ブイ・ティ・クイン
BUI THI QUYNH
ブイ・ティ・クイン
BUI THI QUYNH
Profile & Message
2013年 ベトナムの大学の会計学科を卒業し、ファッション会社で経理として勤務
2016年 神奈川県のYMCA日本語学校に入学
2018年 日本語学校卒業後、国際ビジネスカレッジへ進学
2019年 税理士事務所2社・建設会社1社からの内定を獲得
税理士事務所でバイトしながら、簿記資格の授業も開始
2021年 帰国後、日本企業向けに記帳代行を受託
同時に簿記資格のオンライン授業を継続
2025年 資格試験対策・記帳代行・会計研修の会社を設立
「チームのモットーでもある、ウィリアム・アーサー・ウォードの名言です。
「人が眠っているときに学び、怠けているときに働き、遊んでいるときに備えよう。そして、人が願うだけの夢を、自分は実現しよう。」この言葉を胸に、これからも一歩ずつ、進んでいきたいと思っています。」
日本との縁 ― 人生が動き出した瞬間―
高校を卒業した頃、私の周りには将来のために家族の支援を受けて留学する友人が多くいました。成績が優秀な子たちは、貿易大学や国家経済大学、商業大学といったトップ校に進学し、当時人気だった外国語、金融・銀行、会計・監査といった花形の専攻を選ぶ人も多くいました。一方で、家族の意向で警察官や軍医、医師など、コネや立場が重視される道を選ぶ友人もいました。
そんな中、私はと言うと、あまり裕福とは言えない家庭で育ち、小さい頃から「あるものでやりくりする」ことに慣れていました。大きな夢を語ることもなく、誰かに勝ちたいとも思わず、「普通に暮らせればそれでいい」と思っていました。そうした性格もあってか、自然と「無理のない選択」や「手の届く範囲」を選ぶようになっていったのだと思います。
いまだに忘れられない出来事があります。私が中学生になった年、ちょうど教科書が全面改訂されて、上級生から教科書を借りることができなくなりました。経済的に余裕のなかった我が家では、父が私を先生の家まで連れて行き、「後で必ずお支払いしますので、先に教科書をお譲りいただけませんか」と頭を下げてくれました。その時の教科書は今も大切に保管しています。父との思い出であると同時に、「私は決して簡単な道を歩いてきたわけではない」という小さな証でもあります。
私は本当に「普通の生徒」でした。成績は平均点あたりで、大体7.5前後を行ったり来たり。目立つわけでもなく、特別努力家というわけでもありませんでした。若い頃はそれなりに遊び、勉強も「とりあえず単位が取れればいいや」くらいの感覚で臨んでいました。大学では無名の会計学科を選び、卒業後は月給750万ドンの職場に就職。特別高い収入ではありませんが、その当時の私には「これで十分」だったのです。「そこそこでいい」「安定してればそれでいい」と、本気で思っていました。目標もなければ、大きな夢もありませんでした。ただ、穏やかで平和な毎日が続けばそれで満足だと思っていたのです。
そんな私に、2015年のある日、人生を動かすきっかけが訪れました。仕事中にふとFacebookを見ていたら、昔憧れていた友人が日本の大学院に合格したという投稿が目に入りました。桜や雪の中で撮った写真に写る、自由で自分らしく生きている姿がまぶしく、、気がつけば、心のどこかがざわついていました。
そのすぐ後、大学時代の同級生がBMWの前で撮った写真を投稿していました。背景には広い倉庫とたくさんのスタッフが映っていて、羨ましさと、少しの焦りが胸に込み上げてきました。
今思えば、あの頃の私は、物事とても単純に見ていたのかもしれません。誰かの成功を見て、「すごいな」とは思っても、自分自身のことは「今のままでいい」と思い込んでいました。でも、心のどこかで問いかけていました。「私は今、何をしているんだろう?」「このままで、本当にいいの?」「10年後、20年後の私は、どうなっているんだろう?」
