

つい先日、日本語を勉強し始めたばかりかと思っていましたが、あっという間に10年の月日が経ちました。日本へ行く夢が叶うまで2年。ベトナムにいた当時、先輩から日本へ行くチャンスや方法を聞き、新しい道へ進む勇気が湧き、大きな決断をすることができました。


8年間の日本の暮らしの中で、非常に多く勉強することができました。日本語だけでなく、仕事ではさまざまな経験を積み、知識や技術も習得できました。人間関係も広がりました。これらの日本で得た大切なものの中で、とくに大切な学びがあります。それは日常の中で、たいしたことないと思いがちの考え方や習慣の違いにしっかり目を向ける必要があるということです。ベトナムと日本とでは考え化や習慣が異なります。日本で暮らすのであれば、些細な考え方や習慣の違いを認め、少しずつ自分の今までの考え方ややり方を改めていくことで本当の意味で日本人の働き方を体得できるのです。私には好きな言葉があります。それは、あなたのその振舞いがあなたを決めてしまうという言葉です。些細なことやたいしたことないと思われるようなことでも、あなたの態度や行動を周りの人たちは見ています。


これから日本の会社へ入社する後輩たちへ伝えたいことがあります。みなさんの中には経験がないと心配している人もいるかと思いますが、心配しなくても大丈夫です。また、過剰に自分の能力をアピールしてしまう人もいるかもしれませんが、ありのままの姿で大丈夫です。わからないことはわからないと聞くことができる素直さ、周りの人の行動や考え方を観察できる力、そして自分を変えることができる柔軟さが大切なのです。わからないことをわからないままにしてしまうといつか大きなトラブルになってしまいます。日常や仕事の中の小さなことでも学びはあります。日々の学びが積み重なって、自分自身の成長につながるのです。


東京、2019年12月