EPAプログラムとのご縁

2007 年、タインホア医療短期大学の看護学部を卒業した後、県内の小児病院の新生児科およびNICUで働き始めました。 2012 年に理事会から 、2ヶ月間の看護管理コースの研修に参加するためにホーチミン市にある外資系の民間病院に派遣されていなければ、おそらく私は5年間勤務した地方病院でずっと働いていたと思います。


研修先で、外国の私立病院で働く看護師の姿を初めて目の当たりにし、専門的でとても思いやりのある患者のケアに感銘を受けました。看護師として一緒に働いている私はベトナム語しか話せませんが、ここのスタッフの多くは英語を話し、外国人患者の世話をしています。


県の病院に戻って数か月後、再びホーチミン市の第 2 小児病院で、別の研修コースに参加するよう派遣されました。ここでの研修期間の6ヶ月は、専門職としてのスキルを身につけるのに役立っただけでなく、地方の病院で働く看護師とホーチミン市で働く看護師の収入レベルの大きな違いを実感しました。


県立病院での5年間の勤務は比較的長いと感じており、このまま続けていれば、多少収入やキャリアもアップするかもしれませんが、今後何年かは今と大差がないかもしれないと思い、退職を決意し、ホーチミン市の大規模な私立病院に転職しました。幸いなことに、5 年間の実務経験と 2 回の研修を受けた後に取得した証明書により、以前の仕事よりもはるかに高い給与で働くことができることになりました。


新しい病院は私立病院なので、給与もかなり良く、患者さんへのケアの仕方も丁寧で、設備も整っていて良い環境でした。私はとても満足しており、その病院に長く勤務するつもりでいました。 しかし、ちょうどこの時期に、日越経済連携協定の枠組みの中で、「看護師を日本に派遣して勉強しながら働く」というプログラムに関する情報を偶然見つけました。 


このプログラムは、ベトナムで看護師としての経験を積んだ方が、日本語を学び、来日して病院で働きながら、日本の看護師国家試験を受験するための勉強をお金をかけずに行うことができるプログラムです。


海外で勉強や仕事をする機会は魅力的であると感じ、さらに全く費用をかけずに学べるチャンスが目の前にあることにとても強く惹かれました。しかし、EPAを受けるためには既存の学位を提出する必要があり、これらの書類は病院に保管されているため、病院側に事情を話し、現職を辞めなければなりませんでした。合格するかわからない試験のために、退職しなければならなかったので、とても悩みましたし、不安でした。でも、この機会を逃すと、今後留学するのは難しくなると思い、もし不合格でも、今までの看護師としての経験があるから、また他の病院を受ければいいと考え、思い切ってEPAを受けました。


幸いなことに、私はEPAプログラムの選考に合格し、2012年12月にEPAプログラムで正式に日本語の勉強を始めました。


30代で日本語を勉強し始めた

私はEPAの一期生でした。EPAには、看護と介護の2コースがあり、看護のコースは11名いて、私は3番目に年長でした。2人年上の方がいて、他の方たちはまだかなり若かったです。日本語を学び始めたのは30歳近くでしたが、EPAを申し込んだ後から、ホーチミン市で週2回の日本語センターに通い、日本語に触れていたので、スタート時には自信をもって勉強を進められていました。


私たちのコースは、ハノイで寮に住んで、1年間集中して日本語学習に取り組むプログラムでした。寮費や授業料、さらには食費などの生活費まで全て負担してもらえました。

このような好条件のもと、私は1年間、日本語の勉強に一生懸命取り組みました。 毎日の授業時間に加えて、帰宅後も自習し、課題は必ず行っていました。


センターで12ヶ月間勉強した後、日本語能力検定N3に合格し、卒業資格を得ることができました。 しかし、面接を受けて日本へ飛び立つまで、まだ半年もあるので、地元に帰るかこのセンターで勉強し続けるかを選択することができた。地元に帰って日本語を使う機会がなくなるのが心配だったため、センターに残ることを決めました。センターに残った人に対しては無料で日本人の先生が担当する、日本語のクラスを提供してくれたり、安い家賃でセンターの寮に滞在できるようにしてもらえたので、私たちは食費と家賃の一部だけを自己負担すればいいことになっています。