その問いは頭から離れず、何日も心に残りました。夜もなかなか眠れなくて、「日本に行きたい」という気持ちだけが、どんどん膨らんでいきました。今いる安全な場所から一歩踏み出して、もっと遠くへ行って、自分を変えたい。心の奥で眠っていた「若さのエネルギー」を、もう一度目覚めさせたいと思うようになりました。
何度も勇気を振り絞って、父に「日本に行きたい」とお願いしました。でも返ってくるのは、「ダメだよ、心配だから」という言葉ばかりでした。兄もただ一言、「お前のことが心配だ」と。家族はみんな、私が苦労することを恐れていたのです。
それでも、私は決めました。どうしても、日本に行きたい。行かなければ、今の自分を変えることはできないと思ったからです。
今振り返っても、どうしてあのとき、あんなに強い気持ちを持てたのか、自分でも不思議です。でも、あの「無謀とも言える決断」が、私の人生を動かす大きな転機になりました。新しい旅の始まり。そして、それが今の私をつくる、かけがえのない一歩となったのです。
日本での最初の日々
日本語を勉強したり、バイクの免許を取ったりして、新聞配達奨学金の留学生ビザでの渡航準備を少しずつ進め、2016年についに私は人生で初めての海外へ発つことができました。「日の出ずる国」日本の地を踏みました。
日本語は、本当に難しいです。どれだけ勉強してもなかなか覚えられませんでした。やっとの思いで日本語能力試験の一番下のレベル、N5に合格しました。信じられないかもしれませんが、私はひらがなの「お」と「あ」の違いさえ、4ヶ月間ずっとわからなかったのです。何度見ても似すぎていて、いつも間違えてばかりでした。私はもともと要領が悪くて、何をするにも時間がかかるタイプです。一つのことを何度も繰り返して、ようやく覚えられる、そんな感じの学び方でした。
しかし、日本に降り立った瞬間、それまでの疲れや不安が一瞬で吹き飛びました。今でも忘れられないのが、日本の“空気”です。あまりにも澄んでいて、思わず立ち止まって深呼吸してしまったほどです。うまく言葉にできませんが、とにかく「特別」な感覚でした。
7年間、にぎやかで渋滞の絶えないハノイで暮らしてきた私にとって、車がたくさん走っているのに“静か”な日本の道路は、とても不思議で、少し衝撃的でもありました。
初めての土地、初めての文化、初めての暮らし。すべてが新しいはずなのに、不思議とすぐに馴染めた気がします。たぶん、小さい頃から自然と「一人で生活する力」が身についていたからだと思います。私は13歳のときから両親と離れて祖母と暮らし、自分のことは自分でやるのが当たり前の生活をしてきました。だから、日本に来てからの一人暮らしも、勉強も、アルバイトも、それほど苦には感じなかったのです。
私が日本に来たのは「新聞配達留学」という制度を利用してのことでした。朝刊の配達は深夜0時ごろからスタートして、終了時間は人によって違います。夕刊はだいたい14時半から16時くらいまで。ハードな仕事に思えるかもしれませんが、私にとってはかけがえのない経験になりました。
私は勉強が得意なタイプではありませんが、その代わり、“体を動かすこと”や“仕事をこなすスピード”には少し自信がありました。そのおかげで、ほとんど毎日、配達所の中で一番早く仕事を終えることができましたし、不思議と疲れを感じることもほとんどありませんでした。きっと、「やらされている」のではなく、「自分で選んだこと」だという気持ちがあったからこそ、前向きな気持ちで頑張れたのだと思います。
私が一番誇りに思っているのは、新聞配達のアルバイト中に一度も「配達ミス」や「誤配」がなかったことです。そのおかげで、毎月1万円の特別ボーナスもいただいていました。“丁寧さ”と“責任感”をちゃんと見て評価してもらえたことが、本当に嬉しかったです。
ただ、正直に言うと、一番大変だったのは早朝の仕事でも、バイクの運転でもなく、“睡眠”でした。ぐっすり眠れる夜なんて、ほとんどありませんでした。毎日、睡眠時間を朝と夜に二分割するような生活で、昼間の学校では道中の電車で居眠りする生活が続きました。しかし、不思議と人間は慣れるもので、少しずつ体がそのリズムに順応していき、だんだんと無理なく過ごせるようになっていきました。
