初めてのショック

2016年に高校卒業後、貿易大学で日本語を勉強することに決めました。

当時ベトナムでは日本語がブームになっていたことと、英語以外の外国語を勉強したかったからです。


大学に入学してすぐ、日本語サークルに入りました。高校時代は部活動がほとんどなかった学校だったので、サークル活動に憧れがあり、日本語学部の先輩たちともネットワークができ、日本語を学ぶチャンスも出来ると思いすぐに参加しました。学校だけでの勉強では足りないと思っていたので、サークル活動に参加することでコミュニケーション能力など様々なスキルを身に付けました。また、先輩から留学の体験談も聞くことが出来ました。先輩方の話を聞いているうちに、自分も日本に留学したいと思うようになり、国費で日本に留学することを目標に決めました。

 

当時、在ベトナム日本大使館が推奨する文部科学省奨学金は、一番知名度が高い国費奨学金だったので、それに選ばれることを目標としました。この奨学金は、大使館が日本の学校に推薦してくれるものですが、まずは大学が大使館に生徒を推薦し、試験に合格する必要があります。このステップを踏むことで奨学金の生徒になれるのです。


学校から大使館に推薦されるためには、大学でトップの成績を取り、日本語能力も高くなければいけません。そこで私は、推薦されるためにどうすればよいかを細分化して計画を立てました。2年次の全ての科目で良い成績を取ること、そしてそれまでにN2を取得することを具体的な目標にしました。何か月も毎日頑張って勉強し、努力が報われ、学生の中でも数少ないN2取得者と成績優秀者になりました。


学側は学生を3人推薦するのですが、私はそのうちの1人になることができました。その中でも、大使館の試験に合格したのは私だけでした。後は大使館から日本の学校に推薦してもらうだけになりました。今まで大使館が推薦した学生たちは、ほとんどが日本の学校に受かっていたので、大丈夫だと先生が励ましてくれましたが、自分に自信があまりありませんでした。先生たちの励ましで、私も安心し、自分が日本にいるというイメージで計画を立てていました。

しかし、私は珍しく日本の学校に落ちてしまいました。自信がなかったので、やっぱりかという思いもありましたが、自分だけが置いて行かれてしまった気がして、とても悲しくて悔しかったです。

目の前で消えてしまう来日するチャンス

    

衝撃的な結果に1ヶ月くらい落ち込みましたが、このままではダメだと思い始めました。文部科学省の奨学金のチャンスはそれが最後だったので、別の道を探そうと思いました。日本に留学したいという気持ちは変わらず強かったので、貿易大学と日本の学校の交流プログラムに目を付けました。


100%無料の文部科学省の奨学金に比べ、このプログラムは通常、学費は免除になりますが、航空チケットや宿泊費、生活費などの費用は自分で負担する必要があります。その分競争のレベルも低く、選択肢も多くなります。


私は提携校の中から大阪経済大学を選びました。大阪経済大学は寮も無料で提供してくれて、大きな都市なのでバイトも探しやすいと思ったからです。優れた成績証明書と日本語サークルなどにも参加していたことから、私はすぐにプログラムに申し込んですぐに合格しました。ビザも取得し航空券のチケットも取って、順調に準備が進んでいましたが、2週間前になってコロナが流行り始めていたことがきっかけで、学校側が一切外国人の生徒を受け入れないと発表しました。


私は1回目以上にショックを受けました。準備万端なのにチャンスを失ってしまい、「日本との縁がないかもしれない」と落ち込みました。

 

私のように日本留学が中止になってしまった学生たちには、2つの選択肢が与えられました。貿易大学の卒業を保留にして、行けるようになったら交換留学で留学する。もしくは、もう卒業して交換留学は諦めるという2択です。


私は迷いましたが、いつコロナが収まるか分からないので、プログラムの合格を蹴って卒業することにしました。


待ちに待ったチャンス

    