生活費や家賃は自己負担であったため、アルバイトをしながら数か月センターに滞在したのち、新潟の病院に就職し、2014年6月に正式に日本に入国しました。


国家試験の受験勉強をした日々

日本に到着して最初の2ヶ月間は、プログラムの他の方たちと千葉に滞在して、一緒に研修を受けることができました。千葉での研修が終了後、新潟へ行きました。


新しい職場でベトナム人は私1人でしたが、性格が内気なタイプではなかったのと、当時はもう30代だったこともあり、すぐに生活や新しい職場に慣れることができました。初めのころは国家試験にまだ合格していなかったので、看護師の仕事ではなく、看護助手の立場から働き始めました。午前中は看護師の先輩の手伝いで、患者さんの送り迎えや病室の掃除などをしながら、実際の仕事の見習いをしていました。午後は、病院が用意した個室で、看護師国家試験の勉強をしました。


日本で看護師として働くためには、日本の看護師国家資格に合格する必要があります。 私は看護学科を卒業し、ベトナムで長年の実務経験があるため、専門的な知識はしっかり身についていますが、その知識を日本語で勉強して、テストを受験しなければならないので、決して簡単ではありません。ほとんどの時間は自分で勉強していますが、2〜3ヶ月に1回ぐらいのベースで東京へ行って、すべての EPA 候補者を対象とした試験対策集中講座を受講することもあります。


このプログラムでは、入国日から遅くとも 4 年後までに、国家資格に合格する必要があります。合格しないと帰国しなければならず、日本に滞在して仕事を続けることはできません。 任期は4年ですが、看護師の資格は入社1年目から受験できます。(介護士は日本で3年勤務してからしか受験できない)なので私は、日本に来たのは6月でしたが、次の年の2月にとりあえず受験してみることにしました。日本に来て8ヶ月だったので、まだ語彙と漢字が弱く、30点ほど足りませんでした。 しかし、この試験のおかげで、試験スタイルだけでなく、試験に挑むためのメンタルについても理解が深まりました。


二年目の時病院が、看護専門学校の受験生と一緒に1週間に2回の、受験対策講座を受講することができるように手配してくれました。


試験対策クラスには、試験の準備方法をよく知っている専門的な日本人の先生がいて、先生の説明のおかげで、問題に記載されている知識について、理解しやすくなり、独学で勉強していた時よりもはるかに理解が深まりました。


この時期は、集中して勉強に専念すべきだと考えたので、朝は病院で働き、午後1時から5時まで自習室で勉強し、家に帰って食事やシャワーを浴びて、午前7時まで勉強し、また午後11時から12時まで働く生活をしていました。専門学校の模試を全部解き、分厚い専門書を何度も何度も読み、暗記するまで勉強をつづけました。


これまでの努力が実り、2 回目の受験で国家資格試験に合格し、日本で正式に看護師として働く事ができました。


ターニングポイント

国家試験に合格後、時間に余裕ができたので、運転免許を取るための勉強をしました。

日本に来て2年近くの間、私は仕事と試験勉強で忙しかったため、毎日寮と病院の行き来しかしていませんでした。そのため新潟の不便さを感じていませんでしたが、運転免許を取ってから通勤が便利になりました。そして、これまでのような生活を続けていたらダメだなと思い、区や市が主催の交流会に参加し、新潟にいるベトナム人と知り合う機会があり、私をサッカーに誘ってくれたり、食事に行ったり、花火大会に行ったりしました。そのおかげで、今までよりプライベートが充実しました。


看護師として仕事をするようになってから1年が経ち、徐々に上司からの信頼を得られるようになりました。病院がベトナム人を募集したとき、上司は私をベトナムに出張させ、病院の紹介と面接を行いました。ベトナム人の新入社員が日本に来ると、私が生活支援と仕事の指導を担当するなど、仕事と生活の中で多くの新しい経験をしました。


仕事はとても順調に進んでおり、2018年に妻と私は結婚することを決めました (妻は同じく EPA プログラムの対象ですが、介護職) 。当時、妻が介護職として東京で働いていたので、妻が新潟に引っ越してくるか、妻と一緒に東京で暮らすか、2人でいろいろ考えました。新潟の病院長は、妻が新潟に来たら、彼女の就職先も探してくれると約束しましたが、結局、東京の方がもっと仕事の機会があると思い、東京で暮らすことにしました。