そしてご存知の通り、日本の天気はいつも晴れているわけではありません。雨の日も、風の日も、雪の日も、新聞は待ってくれません。「新聞配達」と聞くと、ただバイクで配るだけの仕事に思えるかもしれませんが、実はものすごく根気と集中力が求められる仕事です。決して簡単ではないし、楽でもありません。でも私にとってこの経験は、後の人生の大きな土台になりました。自分の力で乗り越えた日々が、確かな自信へとつながっていったのです。
簿記との出会い
今振り返っても、日本に来るうえで最初に選んだ「新聞配達留学」という道は、自分にとって間違いなく「正解」だったと思っています。仕事の時間帯がある程度決まっていて、時間の使い方にも融通が利いたので、勉強の時間も、ちょっとした休憩も、そして家族との電話の時間も、しっかり確保することができました。
どれだけ忙しくても、私が心に決めて守っていたことがあります。それは、「お金を稼ぐこと」に追われすぎて、本来ここに来た目的“学ぶこと”を忘れないということです。
日本に来てから、私の日本語は少しずつ、でも着実に上達していきました。決して流暢に話せるわけではないけれど、自分でも成長を感じられるようになったのは嬉しかったです。
私は、新聞販売所で余った新聞をもらって帰るのが習慣になっていて、分からない単語があればすぐに辞書で調べていました。折り込みチラシや電車の広告、道端の看板、電柱に貼られた注意書きまで、とにかく目に入る日本語を片っ端からメモして、調べて、覚える。そんな毎日を繰り返すうちに、漢字の学習が“勉強”というより、“日常の一部”になっていました。そして、気がつけば、日本語の授業での読解も、前ほど怖くなくなっていました。
ただ、新聞配達にはひとつ大きな弱点がありました。それは、日本人と話す機会がほとんどないということです。会話力を伸ばす環境がなかった私は、自分でできる工夫をすることにしました。
それが「音読」です。毎日、新聞や教科書、読解プリントなどを声に出して読む練習を続けました。発音はまだ完璧とは言えなくて、例えば「じょう」の音なんかは今でもちょっと苦手ですが(笑)、それでも声に出して読むことで、読む力や話す力が少しずつついてきたと感じています。
そんな毎日の積み重ねが、少しずつ形になっていきました。語学学校に通いながら自宅でもコツコツと勉強を続け、来日から9ヶ月後、私はJLPTのN3に合格しました。その後の試験では、N2にも合格することができました。
もしかしたら、大きな成果とは言えないかもしれませんが、私にとってはかけがえのない「自信」になりました。そして「もっと頑張ろう」という気持ちを強くしてくれる、そんな小さな“ご褒美”でもありました。
日本語学校のスピーチコンテストの表彰状
「人生で、いい先生・いい上司・いいパートナー、3人の“いい人”に出会えたら幸運だ」とよく言われます。
私は、その3人すべてに出会えたと思っています。
語学学校を卒業した後、いろいろな事情が重なり、当初目指していた大学院進学は諦めることにしました。でも私は、「専門学校に進学する」という、より現実的な道を選びました。学びながら生活費を稼ぎ、家族にも仕送りができる道。それが、あの時の私にとって、最善の選択肢でした。
そして、その進路を決めるきっかけをくれたのが、語学学校の先生でした。
毎週水曜日、授業が終わった後に先生はいつも私に声をかけてくれて、いろんな話をしてくれました。ある日、先生に「卒業後はどんな仕事がしたいの?」と聞かれて、私は「日本語学校で働いてみたいです」と答えました。すると先生は、「ベトナムで何を専攻していたの?」と尋ねてきたので、私が「会計です」と答えると、すぐにこう言ったのです。
「では、なんで日本でまた会計を勉強しないの?」
その一言が、私の心に火をつけました。そこから自分でいろいろ調べて出会ったのが、東京国際ビジネスカレッジという学校でした。簿記の分野で評価の高い専門学校で、私は迷わず願書を出しました。
そしてまた、私は素晴らしい人たちに出会います。