大学卒業後、日本人と取引が多いIT営業の仕事に就きました。日本語の能力を下げないように、仕事でも日本語を使うようにしたいと思ったからです。さらに、営業職は私のような新卒者が、コミュニケーション、交渉、提案などのスキルを磨くのに一番良いと思っていたからです。


その会社で1年くらい働いた頃、いつか日本とは縁があるとは思っていましたが、その日が急に来ました。大学の先生が、新潟の事業創造大学院大学への入学のチャンスがあると連絡をくれたのです。なぜ卒業生なのに連絡をくれたかというと、日本語サークルの活動にも積極的に参加していたし、文部科学省の奨学金に落ちた生徒も珍しかったこともあり、印象深い生徒だったからです。


検討する時間は1日しかありませんでしたが、先輩などに色々話を聞いて考えました。

焦らずにもっとランクの高い大学や都会の学校の方がいいのでは?という意見もありましたが、これはご縁だと思い、先生に連絡して短期間で書類を作成し、短期留学ではなく2年間の大学院生として日本へ行くことが出来ました。


学生時代に2回日本へ行くチャンスを失ったのは、今回のためだったのかもしれないと思いました。前に得た機会の時より期間も長くて奨学金も大きかったからです。2022年10月にビザがおりたとき、日本はまだ入国制限中でしたが、文部科学省の奨学金を受ける留学生は優先的に入国ができる状況でした。そして11月にやっと日本に入国できました。

思い切って日本を楽しむ


 1年くらい前のことですが、日本に入国できた時のことを今でも鮮明に覚えています。

成田空港の近くのホテルでの隔離生活が始まった時、やっと日本だという嬉しい気持ちでいっぱいでした。

 

私が到着した時期はちょうど真冬だったので、新潟は雪がかなり降っていて、とても寒かったです。最初の頃は周りに知り合いもいないし、バイトもしていなかったので、つまらないと感じていました。


でもこのままではダメだと思って、せっかく日本に入国できたから、自ら交流のチャンスを見つけてもっと楽しまないともったいないと思うようになり、春になって温かくなった頃に、サークルや交流活動を探し始めました。ちょうど国際交流会が新しいメンバーを募集しているのを見つけて、すぐに申し込んでメンバーになりました。主な活動内容はベトナムの料理や遊び方などを、学校に訪問して紹介することです。活動頻度は時期によって違いましたが、月に5〜6回参加していました。

 

最近、在日ベトナム人の悪いニュースが日本のメディアで多く流れていたので、日本人の中でベトナム人のイメージが悪くなっているのではと思いました。少しでも自分がベトナムの文化を紹介したりすることで、ベトナム人は悪い人ばかりではないとイメージアップ出来たらいいなと考え活動をしています。

 

国際交流の活動以外にも、時間があるときにはコンビニでアルバイトしたり、新潟に住んでいる技能実習生の通訳の仕事もしています。コンビニのアルバイトは給料はそれほど高くありませんが、奨学金の学生生活だけでは知ることの出来ない、日本や日本人のことを学ぶことが出来ます。


また技能実習生の通訳のバイトを通じてこれまでは留学生のことしか知らなかったが、留学じゃない目的で日本に来ている人がどんなことに困っているのかなど色々知れて、まだ日本に来て1年ですが楽しく過ごせています。今は貿易大学の同窓会の開催などにも協力しています。

メッセージ


 周りの知り合いを見ていても、なかなか私のように、何度も日本に行くチャンスを失う人はいません。その時は落ち込みましたが、振り返ってみると、だからこそ日本での時間を大切にしたいし、色んなことを経験したいと前向きに考えられるようになりました。計画を立てることも大切ですが、人生は予測不能なので予備のプランも準備しておくといいでしょう。


私たちに起こる全ての物事には意味があると考えています。努力しても上手く行かないこともありますが、その意味が分かるまで時間はかかっても、諦めずに上手くいくことを信じて前向きに頑張ろうと思うようになりました。




                                                                                 新潟、2022年11月