上京するということは、自分で新しい病院に就職しなければならないということで、私にとっては新しい挑戦でした。ベトナムでEPAプログラムを勉強していたとき、私は病院を選ぶ際に自分の基準がありませんでした。当時は、ただ「日本に行ければいい」「日本で働ければいい」と思っていました。しかし、4年後には日本で実務経験を積み、国家試験に合格したことで、業界の採用ニーズをより理解することができ、勤務する病院を選択するための考えと基準ができ始めました。


日本には看護師や助産師に特化した求人サイトがたくさんあり、募集要項や報酬が明確に公開されているので、日本語が出来れば、少し調べるだけで必要な情報を得ることができます。私はよく求人の総合サイトなどを参考にして、募集している病院の情報を入手し、直接病院のウェブサイトで詳細を確認してから応募していました。結果的に4社に応募しましたが、場所の問題や外国人採用の有無など色々あり、神奈川の病院に入ることにしました。


帰国

東京に引っ越したばかりですが、新潟に住んでいた時、よくバスに乗って妻(当時の恋人)に会いに行っていたので、新しい生活にもすぐに慣れました。


2019年半ばに、私の友人が、健康診断のためにベトナム人を日本に連れてくることを専門とする、医療観光会社での新しい仕事を紹介してくれました。長年看護師をしてきましたが、これまで培ってきた医学知識を活かして、違う視点から医療に関係する仕事をしたいと考えていたため、興味を持ちました。看護師のときより給料は下がったが、人脈や知識を活かせると思い、転職を決意しました。


しかし、転職して半年も経たないうちに、コロナが発生し、日本は国境を閉鎖したため、患者は日本に行くことができなくなりました。仕事がなくなり何もすることはないが、会社が辞めさせることはしないので、毎日会社に行って単語を勉強したりするなど、何もせずに給料をもらっている感じでした。そのことに大きなプレッシャーを感じ、2020年4月、看護師としてのキャリアに戻ることを決意し、都内の病院に転職しました。


再び安定した仕事に就き、コロナの流行期でも十分な収入が得られるようになった私たち夫婦は、生活を安定させるための方法を考え始めました。日本での貯蓄と投資、住宅の購入なども考えました。


しかし、コロナをきっかけに、日本にずっと滞在するか否かについて一番考えさせられました。ベトナムにいる母は歳をとり、誰も世話をしてくれる人がいなくて一人で暮らしているので、私は心配でした。日本にいるとすぐにベトナムに帰れないので、ベトナムに帰国すべきか悩みました。しかし、近年のベトナムの物価の高さや給料の面など色々と考えさせられ、帰国するか否かの問題は、何ヶ月も頭の中で決められずにいました。


ちょうどそのころ、ホーチミン市にある日本のクリニックチェーンに関する求人広告を見つけました。私自身の経験にとても適した、魅力的な仕事内容で、給与の基準が日本の給料と同じだったので興味を持ち、その会社にエントリーすることを決めました。採用プロセスは数ヶ月続き、オンラインやオフラインで3〜4回の面接を経て、ご縁があり採用されました。


結果を受け取った日、私は日本での安定した生活を手放して帰国するかを、非常に悩んでいました。しかし、私と妻は、10年近く働いた日本を出てベトナムに戻って仕事と生活をすることに決めました。


メッセージ


 今年の9月から、私はホーチミン市の新しい会社で働き始めます。

今までの看護師の仕事より、チャレンジングな仕事ですが、新しい体験になるから楽しみながら頑張りたいと思います。


人生と仕事は、一人一人の意志と決意に大きく関わってきます。私は新しい機会をチャンスだと考えて行動しますが、それをプレッシャーと考える方もいるでしょう。


EPAの募集があると、よく後輩から挑戦した方が良いかと相談を受けます。私は、行く機会が与えられたら、安定したものから飛び出して挑戦してほしいとアドバイスをしています。患者の世話をする方法を学び、公立病院だけでは見ることができない世界を見ることができます。安全なものを捨てることを恐れずに、チャンスを掴むために飛び込んで欲しいです。失敗しても、やり直せば大丈夫です。しかし、一つだけ覚えておいてもらいたいです。日本に来て不自由ない生活を送るためには、日本語の勉強をしっかりしておくことが大切だということです。


ベトナム、2022年8