東京国際ビジネスカレッジで出会った先生たちは、知識を教えるだけでなく、私に「夢を見続ける力」と「挑戦する勇気」を与えてくれました。かつては「遠すぎる夢」のように思っていた、「日本で会計に関わる仕事をする」という目標も、少しずつ、現実味を帯びてきたのです。
第2の人生の転機
しかし、人生は、いつまでも順調にいくものではないのです。夢を追いかけてがむしゃらに走っていたある日、私の背中をいつも静かに支えてくれていた父が、突然この世を去りました。
離れて暮らしていた私は、父の最期の顔を見ることすらできず、その悲しみはあまりにも大きく、心に深い傷を残しました。きっと一生癒えることのないその傷は、「留学」という選択の代償でもありました。
すっかり自信も希望も失い、新聞配達の途中でバイクを止めて道端で泣いた夜もありました。怖くて電気を消せずに眠れない日もあり、心が折れそうになるたびに、涙が勝手にあふれてきました。あの頃は、人生で一番辛い時期を過ごしていたと思います。涙の量だけで言えば、それまでの人生をすべて合わせたほどかもしれません。
「もう、ベトナムに帰ろうか」と思ったこともありました。
「私はこのままでいいのか?」
「帰ったら、今まで積み上げてきたものはどうなるのか?」
そんな問いが、頭の中でぐるぐると回り続けていました。
それでも結局、私は“進む”ことを選びました。
2019年、専門学校に通っていた頃、私は2つの税理士事務所と、建設会社の経理職から内定をいただくことができました。就職活動では、日本語能力試験N1、簿記2級(当時は1級を勉強中)、MOS(Word・Excel)、秘書検定などの資格を武器に挑みました。
さらに、毎朝の新聞配達という過酷な仕事を、何年も地道に続けてきたことも、企業の方々の心に響いたようです。
外国人が簿記の資格を取るのは簡単なことではありません。その努力が「本気で学んできた証拠」として評価されたのだと思います。
卒業前にもかかわらず、私は入管に就労ビザを申請し、許可を得て、学校に通いながら働き始めました。
卒業式
とはいえ、実務の世界は想像以上に厳しく、最初は会社設立の書類作成や、顧問先への訪問、会計データの入力など、地道な作業ばかりでした。それでも簿記で学んだ基礎知識が役に立ち、少しずつ職場でも自信が持てるようになっていきました。
会計ソフトを活用した効率的な作業環境の中で、仕事の幅も徐々に広がっていきました。試算表のチェック、決算書の作成、確定申告、さらにはお客様への税務相談のサポートまで経験させてもらいました。
中でも特に感謝しているのは、税務を担当していた上司の方です。私が「もっと学びたい」と話すと、国の人材支援助成金制度を使って、消費税・法人税・所得税・相続税などの専門講座を受講できるようにしてくださいました。
それでも、心のどこかではずっと問いかけていました。
簿記を教え始めた最初の頃
「私はこのままずっと日本にいていいのか? 本当にそれでいいのか?」
そんな思いから、私は“ふるさととつながる働き方”を模索し始めました。会社員として働く一方で、少しずつ、簿記の指導を始めたのです。最初はほんの数人の小さなグループで、まるで勉強会のような、ささやかな活動でした。
でも、ふと思うようになりました。
「もし、この活動を“本気で”やってみたらどうなるだろう?」
簿記は、私にたくさんの可能性を与えてくれた資格です。だからこそ、就職に悩んでいる誰かや、キャリアに迷っている誰かの背中を、そっと押してあげられるのではないか。そう思うようになりました。
もちろん、まったく新しい分野での挑戦となります。経験も知識も足りない中で、自分に何ができるのかは正直分かりませんでした。でも、「やってみないと分からない」と私は思ったのです。
失敗するかもしれないし、大変なこともきっとたくさんある。それでも、私はこう信じています。「人は、自分の汗で溺れることはない。」
たくさんの夢と迷いを抱えながら、私はまた新たな挑戦を決意しました。
クインとして、もう一度人生を動かす一歩を。
私はベトナムに帰るという決断をしました。かつてお世話になった税理士事務所でのリモート勤務を続けながら、オンラインでの簿記指導にも本格的に取り組み、新しい働き方をスタートさせたのです。
私は現在、以前働いていた税理士の先生のサポートを続けながら、複数の企業から記帳代行の仕事も受けています。
今の時代、オンラインで仕事をするのは、もはや特別なことではありません。だからこそ私は、「能力と主体性さえあれば、距離は大きな壁にはならない」と信じています。
とはいえ、ベトナムに帰国したからといって、すべてがスムーズに進んだわけではありません。むしろ、困難はたくさんありました。
リモートで税理士事務所の業務をこなす一方、簿記の授業も行い、さらに他の企業とも契約を結ぶ。いくつもの仕事を並行して進めるには、綿密な時間管理が欠かせませんでした。リモートは確かに便利ですが、日本国内のネットワークでしか使えないシステムもあり、設定や代替手段を見つけるのには、思った以上の時間がかかりました。
さらに、数年ぶりのベトナムでの生活に再び慣れることも、心理的には少し負担がありました。けれど、在宅で仕事ができたことは、移行期の自分にとって大きな救いでした。オフィス特有のストレスを避けて、自分のペースで働けたことは、何よりありがたかったです。
「努力し続けること」
私にとっての「運」は、きっとこの言葉の略なんだと思っています。
気がつけば、ベトナムに戻ってからもう6年以上が経ちました。
その間、私は一日たりとも「今日は努力を休んでいい日だ」と思ったことはありません。
最初に教える仕事を始めたころのことを思い出すと、今でもちょっと照れくさくなります。教育経験はゼロ、教材も未整備。Daisoで買った小さなホワイトボードをZoom越しにかざして、手書きで仕訳を教えていました。ネットは不安定で、文字も見えにくい…。それでも、生徒さんたちは真剣にうなずきながら聞いてくれていました。ちょっと笑ってしまうくらい、でも、心が温かくなるような時間でした。
そこから少しずつ、スライド作成、Zoomの有料プラン登録、資料の最適化、教材作成と、毎日少しずつ形を整えてきました。
Zoomでの授業
この道のりで、何より嬉しかったのは、生徒の「数」ではなく、出会えた「人」の多さでした。みんな、出身地も立場も違いますが、ただひとつだけ共通していたのは「もっと成長したい」という強い気持ちでした。
中には、本当に優秀で、謙虚で、常に自分を磨き続けている方もいます。そんな人たちと接するたびに、私はいつも「深い川ほど静かに流れ、実った稲ほど頭を垂れる」という言葉を思い出します。
レベルの高い人たちと同じ空間にいると、自分も自然と「もっと学びたい」「もっと努力したい」と思えます。その環境こそが、私にとっての何よりの原動力になっています。
クイン簿記 オフラインイベント
今、日本にはたくさんのベトナム企業が進出し、ビジネスの可能性はどんどん広がっています。その中で、日本の会計知識、つまり「簿記」は、今も昔も変わらず、事業の状況を正確に理解するための、強力な基盤となっています。
けれど、実務を通じて日々感じるのは、「簿記は、あくまで専門スキルのひとつにすぎない」ということです。実際にはそれ以外にも、多くの資格やスキルが、キャリアを広げ、仕事をスムーズに進めるうえで欠かせない大きな力になります。
だからこそ、私が本当に目指しているのは、「試験に受かるための授業」ではありません。日本で働くベトナム人の皆さんが、自信を持って仕事に取り組み、実力を磨き、そしてその過程で、新しいチャンスと未来の扉が開いていく。そんな「価値ある学びの場」を届けることが、私の願いです。
資格取得の学びを届ける
会社を立ち上げる前、私はただのオンライン講師として、個人で活動していました。それでも、心の中にはずっと一つの思いがありました。
「もっと多くのベトナム人に、資格や実務の知識を届けたい」
特に、日本で働くうえで役立つものを、もっと広く、もっと深く伝えたいと思います。
なぜ、そこまで“資格”にこだわるのか?
それは、私にとって資格が単なる「紙切れ」ではないからです。
努力の証であり、人生の可能性を広げてくれるものです。まさに、自分の進む道を照らしてくれる“道しるべ”だと思っています。中でも簿記のような資格は、日本語の読解力、論理的な思考、計算力、そして何よりも「丁寧さ」と「継続する力」が求められます。実際、何度も挫けそうになった生徒さんもいます。でも、私はいつもこう伝えています。
「難しいからこそ、挑戦する価値があるんです。」
これからは簿記に加えて、もっと実務に近い内容にもチャレンジしていきたいと思っています。
たとえば、MOS(Word/Excel)、給与計算、所得税、ファイナンシャルプランナー(FP)など、日本での仕事や生活に直結するスキルや資格です。
私自身も、今年の8月に「簿記論」にチャレンジする予定です。これは税理士試験の一科目で、より専門性の高い内容になります。
私は特別な才能があるわけではありません。でも、「最後までやり抜く人」でありたいといつも思っています。たとえスピードが遅くても、自分のペースで、一歩ずつ前に進んでいきたい。その道の途中で、同じ目標を持つ皆さんと出会い、一緒に歩んでいけたら、こんなに嬉しいことはありません。
私は、日本で簿記を教えた最初のベトナム人ではありません。しかし、Zoomを使って本格的にオンラインクラスを開講した最初の一人であることを、私は誇りに思っています。
そして、その小さな一歩が、やがて「ベトナム人のための簿記学習コミュニティ」の広がりにつながったことを、心から嬉しく思っています。
今では、私のクラスから簿記に合格した生徒の数は、「数百人」という言葉では表しきれないほどになりました。
もしかすると、世の中から見れば小さなな実績かもしれません。でも、私にとっては、そのひとりひとりが「人生の証」です。そして、そして、確かにベトナム人コミュニティの未来に、小さくても力を注ぐことができたと実感しています。
メッセージ
この文章を書いているのは、自分の努力を誇るためではありません。ただ、今この瞬間、不安の中で立ち止まりそうになっている誰かに、少しでも励ましを届けられたらと、そんな思いからです。
「このまま勉強を続けて意味があるのかな?」
もし、そんなふうに悩んでいる方がいるなら、私はこう伝えたいです。
「学べるうちに、学んでください。」
そして、今という時間を使って、自分自身を少しでもアップデートしていってください。なぜなら、「自分の価値」というのは、誰かに“価値を届けられる存在”になったときにこそ、本当の意味を持つからです。
私の活動は、偉人たちのように歴史に残るものではないかもしれません。 でも、小さな貢献の積み重ねが、やがて大きな力となって、強く豊かなコミュニティをつくっていくと、私は信じています。
現在の授業風景
クイン簿記チーム
そして、その貢献は、たったひとつのものから始まります。それは、「まっすぐな心」です。私自身、いつも胸に刻んでいる言葉があります。 それは、私たちチームのモットーでもある、ウィリアム・アーサー・ウォードの名言です。
「Study while others are sleeping; work while others are loafing; prepare while others are playing; and dream while others are wishing.」
「人が眠っているときに学び、怠けているときに働き、遊んでいるときに備えよう。 そして、人が願うだけの夢を、自分は実現しよう。」
この言葉を胸に、これからも私は一歩ずつ、進んでいきたいと思っています。
ハノイ、 2025/05